第廿四篇 日暮前

 目の下にくっきりと隈を作ったその男は、閣僚からの報告を聞いて、指で目頭を押さえて沈默した。

 あらゆる情報が、彼の選択肢を奪い尽くす。

 分かってはいても不安そうな表情を隠せない閣僚たちを一瞥し、男は閣議の終了を宣言し、一人巨躯を翻して執務室に籠もる。

 すかさず珈琲を持ってきた秘書を来客の時間まで一人にさせろと言いつけて追い返すと、残された珈琲に手を付けるべく、まず抽斗ひきだしに手を掛ける。もう隨分と、コニャックの入っていない珈琲は飲んでいない。

 カップに中身を思い切り注いだ瓶を抽斗にしまいがてら、別の鍵付きの引き出しから、簡素な用箋綴りを取り出す。タイトルすら白紙の用箋綴りを机の上に放り出し、珈琲入りのコニャックを啜る。

「結局は、予言の通り。彼奴らの掌の上か」

 この〝予言書〟は、男が政権の座に座った時に、恭しく〝新大陸の友人〟が差し出してきたものだ。一体何のつもりかと訝しく思いながらも目を通してみれば、そこには到底受け容れることができない荒唐無稽な〝未来予想図〟が書き連ねてあった。

 新大陸流の垢拔けぬ冗談かと思っていられたのは数日のこと。

 その後の怒濤の日々の中で、気がつけば予言に抗おうとしては果たせずに流されることの連続だった。

 今や、フランソワ共和国は崩壊の危地にある。

 あの大戦の最中に〝民族自決〟の思想は塩のように大地に撒き散らされ、戦後各殖民地は独立戦争の荒野となった。大戦では帝国に散々にしてやられ、一時は本国喪失にまで至ったのだ。殖民地現地人からしてみれば、絶対的な支配者だと思っていた相手があっさりとその地位を失ったのだから、反抗勢力も勢いづこうというもの。

 最終的に大戦に勝利したとはいえ、その代償は余りにも大きかった。人的資源や社会資本、金融資産の損失は天文学的な規模に及び、賠償を得ようにも帝国は輪をかけて焦土。得られたものは何もなく、協力者狩りエピュラシオンの嵐で人心は荒れ、共和国は本国の復興ですら合州国頼みとなる体たらくだった。

 しかし入殖者コロンからしてみれば、戦争が終わったことで何もかもになると思っていたのだ。大戦で共和国の戦力を支えていたのは実質的に殖民地の富だった。勝利のためと思えばこそ、不自由も不平も不満も我慢していたのだ。そして勝利の暁には、戦前にように現地人をかしづかせ、富を收奪できる立場に戻れるのだと。

 一方で殖民地現地人の協力を得るため自由共和国は戦後の自治権拡大を約束していたし、南方大陸での作戦行動には現地人の協力が不可欠だった。これは両者の力関係を決定的に変えてしまった。

 原状回復を望む入殖者たちと、変化を求める現地人たち。そこに大戦によって拡散した兵器と軍事技術、人材が投入されれば火が点くのは自然な流れだった。

 本国政府は殖民地からの要請に応えざるを得ず、結果として再編すら不十分なまま共和国軍は次なる戦争に突入していったのだ。

 所詮は現地人の暴動。一当たりすれば蹴散らせる。

 そんな悠長なことを思っていられたのは最初のうちだけ。すぐにこれは容易ならざる相手だと軍の大戦経験者は察知する。特に、大戦中に人手不足から現地警備隊などに徴用され軍事訓練を受けた現地人兵士や、降伏後の共和国から帝国軍に志願して帝国式の教育を受けたヴァルデン軍団残党などが殖民地解放運動に合流したことが鎮圧を著しく困難にしていた。

 犠牲が増えるに従って本国では厭戦気分が広がるも、逆に本国から見捨てられることを危惧した殖民地入殖者や現地軍部の態度は硬化。

 そして政治は、戦後の第四共和政は小党乱立の議院内閣制。連立内閣で腰が定まらない。殖民地からは最早以前のような收穫は得られず、ただいたずらに国富を飲み込む不良債権と化していった。

