第十九篇 公式且機密

 公私共に最も信頼する相棒である副長官が、長官室に入りしなに、手にした封筒を振って見せた。

「第一報が来たよ。読むかい?」

「寄越せ」

 封筒を引ったくった長官の後ろに回った副長官が肩越しに書類を覗き込む。

「実はまだ僕も見ていないんだ」

「好きにしろ」

 所定の様式に沿った文書の題名、日付、作成者といった書誌事項は読み飛ばし、すぐに内容に目を走らせる。

 最初はごくごく普通の、調査内容だ。

 対象となった企業の屋号、設立年月日、所在地、役員名、資本金といった登記事項。手続きさえしたら誰にでも手に入る情報だ。ただ、閲覧された、という記録が残らないのが普通ではないだけ。

「不審な点はないね」

「その位は、当然だな」

 書類を一分の隙もなく完璧に整えることくらい、誰にだってできる。いやむしろ後ろ暗い連中であればある程、書類は完璧にするものなのだ。

 資本関係、取引先、財務諸表、何一つ不審な点が見当たらない。

「むしろ、怪しさが増したな」

 この規模の新規業界参入企業だというのに、政治家との繫がりが一切見えないなど、あり得ない話だ。

 何より、この会社を調べるに至った切っ掛けが、そもそも政府高官の通話に最近頻繁に登場するようになったことなのだから、繫がりが見えないことが逆に不審だった。

「取引関係はあまり手広くないようだね。幾つかの大口とばかり……〝マクレーン運輸〟?」

「どうした?」

「いや、聞き覚えのある会社だと――」

 副長官は長官室内を歩いて、長官、副長官、長官秘書の三人しか触れることができないとされる機密キャビネットのMの項目を引き出してぱらぱらとファイルを繰り、目的の書類を見つけ出す。

「ああ、これだ。マクレーン運輸。中央情報局の偽装カバーだよ」

「なんだと」

 手を挙げて寄越せ、と訴える長官に書類が渡されると、穴を穿たんばかりの凝視。

「中央作戦局だと⁉」

「あそこは厄介だね」

 中央情報局との関係は、はっきり言って良くない。国内連邦レベルの刑事司法捜査を一手に担うこちらが司法省の下部機関であるのに対し、向こうは大統領直属の対外諜報機関だ。かつて中央情報局設立が検討された頃、諜報機関の内外一元化を訴えたが果たせなかった過去がある。当然のようにお互いの心証は良くなりようもなかった。

 大統領の裁定によって中米と国内はこちら、残る国外は中央情報局、という棲み分けにはなっているが境界線を巡っては鞘当ても激しい。また、お互いに手出し無用、という紳士協定まであり国内司法捜査の枠外に置かれてしまっている。

 政府高官や連邦議員、各地の有力者に至るまで監視の目を届かせる合州国の正義の守護者が、手出しすることのできない聖域の一つ。

 挙句に、作戦部門ときた。国外で秘密工作を担当する部門というだけあって、予算から人員に至るまで秘密のヴェールの向こう側だ。仕事柄、外国系や移民系の職員も多く、国内非主流派の公民権運動にも目を光らせているこちらとしては、目障りな連中でもある。

「これはあれだよ、中央情報局のフロント企業だよ」

 航空貨物・旅客輸送会社というのは、諧謔というものなのだろう。国内から海外の作戦地域に物資や人員を送り込むのに、軍用機を使うと何かと微妙な場合などに、飽くまで民間機という建前で飛ばすというわけだ。

「そういうことだから、創業者が空軍の元エリートというのも頷ける話だ」

 中央情報局は戦中に軍の戦略情報局を母体として設立された経緯もあり、組織上は分離した今日でも、軍との関係は深いものがある。

 別の言い方をすれば、飽くまで警察組織であるこちらとは縁が薄い。軍内部の事件捜査についても憲兵隊の管掌であるから、やはり手が出せない聖域の一つだ。

「気に入らんな」

 こちらの目が届かない連中が結託して、何やらこそこそと動いている。何の連絡もなしに、国内に拠点を作ったり。

 ナメられている。

 不可侵というのは、相互に互いの領域に踏み込まない慎み深さが必要だ。国内はこちらの縄張りなのだ。国内に工作機関を作るならば、事前に一言、筋を通す必要が中央情報局にはあったはずだ。

