第廿九篇 鳥籠

 統一暦二〇一六年。

 ルスマンとロナルドの二人の姿は、連合王国の片田舎にあった。

 駅で借りた僕ヨユウ車は嫌になるほど快調で、乗り心地の悪さの原因は道路状態にあると訴えて止まない。

「おい、本当にこの道で合ってるんだろうな?」

 もう何度目かになる確認に、ジャンが自分のスマホを覗きこむ。

「GPSが正しければこの道の筈だ。それより今度こそ右折で反対車線に飛び込んだりするなよ」

「道路が反対通行なのが悪い!」

 まったく、この国の交通というのは独特だ。

 世界基準合州国と反対側を車が走るだけではなく、ラウンドアバウトなどという信号なしのロータリー式交差点まである。進入方向を間違えて盛大にクラクションを喰らったものの、事故らなくて本当に良かったとしか言えない。

 雲の切れ間から差し込む光に照らされた緑に覆われた大地が遠くまで緩やかに畝り、白い道路が一筋景色を切り裂いている。

 機密指定解除に伴う公文書開示から始まった彼らの取材の旅は、合州国内を飛び回り、旧大陸に足を伸ばし、そしてドードーバード海峡を渡り、なおも続いていた。


 途中で待ち人と邂逅し、そこから更に進むこと数分。辿り着いた場所は、手入れの行き届いていない庭に半ば埋もれつつある、無人の家屋だった。

 昔は色鮮やかだったろうペンキも色あせ、ガラスは曇り室内の様子は窺えない。

 端的に言って、幽霊屋敷一歩手前だった。

「ここが……」

「御免なさいね。昔はちゃんと手入れしていたのだけれど、足腰が不自由になってからは何かと手が回らなくて……」

 杖をつく老婦人が遠来の客に謝るのに、とんでもありません、と二人は恐縮する。

「こちらが突然押しかけたのですから、お気になさらないで下さい」

「何でしたら、こちらで清掃業者を手配しますよ」

「そこまでしていただくわけにはいきませんよ」

 ポケットから取り出した大振りな鍵を扉の鍵穴に差し込んで、ぐいぐいと回そうとするが、錆付いているのか苦戦しているのを見て「代わりましょう」とジャンが手を差し出す。

 流石に壮丁の力なら問題なかったようで、重いながらも錠が外れ、しかし手入れを怠った蝶番が悲鳴を上げる。

「こりゃまた……」

「まずは大掃除からだな」

 カーペットの剝がされた床板の上に厚く堆積した埃を前に、ジャンととロナルドは諦めの息を吐いた。

「本当に御免なさいね」

「いいえ、これも仕事です」

 老婦人に掃除道具の場所を聞いて、ハンカチをマスク代わりに口に当て、二人は邸内への突撃を敢行したのだった。

「仕方ない。これもアンドリュー記者の名誉回復のためだ」

「特ダネが埋もれていますように!」

 一日目は、掃除だけで終わりそうだった。


 夜。

 最寄りのB&Bへ投宿した二人は、体の汚れをシャワーで洗い落とし、疲れた体でベッドに腰掛け、缶ビールを開けて一日の疲れを癒していた。

「酷い目に遭った」

「しかし宝の山だぞ」

 かなり長い間人手が入っていない家は埃にまみれ探索をしているのか清掃をしているのかといった有り様だったが、労苦に見合うだけの成果は見込めそうだった。

 かのアンドリュー記者の遺宅がそのまま残されているらしい、という情報を摑んだのは、例の公開情報の裏付け取材の最中の事だった。

 何しろアンドリュー記者が後半生を賭けて追い求めたネタだ。彼らとしても先行する報道を確認する必要に駆られ、公刊書籍や雑誌記事を当たり、公開情報との整合を取る作業に暫くの間没頭することになった。〝スクープ〟だと思って報じたネタが既にアンドリュー記者によって発表されていた、などという間拔けを演じることをルイス編集長は絶対に許容しない。

