第366話歎異抄 一切の事に、あしたゆふべに廻心して
(原文)
一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生を とげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずし てをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざ らんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせ おはしますべきにや。
(意訳)
全ての事に関して、「朝と夕に心を改めて往生を遂げなければならない」と考えるとなると、人間の命というものは出る息、入る息を待たずに終わってしまうものですので、臨終に臨み、「柔和忍辱」の境地ではなく死んでしまった場合は、阿弥陀如来の摂取不捨の御誓願は無駄になってしまうとでも言うのでしょうか。
こと臨終に際して、呼吸も定かでない状態で、「柔和忍辱」などできるのだろうか。
そしてそれができず、念仏もできなければ、往生もできないのだろうか。
阿弥陀如来の御誓願は、その名を唱える全ての人を摂取不捨、救う。
しかし、特に臨終の時にせよとは、一言も言っていない。
そのありがたい教えを勝手に自己流に解釈しているのではないか。
そもそも摂取不捨は阿弥陀如来の御誓願に基づく、阿弥陀如来の判断する行為である。
それを、煩悩に満ち溢れた人間’が、判断すべきものだろうか。
臨終の際に、僧侶を呼び、読経をさせ「布施(金品)」渡さないと、往生できないなどという考えが、当時はあったらしい。
そうなると、そんな余裕がない人は、一切救われなくなってしまう。
そして阿弥陀如来の御誓願も、その考え方のために、無駄になってしまうのではないか。
この部分は、念仏者よりも、旧来の僧侶への警告なのだと思う、
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