第廿八篇 代替不可能

 合州国大統領は、連邦行政職員並びに軍人の人事権を掌握する。高級職においては議会同意人事もあるが、基本的には全ての役人、軍人の任免権がその手に握られている。

 とはいえ、それは飽くまで法制上の話であり、実際に大統領が人選するのは自分の目が届く範囲の高級人事であり、その先であれば政党や各種支援団体からの推薦などに基づくし、連邦行政府の平職員や末端将兵ともなれば一人一人の人事を吟味したりはしない。そういった区区たる人事は、当該官衙の人事部局で規定通りに編成され、大統領は最後に承認するだけである。

 勿論、だからといって大統領の責任がなくなるわけではない。合州国大統領は連邦の行政権を一手に担い、必然として全責任もまた最終的に大統領が負うのである。

 それがたとえ、彼の預かり知らぬところで事務的に処理された案件であっても、だ。

「もし気づかずにサインをしていたら、私の名は悪名として歴史に刻まれたことだろうな」

 すでに手遅れかも知れないが、と心の中でだけ呟いて、彼は書類を前に頭を抱えた。

 それは空軍省から回ってきた配属案であり、すでに空軍長官、国防長官の署名までが書き込まれており、後は大統領の署名を残すばかりだった。もし大統領の注意力に僅かな油断があれば、この書類は〝何事もなく〟裁可されていたことだろう。


 いつもなら十数人の閣僚が参集する会議机の端に、非公式かつ極秘裡に呼び出した国防長官と統合参謀本部議長、中央情報長官が揃ったところで、大統領は重々しく切り出した。

「この人事案について諸君らの見解をただしたい」

 さては将官の昇進人事案に議会で揉めそうな人物でもいたのかと身構えた三人の前に提示されたのは、この六月に空軍士官学校を卒業して少尉任官する新任士官の人事であった。

 通常、このようなものは、人事局で検討され、その後は機械的に処理されるものだ。物珍しいといえばこれが空軍独立後最初の空軍士官学校卒業生の人事だ、ということくらいだが、それとて陸軍航空軍のころからの延長線上にある〝通常業務〟に過ぎない。軍政を担当する国防長官とてその程度の業務は部下を信頼して、自分では碌に目を通さず署名をしただけのこと。確かに厳密には職務怠慢と言われるかも知れないが、千人近い学生の卒業人事を一々検討していられる程暇ではないのだ。

 つまり担当者の責任追及が自分の仕事になるのだ、と理解した国防長官が代表して口を開く。

「何か問題が?」

 しかるに大統領の態度は、常ならず強硬だった。

「私はこの人事が、誰によって判断がなされたのか、と訊いているのだ」

「誰に、とは……」

 それを言い始めれば、人事局で草案を作った担当者ということになるだろうか。そこから順々に、何段階もの裁可手続きを経て、今この書類はここにある。途中の全員に異存がなかったということであり、そういう意味では全員が同意しているとも言える。

「この場に居るのは最高機密権限保持者だけだ」

 大統領はそう改めて宣言した上で、リストの中の一人を指し示した。

〝ターシャ・ティクレティウス〟。

 卒業席次は首席。

 配属先は戦略空軍。

 数秒間、その名前が示す実体を思い出すのに時間が必要だった。

 何しろそれはカバーネームであり、彼らはその名前で対象を呼ぶことが殆どなかったからだ。いや、本名ですら口に出すことはなく、常に指示代名詞やコードネームで済ませていた。

 その名があまりにも忌まわしき記憶を伴うが故に。

 大統領も例に漏れず、その人物を代名詞でのみ示した。

「〝奴〟だよ」

 それで充分だった。

 集められた軍首脳陣は、固体化した空気の中で凍りついた。

 柱時計の振り子が時を刻む音が二桁に達した頃、最初に声を絞り出したのは中央情報長官だった。

「……空軍の人事は一体どうなっているのかね?」

「無論、厳正な考課のもとに行われている」

 むしろこれはその公正さが機能した結果だと、国防長官は己の無謬を訴える。まだ女性に対して開かれているとは言い難い武官職の門戸を、成績考課だけを基準として差別なく開け広げてみせたのだ。いかなる男女同権主義者フェミニストもケチを付けられまい。

 ただ一点、誰も彼女についての機密事項を知らなかった、というだけだ。

「〝奴〟を戦略空軍に配属する?」

 統合参謀本部議長が目を剝いた。

「『盗人に蔵の番』どころの騷ぎではないぞ! 〝奴〟を核に手の届くところに配属しようなど……」

 議長は、核兵器を搭載して核パトロールに出発する戦略爆撃機の操縦桿を握る〝奴〟の姿を想像して、身震いした。それは悪夢という表現では生温い、地獄のあさあけの光景だった。

「しかし分かるだろう? 今や戦略空軍は対連邦の最前線、最良の士官が最優先で配属される」

 国防長官の言葉は、確かに理に適ってはいた。全く否定のしようがなく、その方針に異論があるわけでもない。

 空軍士官学校、その栄えある第一期生の首席卒業者が、満座の祝福を受けて戦略空軍に席を占める。それは間違いなく空軍、そして合州国軍における一つの栄冠であったことだろう。それが〝奴〟でさえなければ。