 長官は目を皿のようにして書類を舐め回し、突くべき弱点を見出した。

「この女だ。支局にこの女を調べ上げさせろ」

 ファイル綴りから一枚のレポートを引き拔いて机に叩きつけた。

「中央情報局のオフィサーじゃないのかい?」

「元軍人だろうが、今は民間人だ。つまり、我々の管轄だ」

 配慮しなければいけない特段の事由はない。ということは、対象にして構わないということだ。

「細大漏らさず、あらゆる手段を使ってこの女の秘密を暴け。中央情報局の連中に、俺達を無視したらどうなるか、思い知らせてやる」

「やれやれ。その女性に同情するよ」

 副長官は全く同情の色のない声で、身上書を拾い上げた。

「軍で出世できずに中央情報局に流れたんだろうけど、悪手だったね。不幸なことだ」

「男は仕事に、女は家庭に。神はそうお作りになられた。神の教えに背いて女が不相応な出世を望むから、不幸なことになる」

 長官はふん、と鼻を鳴らしてそう持論を開陳したものだった。

「連邦捜査局の力を見せつけてやる。その〝ターシャ・ティクレティウス〟とかいう女を丸裸にしてやれ」


 連邦捜査局長官の一日は規則正しい。登庁日には誰よりも早く登庁し、いつも同じホテルの食堂で副長官と一緒に昼食を摂る。座る席まで同じだったので、そのテーブルは常に予約の札がかけられていた。さすがに頼むメニューは時々違ったけれども。

 昼食時に長官を捕まえようとする者がその食堂に現れることがたまにあるのもまた、風物詩だった。

「招かれざる客だとは思わなかったのかね」

「庁内でお話するよりはマシだろうと思いましてね」

 一見してにこやかな笑顏で勧められもしないうちに着席した男とは、大統領官邸で何度か顏を合わせたことがあった。

 本名さえ知れぬ、中央情報局は中央作戦局のジョン・ドゥ局長。敏腕で知られる、海外工作のエキスパートだった。

 これほどの大物を動かすことができたことに長官はくらい喜びを感じつつも、一方で長官がやって来なかったことに不満も抱いていた。

「とはいえ、憩いの時間を邪魔するのも心苦しい。単刀直入に申し上げましょう」

 注文を取りに来たウェイターを手で制したドゥ局長は、笑顏を消して吐き捨てた。

「手を引いていただきたい」

「何のことかね」

 予想通りの反応に内心北叟笑みながらも、長官は韜晦して建前を押し出してみせる。

「我々は職分を全うしているに過ぎん」

「アレはあなた方の管轄ではない。手出し無用に願いたい」

「ほう? そのような申し入れはなかったように思うが」

「貴殿には触れられない、機密事項だ」

「なッ!」

 暗に格下扱いされた長官が激しかけたのを、同席していた副長官がさっと機先を制した。

「それならばそれで、大統領閣下を通じて要請をなされればよろしいのでは? 何もこのような横車を押す必要はないでしょうに」

 中央情報局は大統領直属で、連邦捜査局は大統領の閣僚たる司法長官の下。両者の調整は本来であれば大統領が行う事柄だ。

「表沙汰にしたくないのは、そちらも同様なのでしょう」

 公私共に信頼する副長官が水を差してくれたお陰で、安い挑発に乗らずに済んだ。頭が冷えれば見えるものも見える。

 副長官の指摘を受けたドゥ局長が作る渋面の意味は明らかだ。連中、焦ってやがる。

 そこに秘密があるのなら、「公式かつ機密」として掌握してしまえば良い。そうすれば、相手を意のままに操ることも、社会的に抹殺することも自由自在だ。

 そうやって、連邦捜査局は力を伸ばしてきたのだ。

 有利を確信して長官は威儀を正して重々しく宣告した。

「ターシャ・ティクレティウスには共産主義者の疑いがかかっている」

 果たして効果は絶大。

 驚愕の表情を浮かべたドゥ局長は、数秒の間を置いて声を絞りだす。

なんですってパードゥン?」

 笑い出したくなるのを堪えて、長官は説明してやる。

「お前たちが入れ込んでいるあの女には、共産主義者であることを疑う合理的理由が存在する」

「馬鹿な!」

「おや、疑うのかね? よろしい、根拠を教えてやろう」

 ふんぞり返り長官はねちねちと〝証拠〟を並べてみせた。

 曰く、彼女には性差別撤廃主義者である合理的な疑いがある。男女の伝統的役割分担に対し非常に冷淡であり、配属の差別に反対したという。

 曰く、彼女には公民権運動の親派シンパである合理的な疑いがある。彼女の設立した会社は合州国主流派マジョリティの比率が有意に低く、有色人種用トイレなどの区別もないという。

