第360話歎異抄 摂取不捨の願をたのみたてまつらば
(原文)
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いか なる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、す みやかに往生をとぐべし。
また念仏の申されんも、ただいまさとり をひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたの み、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。
罪を滅せんとおもはん は、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他 力の信心なきにて候ふなり。
(意訳)
阿弥陀仏の摂取不捨の御誓願を信じお願いする人であるならば、どのような予想もできないことが発生してしまって罪業を犯し、念仏もできずにそのまま絶命することになっても、速やかに浄土に生まれ変わることができるのです。
また、臨終の際に、念仏ができるという場合があります。
それは、ようやく悟りを開く時期が近くなり、そのため阿弥陀仏をますます頼み、その御恩に報いようとするためであるのでしょう。
しかしながら、念仏により罪を滅しようと思うのは「自力救済」の考え方であって、そのような考え方を持つ人は、臨終の時にも妄念が起こらないように平静を保ち、阿弥陀仏の来迎をかねてから「自らが」決めているということになります。
そして、彼らは「他力」の信心は持ち合わせておりません。
念仏を自らの「罪の滅罪道具」として「使用」する。
念仏を阿弥陀仏来迎のための「呼び鈴」として「使用」する。
となると念仏も阿弥陀仏も、往生のための道具に過ぎなくなる。
それが、本当の「信心」なのだろうか。
どこか、「傲慢な」印象を受けるのは、私だけなのだろうか。
やはり難しいことは考えず、素直に阿弥陀仏を信じ名を唱える、それだけのほうが清らかに思えるのだけど。
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