第十六篇 庭園
以前だったら船で大洋を渡るのに一週間、その後鉄道で大陸を横断するのにもう一週間ほどかかっていた道程が、飛行機を乗り継いで僅か数日で到着できるようになったのは、誰にとって福音だったのだろうかと老人は考えることがあった。
少なくともこの老骨にとっては、決して福音とは言い難い。
上司たちは時間が短縮されたことを幸いに、以前では考えられなかったほどの短期間で長距離の出張を気軽に命じるようになった。体力のある若者なら良いのだろうが、老人としては以前の一等客室でのサービス満点の旅が懐かしくて仕方がない。
何しろ、飛行機の旅というのは快適とは程遠い。
うるさいし、搖れるし、寒いし、息苦しい。碌な食事は出ないし、おまけにまだまだ危険だ。速度以外に見るものがない、というのが老人の持論だった。
だが、その速度こそが求められる時代なのだ。
老人としては絶望するほかない。
出張先が新大陸の殖民国家の空軍士官学校だというのでは、なおさらだ。旅情も何もあったものではなかった。
「五〇〇〇マイルも旅をして愚痴をこぼしに来られたのか?」
校長のフォーレスタン大将は偉大な男だ。合州国空軍の未来という、果てしなき重責を両肩に担がされ、愚痴一つこぼさずに任務に邁進している。自分にはとても出来ない偉業だと、老人の心は彼を賞賛して已まないが、同時に職務上好意的ならざる対応もしなければならないのが辛いところだった。
「緊急に確認を要する事態がここで進行しておりましてね。できれば平穏に老後を過ごしたいという意志の表明ですよ」
つまり、お前たちのせいだ、と丁重にお伝えする。
母国を離れること五〇〇〇マイル。ここはコロラドスプリングス。開校して一年にも満たない空軍士官学校、その校長室だった。
重厚な木彫で飾られた部屋の応接セットは、飛行機の座席で痛めつけられた体を癒やす柔らかさ。珈琲ではなく紅茶を出してくれるあたり、秘書は饗応という言葉の意味を知っている。まだ新品の艶が眩しい執務机の脇には合州国旗と空軍旗が棹さされ、その向こうに座る校長の姿を威厳溢れるものにしていた。
大至急ということで、執務を片付けながら老人を迎えていたフォーレスタンは、思い当たる節がない、と首を傾げた。
「確認を要する事態とは? そのような緊急事態が発生したとは、把握していないが」
フォーレスタン大将は――大変不幸なことに――最高機密についての
「最近、我が国の数学者数名に、空軍士官学校が勧誘を行っている件です」
「ああ……それが?」
それの一体どこが問題なのか、と校長は疑問を隠しもしない。
それはそうだろう。合州国でも連合王国でも、就職は自由だし移住も自由だ。給料と待遇の良い職場を求めることは労働者に認められた権利だし、また優秀な人材に高待遇を提示して誘うことも全く違法ではない。
ただ、それが揃いも揃ってかつて国家機密に関わった人間だとなると話は別だ。
偶然符合したというにはあまりにも合致するその面子に、情報部は最悪を想定し、老人を送り込んだのだ。
「どのような条件で候補者を選んだのか、お伺いしたいのです」
「……連合王国の情報部がそれを気にするということは、
大将は決して愚かではない。いやむしろ初代空軍士官学校校長として、望み得る最高の資質を備えた俊英だった。老人からの返事がなくとも、事情を察するに支障はなかった。
暫く沈默していた校長は、インターフォンで秘書に暫く来客を取り次ぐなと命令したあと、執務椅子から立ち上がって老人を招いた。
カーテンの影に隠れた場所にある扉の鍵を開け、隣の部屋へ。
そこは木目調と絨毯が美しかった校長室からは一転して、金属の壁が四方を囲む、金庫室だった。
「よろしいので?」
「貴君にはアレに関してに限り最高機密閲覧権限が付与されていたはずだが」
渋面を作る老人には構わず、校長は鍵を取り出し、奥の壁面にある重厚な扉を囲む鉄格子の扉を開けると、さらに続いて金庫の扉に手をかける。
「恐ろしいですな。中に何が入っているのやら」
「君たちが……いや、我々が恐れ、封じ込めようとしたものの一部だ」