 ようやく政府が損切りを図り、殖民地帝国を連合王国風の国家連合体に改組しようとした際に起きたのが、アルジェンナ駐留軍がコルス島を占拠するというクーデター事件だ。

 かくして政府は崩壊。

 クーデター部隊からの要請で、一度は政界を引退していた男が表舞台に再登壇することになった。

 殖民地維持の期待を一身に背負って。


 国民と軍部の絶大な支持の下、政界に復帰して直ぐ様大統領に大きな権限を与える憲法改正を通し、自らが大統領職に就いた。

 権力こそ握ったが、状況は薄氷を踏むが如し、だ。

 新憲法では入殖者や殖民地駐留軍との軋轢を覚悟で、殖民地に大幅な自治権を与えて解放運動との妥協を模索したが、彼らが求めるものは完全なる独立であり、妥協は成らなかった。

 未だに意気軒昂なのは入殖者を支持母体とする駐留軍幹部たちばかり。彼らは自分たちの既得権益がかかっているのだから、それは確かに切実だろう。

 彼らは言う。

 大戦の勝利の立役者、原動力たる殖民地を見捨てるのか。殖民地はフランソワと一体不可分である、と。

 しかし投入される人命は、本国の若者たちのものなのだ。長引く戦争と増え続ける犠牲者に、本国の市民の大部分は殖民地の維持に熱意を失っている。

 限界は見えていた。

 殖民地の維持は、もう無理だ。

 その時になって思い出したのが、〝予言書〟だ。執務机の抽斗に仕舞いっぱなしになっていたその文書は、気持ち悪いほどに今を描写していた。

 民族主義の伸張は抑えることができず、宗主国との相対的な力の差の減少が、力による支配を不可能にする、と。独立運動に対し強硬策を続ければ、共産主義者が奴らの背後に取り付くと警告してやまない。

 思えば、連合王国も合州国も、殖民地の独立は不可避という認識で動いていたように思える。連合王国はさっさと同君連合の形に国体を変化させたし、合州国は殖民地に独立プロセスを示し、移行政府を立ち上げた。当時は弱腰と思えた両国の政策も、共和国が陥っている境遇を考えれば〝賢い選択〟であったと思わずにはいられない。両国は多くのものを自発的に手放す一方で、〝予言書〟に指摘される核心的部分、即ち、財産権と自由な経済活動の保証だけは確保したのだから。

 あるいはこの〝予言書〟は、両国の対殖民地政策の基本方針をそれとなく共和国に伝えるためのものだったのかもしれない。もしそうだったのだとすれば、読み取れなかった己の不明を恥じるしかないが、そう断言するには余りにも体裁が貧相だ。せめて、高名な外交雑誌に匿名ででも載せられていた論考――例えばかの〝X論文〟のような――であればこちらの受け止め方も違っただろうに。

 共和国がなんとか殖民地を維持しようと苦心惨憺する間に、連合王国と合州国は着々と損切りを進め、そのことがまた一層共和国殖民地における独立運動に拍車をかけた。

 こちらを惑わせるだけ惑わせ、右往左往させ、政策を誤らせ、被害担当艦にしたかったのではないのかと、邪推したくもなるのだ。

「結局は、予言の通り。彼奴らの掌の上か」

 だがそれもここまでだ。この〝予言書〟の性格が知れた以上、マトになり続けるポジションからの脱出法は明瞭だ。

 その筈だ。

 約束の時間丁度に扉がノックされ、スーツ姿の男が影のように滑りこんできた。自由共和国以来の戦友であり、最も信頼できる男の一人だった。

 現在の官職はDST国土監視局局長。共和国では珍しい、非軍系の国内治安情報機関だ。

「予想通り、悪化しております」

 面倒な挨拶など拔きで、本題に入る。

 さっと差し出された報告は、軍部に、特に駐留軍において大統領への疑念が増大していることを示していた。

 当然だろう。

 彼らの求める〝フランソワのアルジェンナ〟に対し、男はただの一度も旗幟を明らかにしていない。その上、独立派に対しては何度も和平を呼びかけている。攻撃の手は緩めていないので、弱腰とまでは言われないまでも、〝フランソワのアルジェンナ〟を堅持する意思を疑われる程度には曖昧だ。

 そして今や、はっきりと裏切りの意思を秘めている。現地人に、アルジェンナ人に、投票で道を選ばせようと、彼は決めたのだ。アルジェンナだけではない。全ての殖民地を切り離すつもりだった。