 その結果分かったことには、驚くべきことに、アンドリュー記者は幾つもの思い違いや錯誤、回り道を経ながらも、最晩年には〝ターニャ・デグレチャフ〟という名前と共に、そのほぼ正確な実像を推定するに至っていたのだ。

 無論、全ての公的情報が機密とされていた当時、明確な証拠など何一つなく、その言説は妄想の域と片付けられたような代物であったが、情報公開を経た今日から見てみれば、驚異的な精度で真実に近づいていたとしか表現のしようがなかった。

 となれば、アンドリュー記者の遺宅に遺された資料の価値は計り知れない。当時は裏付けが取れない噂程度の情報であっても、現在の開示情報と突き合わせれば何かしらの真実を浮かび上がらせる可能性もある。

 今日、掃除の合間に漁った範囲だけでも、取材スケジュールを記した手帳があって、書籍では匿名とされていた情報提供者の名前が書かれていたりと、新たな発見に溢れていた。勿論、相手が存命という可能性はないが、それでも取材の手がかりにはなる。

「遺族にコンタクトを取ったのは編集長の英断と言うしかないな」

「ああ。これでまた一歩〝怪物〟に近づける」

「〝怪物〟か……」

 ロナルドはぐいっと缶の残りを飮み干すと、次なる缶に手を伸ばした。

「俺から見れば、アンドリュー記者も大概〝怪物〟だけどな」

 カシュッ、と炭酸ガスの拔ける音に紛れそうな声だったが、ジャンは聞き逃さなかった。

「それは一体どういう意味だ?」

「考えても見ろよ。公開された機密が何一つない時分に、あやふやな情報だけを頼りにあれだけ真実に迫る……同じ状況で自分に同じことができたかを考えると、な」

「それがアンドリュー記者の凄さじゃないか」

「凄い、というより、俺は怖いね」

 ぐびっと一杯喉を湿らせ、ロナルドは吐露した。

「まさに〝怪物〟だよ」

 一体いかなる信念がそれを可能たらしめたのか。

「〝怪物と戦う者は、自ら怪物にならぬよう用心したほうがいい〟、か。アンドリュー記者は〝怪物〟を追ううちに、自らも怪物に近づいていたのかもな」

「明日は我が身か」

 昼間交わした老婦人との会話を思い出す。


「晩年の父は、余り良い評価を受けておりませんでしたから」

 本当は、図書館か大学辺りに資料を寄贈したかったのだがと、老婦人は語った。

「引き取り手もなく、仕方なく私がずっと管理してきました」

「廃棄することはお考えにならなかったので?」

「父の遺言で」

 寂しそうに笑って老婦人は首を振る。

「いつか必ず、この資料を求める人が現れるから、と」

 本当に現れるとは思っていなかったのですけれど、とも付け加えたが。

「私も歳ですから、子供たちには私が死んだら処分しても良いと伝えてありました。孫たちなんて、アンドリューの名前すら知らないのですもの。私が天に召される前にお二人がいらしたのは主の思し召しでしょうかしらね」

 乱雑に資料類が積み上がったままの書斎を懐かしそうに眺めやる老婦人の目には、在りし日のアンドリュー氏の姿が映っていたのだろうか。

 壁にしつらえられた本棚には氏の著作がずらりと並ぶ。その先頭の方には、氏の出世作となった大戦関連の書籍。

 まだ二十代の若かりしアンドリュー氏は、従軍記者としてあの大戦を潜り抜け、幾多の名記事を世に送り出し、その名声を確立した。

 戦後はWTNの名アンカーマンとしてテレビ時代にはその顏を知らない国民はいないとまで言われたジャーナリスト。

 しかしその後半生は、綺羅びやかな前半生とは対照的に酷くくすんだものとなっている。

 切掛はWTNで企画された「大戦の真実」を追究するドキュメンタリーだった。企画立案者であり、番組ナビゲータとして大戦の謎と対峙したアンドリュー氏は、取材の途上で『×××××××××××』と遭遇する。戦中の文書のあちこちに、それも決定的な場面に登場する『×××××××××××』。

