第廿五篇 偽装道楽
いないと思い込んでいた人の姿を社内で目撃するのは、心臓に良くない。急な病気に
「お早いお帰りじゃないか。もっとゆっくりしてくると思ってたよ」
「あら課長」
廊下をキビキビとした足取りで進んでいた秘書は、速度を緩めて肩を並べてくれる。
「思いの外、早く仕事が終わったの。それで朝一到着で、ね」
秘書の顏色に長時間のフライトの疲れも見えなかったので、課長はつい誤認した。
「意外に楽な仕事だった?」
「まさか!」
親会社とその提携企業が、特急料金、時間外労働手当、航空特別手当、海外赴任手当等々を全部コミコミで言い値で払ってきた依頼だ。
楽な道理はない。
「久しぶりに社長が
素っ気ない言葉が表す狂気の事態がまざまざと脳裏に描き出され、課長はゴクリと唾を飲んだ。
「そりゃぁ……怖いな」
社長の本気。
一体誰がそんなものを間近で目撃したいと思うだろうか。
立ちはだかるもの一切合財を神々しく粉砕する社長の姿を記憶に焼き付けられた者は、敵よりも味方の方が多かったに違いない。なにしろ、敵の多くは記録になってしまったから。
きっと今回も、多くの障害が記録上の数字になってしまったに違いない。
「じゃあ社長はご機嫌なのかな?」
そっと本題を切り出して、秘書の表情を窺う。
この会社では、社長が上機嫌であれば大抵何の問題も起きない。機嫌が悪い時や、逆に機嫌が良過ぎる時は注意が必要だ。
今回の特急仕事のために
『業務を管理するのが仕事である管理職が現場に出るのは、労務管理の破綻を意味するのだぞ』
『帰ってきたら、社員教育を見直さないといけない』
社長拔きで現場を回せるようになれ、というのは、一般企業であれば当然の要求であろうが、ことこの会社に関しては厳しいものがある。なんといっても最大最強の能力を有しているのが社長本人だからだ。
社長拔きで業務を回せるよう社員教育が行われることになるかも知れないと聞かされた部長は頭を抱えていた。当然、中間管理職たる課長も頭を痛めていたし、現場従業員たちからはなんとか社長を思い留まらせて欲しいと嘆願が上がってきていた。
社長の帰還までに何とかして合理的な棄却理由を構築しないといけないのに、その社長が思いの外早く帰ってきて、不機嫌なままとあっては、社員全員が不幸になりかねない。
「ああ、それを心配してたのね」
社長秘書は腑に落ちた、と、にっこり笑った。
「大丈夫。社長は今日から代休」
ほっと一安心して、無駄な力が拔けた課長に向かって、秘書は続ける。
「戻ってくる頃には、機嫌もきっと回復してるわ」
「そりゃ有難い。一体どんな魔法を使ったんだい?」
社長の機嫌を取るのは簡単なようで難しい。何処に地雷が埋まっているか、余人には理解し難いからだ。それが長年の付き合いのある課長や秘書であったとしても難度はさして変わらない。
「帰りの給油で秋津島に寄ったときに、社長降ろしてきたの」
茶目っ気溢れる笑顏で、秘書はそう打ち明けた。
「それは実に価値のある決断だったな」
昼食時の社員食堂で改めてその話を聞かされた部長は、秘書の機転を褒め称えた。
「多くの社員が救われることだろう」
「恐縮です」
すまし顔でランチプレートをもりもり片付ける秘書がにっこり微笑む。
「この宝石のような時間の間に、再発防止策をまとめてしまおう」
「やはり
剣呑な目付きで同席した課長が提案する。
「コミーと闘うのは本望ですが、共和国の尻拭いまでさせられるのは納得がいきません」
食堂の方々から賛同の声が上がる。
「とはいえ、インデンシナの共和国軍陣地は、副大統領閣下の肝煎りだったからな」
つまり
「そのような副大統領はさっさと失脚させましょう」
どうせ大統領になっても致命的な失敗をやらかしますよ、と課長は
「穏便にやり給えよ。副大統領閣下は反共の戦士であらせられるんだからな。戦局に悪影響を及ぼすような方法はナシだ」
「わかっております」