 再び降りた堅い沈默を、大統領が静かに切り裂いた。

「〝奴〟との取引ではないのだな?」

 念を押す大統領に、三者がお互いを窺い、数瞬の後に揃って首を振った。

「そのような取引があったとは、知らされておりません」

「そうか」

 大統領には、苦い記憶があった。

 それは終戦間際のこと。

 当時副大統領だった彼は、前大統領の突然の死とそれに伴う大統領昇格という覚悟のまだ決まり切らぬ間に、様々な外交上の決断を。過去に官邸スタッフとしての経歴のない新人副大統領が、就任僅かな期間で大統領に昇格したのだ。内政外交の基本的な知識がととのっていなかった彼に、前大統領から引き継いだ閣僚から次々と突き付けられた〝前大統領の遺命〟。怒涛の情報奔流に熟慮検討の時間も与えられず、とにかく喫緊の課題を前任者の政策継承という形で乗り切った後になって、彼はいっそ出鱈目と言うべき取引に署名させられていたことに気付かされたのだ。

 後で落ち着いて考えれば、諸々の問題があったとしてもその決断が必要であったろうと自身を納得させることこそできたものの、しかしだからといって大統領昇格のに合州国の未来に重大な影響を及ぼす決定をという意識を捨てることはできなかった。

 機密費一億ドルの支出などはその最たるものだ。前大統領の裁可を受けていたなどと説明されたが、本当かどうか怪しいものだと思ったものだ。

 戦後世界のあり方にかかわる、重大な決定だった。

 冷たい戦争と呼ばれる現在の世界情勢を考えれば、旧大陸の秩序回復、経済復興を促すそれらは全くの正答ではあった。しかしその裏には、旧帝国の残党〝バルバロッサ〟との極秘裡の取引があり、そしてあの〝サラマンダー〟の伏毒があったのだ。普段は考えないようにしているが、本当に前大統領が病死だったのかを疑ったことも一再ではない。

 無論、どのような経緯があったにせよ、全ては言い訳だ。最終的に決定を下し、それを裁可したのは合衆国大統領たる彼であり、その責任を免れ得るとは思っていなかった。

 それ故に、彼は今非常に慎重になっていた。

「そうだとすると、これは〝奴〟の計略の可能性があるな」

 大統領の呟きが、室内の空気を一層沈滞させる。

 空軍士官学校で首席を張れば、戦略空軍に配属される可能性が極めて高いことは容易に想像がつく。それこそが〝奴〟の狙いであった場合、これを阻止すると敵対行為と看做される危険性がある。

 看過すれば〝奴〟は核に手の届くところに辿り着き、さりとて下手に阻害すれば〝奴〟は撃発し、合州国に対して牙を剝くことだろう。

「大統領閣下、これは極めて慎重な判断が求められる案件です」

 嫌な汗を浮かべながら中央情報長官が言わずもがなの言葉を溢す。

「〝奴〟の子飼いは少なからず国内に潜伏しております」

 偽装身分を得て合州国に入り込んだのは、〝奴〟一人ではないのだ。

「先手は打てるか?」

「ご命令とあれば検討はしますが……」

 統合参謀本部議長は苦悶の表情を浮かべる。

「全員を一斉に、というのは不可能かと」

「頭を狩れば止まらないか?」

 国防長官が一縷の望みをかけてそう言ってみたが、「それが一番難しい」というにべもない答えが返って来ただけだった。

 大統領は角度を変えて質問を重ねる。

「〝奴〟を戦略空軍に配属した場合、核の奪取を防げるか?」

「不可能です」

 空軍基地の警備は極めて厳重、核兵器保管庫はそこから一段厳しく警備されてはいるが、核パトロールに出撃する爆撃機に搭乗されてしまっては手も足も出ない。核爆弾に跨って、悠々とカウボーイハットを振りながら爆撃機から脱出してく姿が容易に想像できる。

 核を手に入れた〝奴〟が何をするか? 合州国はすでに学習済みだ。極めて高い授業料を支払って。

 無意識だろう、ポケットに手を入れて煙草を取り出そうとした中央情報長官は大統領に目で制され、仕方なく手持ち無沙汰になった指を組んで、両親指を突き合わせた。

「再び核を手に入れた〝奴〟が何を要求してくることか」

 ぎりぎりのところで神への冒瀆を自制する中央情報長官の言葉で、大統領ははたと気づいた。

「そうか……要求だ」

 視線が集まる先で、大統領はかつて穴が空くほど精読したレポートを思い出していた。

 ラインの悪魔、戦争の申し子、ゼートゥーアの懐刀。その戦歴、戦果は凄まじいの一言であり、一度交戦に至れば敵を殲滅するまで止まらない殺戮キリング機械マシーンと化す。その一方で誠実かつ誠意を持って利益を提示すれば取引可能な理知的な側面もある、と。

「〝奴〟とは交渉可能。そうだな?」

「は。確かにそう分析されております」

 事実、莫大な要求こそ呑まされたが〝水道管〟は確かに引き渡されたし、その後の生活にも満足している様子、との報告が上がってきていた。

 その〝奴〟が動きを見せる。それが持つメッセージは、よくよく考えれば明瞭だった。

「つまり、新たな要求があるのだ。この四年間の貢献に報いろ、と」

 国防長官と統合参謀本部議長が大きく顏を歪めた。この四年間、合州国が享受してきた〝奴〟のもたらせし軍事技術上の成果を知悉するが故に。

「いや、しかし……」

「そのような、押し売りを……」

 しかしもう既に多くのプロジェクトが走りだしており、クーリング・オフは不可能だ。いや、たとえ可能であったとしても、手放すには余りにも惜しい技術が多過ぎた。

「中毒になって拔け出せなくなってから代金請求か……まるでヤクの密売屋の手口だ」

「後先を考えずに〝奴〟の知識を享受した我々――私の失態だ」

 また一つ積み上がる責任に押し潰されそうになりながらも、大統領は責任を果たすべく中央情報長官に指示を出す。

「〝奴〟と交渉する。早急に交渉係を選出して欲しい」

「実績のある者がおります。至急手配しましょう」

 推挙された人物が、その重責を栄誉と感じたかどうかは定かではない。

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