第廿篇 最終手段
旧知の間柄の友人を迎えるような暖かさで、老人はその青年紳士を出迎えた。実際には一年にも満たない付き合いだったが、その濃密さは老いた身にもあまり憶えがない程だ。
戦場となって瓦礫の山となった帝都で数少ない穴の空いていないホテル。当然同盟諸国が接收しており、ここには連合王国の国旗が掲げられていた。
三つ揃いを着込んで現れた紳士は、丁寧に一礼する。
「本日はお招きにあずかり大変恐縮です」
「お気になさらず。我々の方からお願いしていることだ。ああ、お帰りの際には手土産も用意している。確か娘さんがまだ小さいのだろう?」
「……お心遣い、感謝いたします」
勧められた椅子に浅めに腰掛け、卓にコーヒーと紅茶を用意した
「これについて、知っていることを話して欲しい。余すところなく」
幅二十センチ余、縦十三センチとA5サイズに近いその紙は、紳士もよく知るものであった。
「……と言われましても」
紙を手にして縁を
「連合王国の一〇パウンド紙幣であると思います」
「本当に?」
「少なくとも私にはそう思えます」
「もっと正確に判断する方法をご存知では?」
「それは……紫外線を当てる方法や、少量の水を垂らす方法などです」
「それ以外には?」
「後はそれこそ、連合王国の中央銀行に持ち込むくらいでしょうか」
相手の表情をじっと数秒間も窺っていた老人は、遂に諦念の息を吐いて椅子に凭れかかった。
「そうか……」
「もしかして、これは?」
紳士には心当たりがあった。しかしもう一度手元の紙幣を確かめてみても、全くそれらしい点はない。彼の目には、真札であるようにしか見えない紙幣だ。
「君たちなら真贋を識別する手段を持ち得ているのではないかと思ったのだが」
疲れ果てた老人の声に、紳士も驚きの声を返す。
「これは贋札なのですか? 一体どうやって識別したのです?」
無論、そのような情報を軽々しく口にするわけにはいかない。
何しろ、実は区別できなかったのだ、ということを。
誓約同盟の銀行から回ってきた紙幣を自信満々に真札だと受け取って、いざ記録台帳に記載しようとした段階で、記番号の重複から贋札が発覚するなど、どこにも公開できる情報ではなかった。
その後の中銀と大蔵省は大慌てで顕微鏡まで持ち出してあらゆる贋作対策技術を確認したが、遂に贋造である証拠を、ほんの僅かな紙の重さの違いしか見出すことができなかった。贋札の方が数%重い、とか一グラムしかない紙幣の重さの違いで見分けろなど、無理やりも甚だしい。笑えないことに、今では中銀が大量の精密科学天秤を発注している。それで区別が付けば良いが、裏面が白紙で、伝統的に裏書きされることが常であった高額パウンド紙幣では、数%の重量増など簡単に起こってしまいかねない。中銀がそんな調子なのだから、一般の銀行に区別しろというのは不可能に近い。
だからこそ、
「これがB紙幣ですか……」
矯めつ眇めつ、紙幣を確認する紳士に、老人は胡乱気な視線を向ける。
「それは君たちが作ったものではないのかね」
「B作戦は……ああ、つまり高度戦争経済打通戦略は、独立した機関で行われておりまして、我々とは接点がありませんでしたから……」
縦割りのセクショナリズム、というわけではなく、秘匿度が極めて高い作戦だったため、作戦の遂行に当たったB機関の人間以外は、その作戦の存在すら、知る者が極限されていた。
「しかし君たちが調達に使った紙幣に、そのB紙幣を紛れ込ませていたのではないのかね?」
「我々も我々なりに、使用する外貨をチェックして、贋札は除外しておりました」
B紙幣に限らず、大戦中は様々な贋札が飛び交っていたので、防衛は必須だった。もっともその殆どは、普段外貨を目にしない素人を騙せる水準のものに過ぎなかったが。
「つまり何かね。君たちも真札だと思っていたと?」
「少なくとも、その当時は」
あの総力戦の中、国富を蕩尽し、占領地から運び出した
「〝通貨の贋造は国内法・国際条約の双方に抵触する犯罪行為であります。全く正当化し得ません〟」
「ん?」
思い出を語る口調になった紳士に、老人が反応した。
