第370話歎異抄 仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、
(原文)
仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、大小仏になるべし いふこと。
この条、不可説なり、様々比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。
かの 安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方 便報身のかたちなり。
法性のさとりをひらいて、長短・方円のかた ちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにを もつてか大小を定むべきや。
(意訳)
仏法を教えてもらう道場や寺院に寄進を行う金品の多いとか少ないとかにより、大きな仏になる、あるいは小さな仏になるという主張は、まさに言語道断であり、様々な理由から道理に反していることであります。
そもそも第一に、御仏の大小を区別するなどは、不可能であります。
浄土における教主の阿弥陀如来の大きさがどれほどであるか、それは経典に説かれているところではありますが、それについては人間の理解に対応するために書かれた方便としての姿なのです。
阿弥陀如来の本質(法性)は、長短方円という形では表現ができず、靑黃赤白黒という色もありません。
そういうことなので、ましてや大小を決めることなどはできないのです。
布施が多ければ、往生してから大きな仏になる、少なければチッポケな仏になる。
そもそも、その考え方のほうが情けない。
とにかく布施を多く差し出した人を「優遇」する考え方と思う。
確かに我が身を削って布施をする、困っている人を助けようとする姿は尊いものがあるけれど、単に極楽往生へのランクとは、金銭の多寡で決まるものなのだろうか。
ただ、その考え方は、現代の寺院関係者にも、強く残っている。
檀家の中でも役員クラスの家に対して「京都で僧侶の集会があるから、そこで自分が着る着物代」を、ほぼ強制で数十万円単位で、割り当てた住職もいるそうだ。
つまり数百万の着物になる。
そうなると、何のための仏法なのだろうか。
僧侶のメンツのため。呉服商の儲けのために、布施や仏法があるのだろうか。
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