潜水艦の水防扉のようなロックが外され、音もなく滑らかに開いていく扉の厚さを見て、老人は呆れ果てる。
先を行く校長に続いて金庫内に入れば、そこは意外なほど広い空間で、中央に机と椅子が用意されていた。壁面は全て
「これは?」
「空軍士官学校の学生には、空軍に対しあらゆる提案を行う権利が認められている」
まだまだ未熟な航空機という技術を扱う空軍という若い組織では、〝伝統〟などというものが幅を利かせる余地がない。むしろ、日進月歩である科学・技術に追従し、これを貪欲に取り入れることこそが空軍に必要とされるところだ。故に、若く柔軟な知性が生み出す発想を空軍の発展に活かすべく、そのような制度が用意されたのだ、とされる。
「〝彼女〟の提案ですか」
「そのごく一部だな」
まさか、と老人は部屋を見渡し、壁一面の抽斗を眺め渡す。
校長は何も言わずにポケットから薬瓶を取り出し、カラカラと振り出して数錠を貪る。
空軍士官学校に入学した彼女が、精力的に活動しているとは報告を受けているが、一体何をやらかしているのか。
ポケットから老眼鏡を取り出し、書類綴のタイトルを見ると「戦後における暗号通信のあり方について」などと素っ気ない。タイプされた紙の枚数もそう多くなく、厳密なレポートや論文よりは気軽な扱いであることが察せられた。
しかし初っ端から目を剝くような内容だった。
『戦中、連合王国が帝国の暗号を解読していたことはアルトゥール電報事件の経緯などから確実視されるが――』
これをかつての上司が目にしようものなら、即座に拳で机の強度試験を始めることだろう。
戦中各国で使われていた暗号形式を紹介し、どれも原理からして暗号強度的に然程の差がないことを示しつつ、現状では解読側が有利な状況に置かれており、強度に差がないのであれば連合王国は敵のみならず味方の暗号すらも解読しうる立場にある、と文面は語る。
ああ、実際
機械式暗号機での暗号化には複雑度の限界があり、高い秘匿性が必要な暗号通信は、現状では使い捨ての暗号鍵を使うワンタイムパッド暗号に頼らざるを得ない。ワンタイムパッドは適切に鍵の管理がなされている限りは安全だが、逆に軍という巨大組織で広汎に使用するには安全性の限界があった。鍵の数が増え、鍵を運ぶ距離が増え、携わる人が増えれば増えるほど、管理の徹底は困難になるのだ。
そして敵も味方も、暗号鍵の記されたコードブックを手に入れるべく暗闘を繰り広げるのだ。鎖は一番弱いところから切れる、という故事が具体性を帯びてくる。
通信量が増大する一方であるのに対し、安全な暗号が不足する現状を打開するには、根本的に新しい暗号を生み出す他なく、その技術として提案文は真空管を用いた電子計算機を利用した数学的暗号の開発を提言していた。
「暗号解読に数学者を登用するのは常道だが、暗号の開発にも数学者を投入するという発想だ。面白いだろう?」
考えてみれば当たり前の話ではある。数学者が暗号を解読できるのだから、彼ら自身により難しい暗号を開発させれば良い。
提案書はこの問題に詳しそうな数学者を空軍士官学校に招聘するよう提案し、文末に本問題に知見を有する数学者がリストアップされていた。
ああ、と声にならない呻き声が胸中に木霊する。
なぜヤツは、大戦当時に
いや、理由ならわかっている。
ヤツは知っていたのだ。
連合王国が帝国の暗号を解読していたことを。
連合王国でも、暗号を解読していたことは極秘だった。帝国に知られれば暗号形式が変更されてしまうのだから、〝ウルトラ〟と呼ばれた暗号解読で得られた情報は、帝国中枢の情報提供者からの情報と偽装されていた。帝国側が感づいた兆候は皆無とされ、ウルトラ情報には全幅の信頼が置かれていた。
しかし、だ。
連合王国が暗号解読を秘匿していたように、帝国もまた連合王国が暗号を解読していたことを知りつつも連合王国の油断を誘っていたのだ。決定的な一瞬に、連合王国をハメるために。
