第367話歎異抄 口には、願力をたのみたてまつるといひて
(原文)
口には、願力をたのみたてまつるといひて、 こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますとい ふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほ どに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の 生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。
信心 定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、 わがはからひなるべからず。
わろからんにつけても、いよいよ願力 を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出 でくべし。
(意訳)
口先では阿弥陀如来の御誓願を頼むと言いながら、心中では阿弥陀如来の「何とかして悪人を助けたいという御誓願」はやはり善人を助けるのではないかと疑っているので、他力を頼む心が損なわれ、その人が浄土に生まれ変わっても中心を離れた辺地にしか生まれ変われない状態になるのです。
これは、本当に情けないことと嘆くべきと考えるべきでありましょう。
阿弥陀如来の御誓願を信じ切ることが出来るならば、念仏の行者を浄土に生まれ変わらせるのは、「阿弥陀如来の役割」になるので、そもそも私たちの考えがどうのこうのというものではないのです。
どうしても悪業から離れられない私たち自身を自覚し、ますます阿弥陀如来の本願の御力に頼れば、他力の道理により「柔和忍辱」の心も生まれてくることでありましょう。
阿弥陀如来を信じ切り、全ての判断を任せる。
人間が行う、他者に対する判断(裁き)、自己判断(自己批判)は、どこまで正確なものなのだろうか。
人間は、自分の主観により、どうしても自分に都合の良い判断を下す傾向がある。
「自分は悪くない、相手が悪い、環境が悪い」
あるいは、自分を責めすぎる場合もある。
「自分がいたらない、自分が悪い、情けない」
ただ、その判断は、どれほど正確なのか。
そもそも、刻々と変化していく無常の世界において、長い歴史の中の、一時点だけの対象に何故こだわるのか。
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