 曰く、彼女には潜在的無政府主義者アナキストである合理的な疑いがある。彼女は特定の宗派に属せず、礼拝も儀礼的に参加するのみで宗教的熱意に欠ける。

 これらは彼女が合州国の伝統的価値観への挑戦者であることを意味し、すなわち連邦捜査局の監視対象たるに十分な理由である。

「本気かね⁉」

 普段の鉄面皮もどこへやら。泡を食って詰め寄ってくるドゥ局長の姿に下卑た愉悦を感じつつも、手を緩めたりはしない。

「当然だとも。国内不穏分子との戦いは我々連邦捜査局の使命だ。異存があるならルートで頼むよ」

 顏を青くしたり赤くしたり汗を吹き出したり、ドゥ局長の百面相を堪能していたが、ギリ、と歯軋りの音とともに鉄面皮に戻った。

「大統領にご報告する」

「なんとでも」

 足早に去っていくドゥ局長の背中を薄ら笑いを浮かべて見送る。大統領も副大統領も、主要閣僚は全てスキャンダルを握っている。そうそう思い通りに行くものか。

 そんな長官の姿を見て、副長官はやれやれと肩を竦めるのだった。


 巷間に正義の人として知られる連邦捜査局長官の趣味の一つが競馬であることは、時折報道されて世に知られているところだ。もっとも、特別扱いはなく、副長官と二人で一般客と同じ列に並び、ほんの数ドルと少額の馬券を購入するだけ、と伝えられている。

 噓ではない。

 真実の全てが報じられていないだけだ。

「これはこれは長官閣下。今日は良い馬が揃ってますよ」

 パドックでの脚見せを眺めていた長官・副長官の元に、競馬場の元締めがそっと近寄って挨拶をする。

「繁盛しているようじゃないか」

「それもこれも閣下のご贔屓あってのことですよ」

 ニヤリ、と笑う元締めは、泣く子も默る合州国ギャンブル業界の重鎮であり、かつて禁酒法の時代には酒類販売をも手がけていた。長官はその筋の実業家たちと大変懇意にしていた。

 連邦捜査局の公式見解としては合州国には犯罪組織なるものは存在せず、たとえ組織的な犯罪があったとしても、それは州警察が担当すべき問題であるということになっているので、その筋の業界との接触は、全くもってクリーンなのだ。

「さて、今日はどの馬が良さそうかね」

「そうですなー。第三レースの八枠など、走りそうな予感がありますな」

「参考にするよ」

 ありがとう、と元締めを労ってオッズの掲示板を見れば、単勝で百倍近い倍率が付いている。

 事前に知らなければ敢えて買うことなどない馬だ。

 ただまあ、連邦捜査局長官というのは運の良さが問われる仕事なのだ。

「K.G.サラマンダー? 珍妙な名前だ」

「おや、左様ですか。結構愛着のある名前なのですがね」

 突如横合いから声をかけられ、長官はむっとしつつも、場所が場所だけに、馬主関係者かと一応は丁寧に応対してみせた。

「これは失礼。忌憚なき感想なので、ご容赦下さい……レディ」

「いえ、こちらこそ不躾でした」

 短躯で知られる長官よりもさらに一回り小さいその人物は、パンツスーツ姿の銀髪の女性だった。

「初めまして。私こういう者で……」

「済まないが、名刺は持ち歩かない主義でね」

 ポケットから名刺を取り出す小娘に、授受は相棒に任せていると手で示す。

「存じておりますよ。なにしろ閣下は合州国でもに有名な方であらせられる」

「有名人の辛いところだな。どこへ行っても、紛れることができない」

 そううそぶいて、掲示板を再び見る。

「察するに、君があの馬の馬主かね」

「名推理です、閣下」

 ということは、つまり、元締とも関係のある、その筋の実業家かなにかなのだろう。

 そう思っていたら、相棒に袖を引かれ、こっそりと名刺を見せられた。

「長官、この女が〝ターシャ・ティクレティウス〟です」

「なに?」

 慌てて女に向き直ろうとした時には、彼女はすっと二人の脇を通り拔けるところだった。

「貴様!」

 ポケットに滑りこまされる封筒の感触に怖気を搔き立てられながらも引きとめようとするが、するりと彼女は身を躱して人混みの中に消えていった。

「一体何だったんだ……?」

 副長官が首を捻る隣で、震える手で封筒から一葉の写真を取り出し、すぐに仕舞いこんだ長官は、ただただ、立ち尽くすことしかできなかった。

「すぐにあの女に関する手配を全て取り下げろ」

「え? どうしたんだい一体……」

「すぐにやれ!」

「ああ、わかったよ」

 怪訝そうな副長官が足早にその場を去り、一人取り残された長官は、呆然と掲示板を見上げていた。

 耳元に囁かれた一言が、消えることなく長官の頭を暴れまわる。

「〝私はあのことを知っていますよ〟」

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