「いえ、軍大学で、
ひくっ、と老人の頰の肉が引き攣る。
奴が、奴が関わっているのか、と。
そのアイデアが検討されたのは、軍大学の在学中のことだった。
少し前に、参謀本部戦務課によって『今次大戦の形態と戦局予想』並びに『総力戦理論』が上梓され、軍大学ではこれらの理論を実際の戦略・戦術に落とし込むための様々な議論、提案、検討、机上演習等が精力的に行われていた。その結末を思えばいっそ
頭の固い年長の同輩に対して、彼女の若く柔軟な頭脳はいち早くそれらの理論への適応を見せており、ライバルたちは追いつこう、追い越そうと必死だった。
単なる戦場での勝利ではなく敵の継戦能力の破壊を目標とする作戦は、国力の全てを戦力に変換して投入する総力戦理論を前提とする時、敵国経済の破壊という答えを導き出す。そして世界各地に殖民地を持ち、これらを背骨とする連合王国経済を打倒するのは極めて困難を伴うと、誰もが理解していた。
そんな中で誰かが発案したのが、通貨の贋造によって通貨価値を毀損し、連合王国の経済的連結を寸断するという作戦であった。
その技術的な可能性を横において、有効性について様々な角度から検討が加えられ、教官や学生の少なくない数が効果的ではないかと評定する中、ただ一人敢然と反対し続けたのが、あの才女だった。
「なるほど通貨の信用を破壊し、経済に打撃を与えることについては有効でしょう」
効果については同意しながらも、あの小さな体を
「しかし、敵が同様の手法で反撃してきたら、如何します? 我が帝国の経済は連合王国より遙かに脆弱です」
贋札同士でノーガードの殴り合いになれば、先に体力が尽きるのがどちらか、考えるまでもなかった。つまり、連合王国に贋札製造が知られた段階で、帝国軍には手の打ちようがなくなる。
「それに、我が国は『偽造通貨防止のための国際条約』を批准しており、外国通貨であっても偽造は国内通貨同様に処罰される犯罪行為となります」
当該の法律・条約が軍に適用されるかどうかは司法判断が必要だろうが、判断を求めた段階で計画が露呈する。
つまり、法的にも無理がありすぎる。
「許されるのは正規の通貨の製造、これのみであります」
着席した瞬間に視界から消えてしまう金髪の内心は、一体どのようなものであったろうか。
当時は考えもしなかったことだが、自分は後に兵站参謀となって海外調達のために中立国や殖民地での外貨使用に関わる身となったわけで、もし帝国が通貨偽造に手を染めている、などという噂が立てば、持ち込んだパウンドの受け取りが拒否されていたことだろう。
一通り話を聞き終わった老人は、くっとカップの紅茶を飲み干して、息を吐いた。
「意外ですか?」
「……」
もしかすると彼女がB作戦を推進したのだと勘違いされていないかと、同期として弁護したのだが、老人の顏色は晴れなかった。
「自分も、恐らくは彼女も、B機関とは全く接点がありませんでしたし、実のところいつ作戦が始まったかすら知らないのです。これ以上の情報は、B機関員から聴取することをお勧めします」
「誰か名前を知るB機関のメンバーはいるかね?」
老人に問われ、首を左右に振る。
本当にあれは、秘密機関だったのだ。
それだけ偏執的に機密に拘ったのも、理解できる話ではある。
一方の老人は心中穏やかではいられなかった。
実のところ、既に何人か、B機関で働いていた者を確保することに成功していたが、不味いことに一部は連邦に確保されたらしいことが分かってきている。
あの共産主義者共が贋札作りのノウ・ハウを手に入れたら何をするか分かったものじゃなかった。だからこそ速やかに対策が必要だった。
そして数少ない証言の意味が、今ここで理解できたことに絶望していた。
『通貨の偽造は、帝国国内法並びに国際条約に抵触する重罪であります。そのような違法行為に手を染めるのは犯罪であり、断じて許されざることです』
B機関で贋造に携わったと目され逮捕された人物は、自分は法を犯していないと主張していた。
『しかし、誰が見ても、連合王国中銀ですら区別できないのであれば、それは
