第361話歎異抄 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

(原文)

煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。 この条、もつてのほかのことに候ふ。

即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。

六根清浄はま た法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。

これみな難行上根のつ とめ、観念成就のさとりなり。

来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心 決定の通故なり。

これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

(意訳)

煩悩にまみれた身体のままで、浄土に生まれ変わる以前に、この世で既に悟りを開くことが出来るという考え方がありますが、もってのほか、論外なことになります。

生きたまま悟りを開くという「即身成仏」は、密教の根本の教えであり、それは特別な修行をやり遂げた結果なのです。

また、人間の目や鼻などの六つの器官を清らかにする六根清浄とは、法華経の教えであるのですが、それも善行と慈悲行を行った結果からもたらされる成果なのです。

それらのいずれにしても、かなり優れた人だけが実践できる「難行」であり、仏教の教えの奥深い真理を理解できることにより、得られる悟りなのです。

一方、私たちの「他力」の教えでは、悟りは死後に浄土に生まれ変わってからのことになりますし、それは阿弥陀仏への信心により導かれることになります。

そして導かれるこの道は、「易行(簡単な行)」であって、優秀ではない人でも実践できる行であり、善人・悪人の区別など関係がなく、全ての人を救うという阿弥陀仏の御誓願によるものなのです。


法然、親鸞の時代は、現実に出家して、本来世俗には関係のない仏門に入り、修行を積んでいるはずの僧侶が、実は煩悩まみれであった。

南都の僧侶たちは神輿をかついて朝廷に強訴を繰り返し、法然、親鸞が学んだ比叡山もまた同じ、乱暴狼藉を欲しいままにしていた。

そして、彼らが求めるものは、彼ら自身の名誉と利益。

戦乱や飢饉で苦しむ庶民などには、全く目を向けず、そむけてしまう。

そんな状態で、何が即身成仏で六根清浄なのか。

生きることに必死で、そんな特別な修行などしている余裕がないし、そんな資質を持ち合わせていない人々は、救われなくてもいいのだろうか。


法然、親鸞が広めた「簡単な行、念仏」に、普通の苦しむ人が多く集まった理由が、よくわかる。

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