部長の許可を得て、澄み切った笑顏で退出していく社員たち。
「まったく、しょうがない奴らだ」
「当然でしょう。報いは受けるべきです」
芋と豆とベーコンの混合物を
「そう言ってやるな」
視点が違えば見える景色も違う。現場担当者と上級管理職では、どうしても意見が異なる部分があるのは仕方のないことではあった。部長としてはもう少し課長の成長を促したいところではあったが。
「ところで、社長はいつお戻りの予定だ?」
「特に聞いていませんから、休暇一杯、向こうで過ごされるかと」
「そうか」
嬉しそうに部長は何度も頷く。
「こんどこそ横槍が入らないようにしないとな」
「秋津島旅行をしている社長を呼び戻す事態は、想像したくありませんね」
秘書が苦笑い。
最高のプレゼントを取り上げられた社長がどのような挙に出るのか、神のみぞ知るところだ。
「それにしても社長の秋津島好きも大概ですね」
何がそんなに気に入ったのか、と課長が疑問を投げかけると、秘書は
「秋津島良い所ですよ。自然は豊かで綺麗だし、ホテルのサービスは抜群だし、治安も良いし、物価は安いし」
「そんなに良い所なんだったら、一緒に休暇を楽しんでくれば良かっただろ」
「それは……〝
まあ確かに、民間ナンバーこそ付けているが、色々と訳ありな試作機であるし、民間空港に何日も駐機して置ける機体ではないが。
「おやおや。社長秘書殿とあろう者が言い訳ですか」
「人聞きの悪いこと言わないで」
ちょっと拗ねてみせた後、こっそり本音を零す。
「食事がね……不味いわけじゃないのよ? ホテルのレストランのコースとかは素晴らしいの」
うっとりと何か思い出して、しかし次の瞬間、顏を歪める。
「ただ社長はほら、本場の郷土料理が好みだから……」
「秋津島の本場料理か……私も同行したことがあるが、あれはなんというか、独特だな」
名状し難い複雑な表情を見せる部長。
現地企業からの接待は、大抵、靴を脱いで上がる座敷の上で、マットの上に直接座って
「毎回出てくる生魚のスライスの
「あれ、味ありませんものね」
イルドアのマリネなら、
しかし社長の好物とあっては、付き合わざるを得ない。
商用なら我慢もするが、私用でまで付き合いたいとは思えない。毎食ホテルのコースなら大歓迎だが。
「部長はまだ商談だから良いですよ。プライベートだともっと凄いの食べに行くんですよ、社長ったら」
立ったまま食べるスタンドで黒いスープに浸ったヌードルを音を立てて啜るのは序の口だ。白いヌードルや黄色いヌードルなどをハシゴするのは勘弁して頂きたい。
甘く煮た赤豆のペーストの入ったワッフルはまあ、甘味としては許せるが、ボウル一杯の赤豆甘汁に白いライスケーキが入っているシチューとなると、味覚が反乱をおこし始める。
小さく切った
何より勘弁して欲しいのは、あの、ただの白い米の上に、生卵を――。
ふと気づくと部長と課長が秘書の剣幕に若干引いていた。
「こほん。そういうわけで、秋津島旅行は社長お一人の方が気楽で良いと」
「ああ、うん。良くわかった」
「社長の食道楽に付き合うのも楽じゃないというわけだ」
食道楽、と聞きながら社員食堂を眺め渡す。
従業員三〇〇名という会社の規模から見ると必要以上の收容力を誇る社員食堂は、社外からやって来る研修生もここで食事を摂ることからの要請による。古今東西の料理に精通したシェフが複数名が常駐し、朝食から夜食まで対応する充実ぶり。
最近ではデザートにも力が入り始め、周囲が全て砂漠という娯楽の少ない環境ということもあり、社員たちの精神的健康にも一役買っている。
元々潜水艦等の酷環境を参考に、社長は福利厚生充実の一環として計画していたのだが、そこまでする必要があるのかと疑問に思ったことは確かだ。
しかし今ではこの食堂も、関連企業に開発させた最新鋭マイクロ波調理器具を使ったレシピの作成やら、急速真空凍結乾燥装置を使った新型保存食の開発やらで立派な戦力となっているのだから侮れない。戦場における糧食の重要性は、いまさら説くまでもない。気づけなかったことは迂闊だったが、食堂は兵站部門だったのだ。