 後に『11番目の女神』とアンドリュー氏が命名したそれこそが、ターニャ・デグレチャフの抹消されし痕跡だったのだ。

 それ以降『11番目の女神』追究は氏のライフワークとなり、その過程で生み出された幾つものドキュメンタリーが受賞の栄誉に浴することとなった。

 あるいはそれが悪かったのか。

 年を追う毎に氏の『11番目の女神』熱は増進の一途を辿り、それと比例するように、発表される内容は些か受け入れ難いものへと変化していく。

 同時代人が氏を評した言葉に、こんなものが残っている。

『彼はあの〝女神〟とやらに取り憑かれている』

 WTNを退職した後はその傾向に一層の拍車がかかり、彼の著作を出版する出版社も徐々にメジャーどころからマイナーへ、そして『どんな本でも出版する』出版社へと移り変わっていく。

 その頃には最早アンドリュー氏をひとかどのジャーナリストとして扱う者もなく、老いて妄執に囚われた奇人変人、あるいはもっと直截に狂人として扱う者すらいた。

「私たち家族も隨分肩身の狭い思いをしました。もうあんな本を書くのはやめてと訴えたことも一度や二度じゃありませんでした。それがまさか、本当のことだったなんてねぇ」

 しみじみと息を吐く老婦人に、ジャンが勢い込んだ。

「そうです! アンドリュー記者は正しかった! これから氏の名誉は回復されます。私たちはその第一歩となるのです」

「そうなると願っています」

 寂しそうに笑った老婦人は、過ぎし日のことを想っているのだろうか。ロナルドには積み上がった資料がアンドリュー氏の執念の質量に思われてならなかった。


 翌日、再び婦人を伴って旧アンドリュー宅へ赴いたルスマンとロナルドは、邸宅に一歩入った時に奇妙な違和感を覚えた。

「……なんだ?」

「なにか、違和感があるな」

「あら、昨日より綺麗になっているみたい」

 二人が首を傾げる中、主婦歴の長い婦人があっさりとその違和感を喝破する。

 そうだ。

 昨日は掃除こそしたとはいうものの、空気中に漂う細かい埃が、光を反射して室内にキラキラと舞っていたのに、それがない。

「誰かが掃除を……?」

「妖精さんがやったんでなければ、な」

 慎重に箒や掃除機を構えながら屋内を進み、書斎に入ったが一見して異常はない。

「……気のせいじゃないか?」

「かも知れんし、そうでないかも知れん」

 念のため昨日スマホで撮影した写真と室内を見比べてみたが、何か目立って動いたとか消えて無くなったものもない。

 そういえば、と老婦人が言い出した。

「父が亡くなる直前のことでしたが、奇妙なことがありました」

 彼女はそこで少し言い淀んだ後に言葉を続けた。

「入院中の父に、誰かが見舞いに来たらしいのです」

「来た?」

「ええ。病院の誰も見ていないし、面会記録も残っていませんでした。父も何も言いませんでしたが、隠してあったお酒と煙草を楽しんだ様子でした」

 そしてその直後、アンドリュー氏は天に召され、全ては闇の中へと消えた。

「それまであれだけ次作への執念を燃やしていた父が、そのあと憑き物が落ちたみたいに……『時間に委ねることにした』なんて言い出したの」

 氏の著作の全てに目を通した二人には、ちょっと信じられないことだった。遺作となった著作でも、氏は依然としてデグレチャフへの執念をあらわにしていた。

 死を間際にして観念した?

 そんな馬鹿な。

 どんな困難にも負けなかった氏がそんなことで折れるものか。

 一体何があったのか。

 二人の脳裏に〝機密保持〟の文字が乱舞し始める。

 未だに解除されない機密指定。

 まさか、本当に? 冗談ではなく?

 昨日より一層慎重に部屋の掃除を始めてすぐに、ジャンが声を上げた。

「おい、これは……」

 あおぐろいインクで流麗な筆記体が記された、部屋に似つかわしくない、僅かに香の薫る真新しい便箋。震える手で差し出されたその文字を見て、ロナルドは声に詰まった。

『諸君が深淵を覗く時、深淵もまた諸君を覗いている』

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