第368話歎異抄 すべてよろづのことにつけて

(原文)

すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひ を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねは おもひいだしまゐらすべし。

しかれば念仏も申され候ふ。これ自然 なり。

わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力に てまします。

しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物 しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。

(意訳)

全て万事において、浄土に生まれ変わるためには、知ったかぶりなどはしないで、単純に自分がどうのこうのではない「阿弥陀如来の御恩が深く重いこと」を、常日頃に思うことが良いと思います。

そうすれば、念仏も自然に口をついて出てきます。

そしてこの自然が、阿弥陀如来の本当の御力のお働きなのです。

大事なことは、わたしたち自身が、あれこれと余計なことを考えないこと。

それを「自然に」と言うのです。

それが、そもそも「他力」ということになります。

ところが「自然に」という働きについて別の解釈があるかのように、物知り顔で主張する人がいえうようですが、本当に呆れてしまうことです。


さて「自然」については、中世日本では様々な解釈があったようだ。

・自らの意思とは関係なく現象が生じる。

・「おのずから、しからしむ」つまり「必然」に近い解釈。


しかし他力を基本とする阿弥陀信仰においては、「自らの意思とは関係なく現象が生じる」、つまりいつのまにか、そうなっているのほうが、わかりやすい。


阿弥陀如来を信じ、その名を唱える生活をはじめれば、いつのまにか何も考えずに念仏が口から出てくる、そして何も考えることもなく浄土に生まれ変わる。


法然は、一切経(七千余巻を有する様々な仏典)を何度も読み返して、この単純な念仏行を見出した。

当時の比叡山や南都の高僧と宗教問答を何度も行ったけれど、法然以上の仏教知識がある僧侶はいなく、全て法然により論破されたという。


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