今思えば、参謀本部直属のアレの部隊だけが未知の解読不能な暗号を使っていたなど、本当に知られたくないところはしっかり守っていたわけだが、当時はそこまで把握されていなかった。全ては手遅れになってから分かったことだ。
この名簿を見れば、連中がかなり深く連合王国の暗号解読組織について知悉していたことが窺える。
気分は最低だ。
しかも、今も政府で働いているメンバーが抜かれているあたり、戦後彼らが不遇を囲っていることを知っているということだ。
暗号解読は最高機密であったがために、戦後もそれに関わったことすら明らかにできず、中には母校の校長から出征しなかったことを咎める手紙を受け取った者すらいたという。戦中の経歴が空白になってしまった彼らが、就職等で苦労している件は、情報部としても心を痛めてはいるのだが、なかなか思うに任せない。全ては戦後の経済混乱のせいだ。
そこに、大戦で大きな被害を受けることもなく、成長を続ける旧植民地から高給の誘いが来れば、断るのは難しかろう。
彼らが機密保持者でなく、誘ったのがヤツでなければ、何の問題もない話だった。
「驚くべき論考ですな。彼女は暗号学にも造詣が深いと見える」
当代一流というべき数学者の中から、暗号解読に関わった者たちを狙い撃ちしている。連合王国としては憂うべき事態だった。
「しかし現段階では理論上のものでしょう。特に電子計算機など、まだ研究開発途上のものだ」
「だが、それゆえに基礎研究で先行したい、というのがティクレティウス学生の言い分だよ」
理由付けに瑕疵はないか。
「お国の研究者を登用される方を優先されてはどうでしょう」
「我が国の研究者を引き抜くより、連合王国の研究者を引き抜く方が安上がりなのだよ」
何しろ空軍士官学校は金食い虫だと批判も多い、と校長は自嘲の笑みを浮かべる。これほど豪勢な檻もあるまいに、と。
そうか。
確かにそれなら、自国民より連合王国民の方が心が痛まないに違いない。ただそれが、連合王国にかつて暗号解読という形で貢献した者たちであった、というのが誤算だっただけか。
「ミスター・ジョンソン。我々は知っているはずだ」
校長は深い湖の色を
「ここは飼育小屋だが、満足できなければ飛び出していくぞ」
あえて対象を示さなくとも、彼らにはわかりきっている。
ヤツは、空軍士官学校に満足しているらしい。だが、油断は禁物だ。ヤツが次々と突きつけてくる「要望」に応え続けなければ、どうなることか。
契約は守らなければならない。
シクシクと胃が痛みを発し始めるのを感じつつ、老人は提案した。
「成果を提供してもらえる、と確約がいただければ」
「私の一存では難しいが、公開の学術研究という形にすることは可能だ」
暗号の研究を公開の学術研究とする?
何の冗談だとは思ったが、恐らく校長の権限では最大限の譲歩なのだとも理解した。
「わかりました。国に持ち帰ってその線で妥協を模索します」
拒絶など、老人にはできるわけがなかった。もう一度大戦を起こす勇気は、流石に備わっていないのだから。
帰りの飛行機に搖すられながら、老人は論文の一言一句を思い起こしていた。問題の文書は当然複写など許されなかったが、まあ、職業柄身につけた一〇八つの特技の一つだ。
文字列を数値列として扱い計算対象と見做すという考えは、情報理論というらしいが、これもつい近年持ち上がってきた学問分野だという。
そして一方向関数を使った非対称暗号というアイデア。暗号化鍵と復号化鍵を別け、前者から後者が推測できないようにすれば、鍵配送問題は一挙に解決する。そのような都合の良い関数があるかどうかは不明だが、モジュラ関数が有力だと書かれていた。モジュラ関数が何かは老人には分からなかったが。
最後のリスト。確かに旧政府暗号学校所属者で現在はその職を離れている者が多かったが、全員ではなかった。なぜアレはリストから幾つかの名前を外したのだろうか。
彼らの身辺を洗う必要があるかもしれない。
はあ。
気が重い。
どうしても合州国に渡せない人材については、
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