 大胆な損切り。

 もうこれ以外に、共和国を、共和国の枢要を保つ方法はない。

 合州国や連合王国にもできたことだ。共和国にできないということはない。

 男には、国民の、少なくとも本国国民の支持を得る自信があった。

 問題は軍部、とりわけ駐留軍幹部たちだ。彼らは入殖者たちと強く結託し、強硬に独立(またはそれに類する一切の妥協)に反対している。

 悪いことに、一度はクーデターに成功してしまっている。成功体験があるだけに、男が裏切ると分かれば兵を起こすことは疑う余地がない。

 動くのは駐留軍だけか、本国の部隊も動くのか。果たして大統領の指揮に服すのはどの部隊か。

 誰が信用でき、誰が信用ならざるや。

 自由共和国で共に戦った朋友でも、完全な信用は難しい。

 なお悪いことに、共和国では歴史的経緯から行政における軍の役割が大きい。警察業務や消防業務ですら、国家憲兵隊ジャンダルムリや陸海軍消防隊が担っている。

 完全な文民警察組織は、規模が非常に小さく、当然力も弱い。

「このまま事を起こしますと、閣下の身の安全も保障いたしかねます」

「親衛隊も、浸透されているか」

 大統領の警護を行う親衛隊も、当然のように軍の部隊だ。〝ダモクレスの剣〟という箴言が身に迫る。

 DSTは文民の諜報機関であるだけに、〝実力行使〟の季節には物の役には立つまい。もっともDSTのみならず、警察が軍と衝突すれば、結果は火を見るより明らかだが。

 身の安全の確保、これが決定的に重要だ。口が利ければ、演説ができれば、特に自由共和国経験者を説き伏せる自信はある。また大統領の権限は強大であり、素早く合法的に武力対抗措置が取れる。だが拘束され、あるいは命を奪われてしまえば、残るのは分裂し、内戦に陥る未来だ。

 共和国のために、民主主義の未来の為に、彼は絶対に生き延びねばならなかった。

 しかしそのための戦力が確保できない。仰々しい大部隊での警護は臆病に見えるため望ましくないが、精鋭部隊こそ強硬な殖民地維持派に掌握されている。あるいは暗殺者を送り込まれることも充分に考えられる。

 これが、男のジレンマだった。

「盾さえ、絶対的な盾さえあれば」

 うめく男に、DST局長がそっと囁いた。

「閣下。実はその件について〝新大陸の友人〟より売り込みが」

「なんだ」

 見上げれば、DST局長の顏も苦々しく歪んでいた。

「身辺警護にうってつけの、警備会社を紹介できるそうです」

「なんだと?」

 殖民地の独立にあらがう共和国に合州国が良い顏を見せなくなって久しい。連中が殖民地の独立を進めているのだから当然といえば当然だが、一方で対共産主義の観点から協力も続けられていた。そんな連中が紹介してよこすと来ては、怪しさ満点だった。

「こちらで軽く調べた範囲ですが、中央情報局の下請け、汚れ仕事担当のカバーカンパニーだとか」

 空軍士官学校第一期首席を最高経営責任者とし、政治的に微妙な地域に投入される、いわば現代の傭兵。建前上民間企業であり、政府の関与は否定され、契約と報酬によってその仕事は語られる。

「……実力は確かなのか?」

「は。インデンシナで我が軍への補給任務を担ったこともあるとか」

「それは相当だな」

 インデンシナ紛争には当初、建前上、合州国は正規軍を派遣していなかった。しかし特に補給面において共和国軍が合州国に大きく依存していたことは、公然の秘密だ。

「信用はできるのか?」

「それは……支払い次第だ、と」

「外貨払いの要求か」

 無理もない、と男自身思う。共和国通貨で報酬を受けても、この情勢ではいつ紙切れになるかわかったものではない。

 守るべき相手に対しその正直さは、いっそ好感が持てた。

「良いだろう。契約を進めろ」

「よろしいのですか?」

「金の亡者なら主義も思想も関係あるまい」

 心の中が覗けなくても、契約と報酬を遵守するのであれば、今の共和国では何よりも頼りになることだろう。それに金銭契約だと割り切っているならば、合州国への政治的な借りにもならずに済む。

 信用、何よりも信用だ。それが金銭であがなえるなら廉いものだ。

「早速に。支払いは誓約同盟通貨でとのことで……」

「機密費の書類は急ぎ回してくれ。直ぐに署名する」

「それでは」

「ああ、ちょっと待て」

 急ぎ退出しようとした局長を呼び止めて、一点だけ確認した。

「その連中の名前はなんというのだ?」

「は。〝ZAS〟、というそうです」

「〝ZAS〟……なんの略称だ……?」

 局長が去って、その略称を口の中で転がし続ける男の胸中に、何故か不穏なさざなみが消えることはなかった。

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