第359話歎異抄 念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは

(原文)

念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を 消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。

もししからば、一生 のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることな ければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。

ただし業 報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病 悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。

そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。

(意訳)

念仏を唱えるたびに罪が滅すると信じることは、それ自体が自分の力で自分の罪を消して、浄土に生まれ変わろうとすることではないでしょうか。

仮にそれが正しいとなると、私たちの一生の間に思うことの全てが、迷いの世界につなぎとめる絆であるし、煩悩であり罪の原因でもあることから、命が尽きる時まで始終念仏を絶やさないことが往生の必須条件となってしまいます。

そうはいっても、業の報いというものは定まっていて自由にはなりませんし、全く予想外の事件に出会うこともあります。

病気の苦しみや、苦痛が心身を責めつけて、臨終の際には、正気を保てない場合もあるでしょう。

そして、その場合になると念仏を唱えることも困難になります。

そういう間の罪は、どうやって滅するべきなのでしょうか、そして罪が滅しなければ、往生はできなくなるのでしょうか。



法然、親鸞時代の民間信仰では、死後の世界に赴くためには、この世の罪を消さなければならないと考えられていた。

つまり、この世の穢れを持ったままでは、死後の世界にも入れず、ましてや救済などはあり得なかった。

三途の川の祓いや、死者の追善供養も、この考えに基づく。


しかし、死の瞬間に、全ての人が穏やかであるとは限らない。

病苦や怪我の痛みで辛く、念仏どころではない場合もある。

臨終にあたって苦しみきった表情の場合もある。

そういう人は「仏の来迎がなかったから」そういう結末となったのか、すくわれなかったのか、念仏を唱えなかったから罪が滅しなかったのか。


法然は、常日頃の念仏により往生が決まるという。

臨終の時に悪相であろうと、苦痛の表情であろうと、阿弥陀如来を唱える生活をしてきていれば、かならず阿弥陀如来により導かれると説いている。

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