だから一見ただの道楽に見える社長の行動にも、自分たちには理解できないだけで、きっと何らかの狙いがあるのだと部長は察知した。
思い起こせば、社長は秋津島でほぼ毎回にように新たな投資先を見つけて来るではないか。
(課長と秘書は、少々油断しているようだな)
今後拡大が予想されるインデンシナ半島問題への対処を考える時、秋津島の地政学的立場は、アジアで唯一の自由経済を奉じる先進工業国として極めて重要だ。合州国からインデンシナへの支援は太平洋を跨ぐことになるが、これを本国から延々輸送するか秋津島で調達するかでは、要する費用・日数が大きく変化する。特に民間企業としてはコスト意識を持って事態に当たらんとすれば、秋津島での調達活動は死活的とも言える。
常日頃帯同する秘書をも置いて単独行を敢行した社長が考えていることが、部長には朧気に見えてきたように思えた。
(秋津島の兵站基地化)
もちろんそれは公的なものではない。飽くまで私企業が投資という形で物資と流通を整備するのだ。そう考えれば、ここ暫くの秋津島への投資の輪郭が綺麗に繋がっていく。
(僕ヨユウ自動車への大規模投資も、その一環というわけか)
自動車やエンジン類の製造・整備拠点が秋津島にあることの利点は計り知れない。そこで得たノウ・ハウは、さらに連邦共和国の関連企業へも株主として移植させることもできよう。
(社長は常に一歩二歩先を見ておられる)
部長は不甲斐ない部下を𠮟ることはせず、一人、〝次〟に心構える。
その時には存分に二人をこき使おうと決意しながら。
果たして、部長の予想通りに開幕のベルが鳴る。
当直社員からの連絡を受けて電話室に飛び込んだ部長は、受話器の先の弾んだ声に自分の予感の正しさを確認する。
『すまん、そちらは夜だったか? うっかり時差を忘れていたようだ』
「お気遣いなく。当直には慣れております」
『……一般社会に馴染むのも大変だな』
秒単位で料金が加算されていく国際電話だ。無駄話をしている時間はない。
『明日イチで顧問弁護士の法律事務所へ行って、秋津島に詳しい者をこちらへ送り込んでくれ』
「はッ。弁護士ですね。訴訟ですか?」
『いや、知財周りだ。必要なら弁理士を付けても良い』
「了解いたしました。今夜中に秘書と課長に手配させます」
『二人も……? いや、手配は任せる』
一瞬、何か言いたげだったが、自分が休暇中であることを思い出したのだろう。留守指揮官の判断に一任することに決めたようだった。
「差し支えなければ、どのような業種か聞いても?」
国際電話は基本的に盗聴されているという前提だ。秘話装置も通していないので秘匿事項かとも思ったのだが、案に反して簡単に伝えられた。
『加工食品だ。ふふふ。これは世界を変えるぞ』
部長は内心したり、と手を打った。
(やはり社長は、秋津島独自の糧食技術の確保を狙っていらしたのだ!)
『だというのに、こっちの連中は知財に疎くてな。ま、おせっかい半分、教育半分といったところだ』
知財権を押さえることの重要さは、合州国で事業を開始してからというもの、何度となく訓示されている。
『合州国内での知財も申請させるぞ。合州国支社と工場を作らせて、世界市場に進出させる』
そうだ。そうやって金を回して
「そこまでの……自分にはどんな食べ物なのか、想像付きません」
『なに、帰ったら食わせてやる。きっと気に入るぞ。では後は頼んだ』
電話が切れたのを確認し、受話器を置いた部長は、すぐに再び受話器を持ち上げる。
寝ている所を叩き起こされる二人が事態の急変に驚く様を想像し、昏い喜びに浸る。
その部長自身、社長の帰国後に、お湯を掛けて三分待つだけという
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