何を言っているのか、理解できなかった。
『つまり、
屁理屈にも程がある。
しかし眼前の紳士の思い出話を聞けば、それこそが帝国が
誰が見ても、発行者自身が見ても区別できないのであれば、それは本物であるとしか言いようがなく、作っているのが本物であれば
もちろん、単なる詭弁だ。連合王国政府の許可を得ていない時点で、どれほど精巧であろうが偽造は偽造だ。しかしまず区別できない。
しかも悪いことに、帝国はこれらの通貨を主に国外の中立国、殖民地で使った。現地では完全に本物として流通し、支払いに利用され、経済の一部となって
戦争が終わった今、それらの通貨が
連合王国の経済破綻は目前だ。
挙句、殖民地では流通したパウンド紙幣で独立運動まで勢いづく始末。
必死の思いで戦争に勝利したら自らも瀕死、昇天秒読みだったなど、笑うこともできない。
中銀と大蔵省は躍起になって対策を模索し、情報部も他人事でなく駆り出されているわけだが、分かったのは全てが手遅れになっているという事実だけだった。
「……なにか、状況を打開するアイデアはないだろうか」
思わずそう零してしまった老人の弱さを、誰が咎められようか。
そして紳士は誠実だった。
「軍大学で、彼女が言っていましたが――」
贋札の流通を察知すると同時に情報を公開し、より高度な偽造防止技術を施した新紙幣への切り替えを行い、旧紙幣の流通を止めてしまえば良い、と。
嗚呼、戦時中なら、無理を通せたかも知れないな。でも今それをやるのは……分の悪い博打になることだろう。少なくとも殖民地が独立してしまうくらいは覚悟せねばなるまい。
思い出すのは戦時中、贋札の噂が流れてきた時。
情報部に呼び出された大蔵省と中央銀行の担当者は、贋パウンド紙幣の可能性についてこう言ってのけたものだった。
「もちろん存じております。なにしろ国際通貨ですからな。毎年のように贋札が発見されます」
「中銀の贋札コレクション展示室をご案内しましょうか? ちょっとしたものですよ」
彼らにとっては〝またか〟と笑い飛ばせるような話題だったらしい。
「パウンド紙幣の偽造対策は完璧です。これまで見破れなかったものはありません」
そう言って懐から紙幣を取り出して解説してくれたものだ。
一見、真っ白な紙に片面だけ文字が印字されている、贋造し易そうに見える紙幣だが、その実、用紙からして一八世紀から続く特定の工房で手作業で漉かれた、全面透かし入りの特別紙。インクも当然ながら特別製で、両者とも紫外線に反応して染色する。また、簡単そうに見える文字ばかりの図案も、実は各所に印刷ミスに見せかけて〝罠〟が仕込まれており、これと暗号化された記番号の組み合わせは中銀で全て管理されている。
他にも言えない秘密が隠されており、全てを網羅するのは不可能だと断言した。
しかし何分戦時中のこと、全ての通貨を中銀に持ち込んで検査するわけにもいかず、国外の主要な銀行に偽造通貨を見破る方法を伝授して欲しい、とお願いしたものの突っぱねられた。
「そのようなことをしたら、我々自身がパウンドの真正性に疑問を持っているかのように思われかねない」
「左様。所詮、紫外線を当てれば分かる程度の、質の悪いモノが精々ですよ」
そして時は過ぎ、何度も舞い込む偽造通貨の情報に対してどうしても裏付けが取れず、大蔵省も中銀も全く本気にせず、終戦に至る。
とうとう終戦まで尻尾を摑ませなかった帝国が優秀だったのか、はたまた連合王国の担当官衙が自信過剰に陥っていたのか。
恐らく奴の対策は戦時中なら、間違いなく機能しただろう。
老人は落胆した。
そんな姿を労って、紛れもなく善意から、紳士は付け加えた。
「もしかしたら、彼女ならまた新たな対応策を思いつくかも知れません。お尋ねになられてみては?」
紳士の顏に一片の悪意も存在しないことを、長時間の観察で見て取った後、老人は力なく答えた。
「それは最後の手段にしておくよ」
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