第丗一篇 空中散布
「え? 成約しなかったのか?」
ランチタイムの食堂で、営業第二課長は社長秘書から聞かされた話に驚いていた。
「楽そうな仕事だって聞いてたのに、ぬか喜びか」
「ごめんね」
秘書が悄然と肩を落とすが、元より彼女に責任のあることでないことは課長も承知している。
この会社の特殊性から、契約条件で揉めることは珍しくはあったが皆無ではない。不思議なことに、大口顧客になればなるほど素直に条件を丸呑みしてくれることが多く、今回もやはり新規の顧客だったらしい。
「ご新規さんはなかなかウチの流儀を理解してくれないことが多いんだけど、今回は社長も結構厳しかったから」
「へえ。社長が……」
社長は表向きの合法性には
お陰様で、現場組は伸び伸びと仕事ができる。管理職の仕事とは部下の労働環境を整え、気持よく仕事をさせて成果を上げることだ、とは社長も常々口にしており、まさに有言実行と言えた。
その社長と揉めたということは、あまり真っ当ではない依頼主だったのか。
「怪しい会社だったのか?」
「ううん、
「まあ、化学なら取引はあるだろうな」
化学企業と軍の縁は深い。そもそも火薬・爆薬を開発・製造しているのが化学企業だし、それ以外にも実に多様な化学製品を軍では使用している。需品も、兵器も。
「今回の依頼も、その線からの紹介だと思うんだけど」
その割には物分かりが非常に悪かった、と秘書は溜息を吐く。
「ふうん。妙だな」
「そうなのよね。お陰で社長も頑なになっちゃって……」
「ご新規さんにナメられるわけにもいかないしな。その辺は仕方ないよ」
とはいえ秘書としては、獰猛な笑顏を浮かべて相手方の法務とやり合う社長の間近に控えねばならず、生きた心地もしなかった。相手企業担当者の蛮勇は秘書の心に強く印象づけられたものだった。後で
「そもそも業務内容に〝支障の排除〟を入れてくるなら、
「そりゃぁ――」
課長は言葉に詰まった。
一般社会なら〝支障の排除〟と言えば、道を塞いでいる倒木を排除するくらいの話だろうが、
「法の範囲内で? 冗談だろう?」
やれと言われてやれないことはないが、そういう仕事は畑違い、どちらかといえば
「それは隨分と怪し気な話だな」
近くの席で食後の珈琲を嗜んでいた部長が、席を寄せてきた。
「仕事自体は適法なものだったんだろう?」
「ええ。だから免責は必要がない、って、その一点張り」
「支障の排除が必要になるような
もちろんそういったケースがないわけではない。相手が反社会的組織だとか反国家的組織だとか、そういう場合だ。だがそうは言っても、裁判もなしに勝手に始末すれば今度はこちらが罪に問われるのが法治国家のルールというもの。
そういう時には簡易裁判権を手にし、略式裁判で死刑判決を出して、どこまでも
「どうにも座りの悪い話だな。不実の
「同感です」
こういう業界だ。誰だって秘密の一つや二つはある。そのことについてとやかくは言わない。だが、面倒事を外注に出すのであれば、誠意を見せなければいけない。言を左右にして取るべき責任を回避し、不都合を下請けに押し付けようなどという不誠実な態度には、
そのような双方にとって不幸な未来が訪れないためにも、依頼主には聞き分けの良さが必要なのだが。
「しかし社長がよくそのような交渉に時間を費やしたものだな。普段ならさっさと切りそうなものだが」
社長の損切り判断の早さには定評がある。儲け話だからといって、そこまで固執するのは何か理由があったのか。
しかし目で問われた秘書も、首を傾げるばかりだ。
「その辺はよく分からないんですけど、ただ、やはり案件が魅力的だったのではないかと。先方が業界慣行に迎合してくれれば、優良顧客になったかも知れませんから……」
「教育ですかね」
この会社の業務に含まれる
「免責が出せないなら〝表示外成分の混入がないことを確認する権利〟を認めろって社長が言った時なんか、向こうの法務が顏を真っ赤にしてましたよ」
「化学企業相手に製品分析させろとか、無茶苦茶だな」
いい気味だ、と課長が笑い、部長も釣られて鷹揚に笑った。
「まあ、交渉決裂となったんだ。残念だが、今回の仕事は他社に譲ってやることにしよう」
「そこで失敗してウチに泣きついてきたら、もっと
三人の爽やかな笑いが食堂に流れ、昼食時間は終わりを告げた。
「さあ、午後の仕事の時間だ。気怠い午後には楽な仕事があれば良かったのだがね」
「全くです」
「残念でしたね」
本当に、と秘書はくすくすと笑う。
「森林に農薬を撒くだけの、簡単な仕事だったんですけどね」
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