第十二篇 暁闇

 高級伝令将校が抱えてきた命令書を一読して、北部方面軍司令官は深く深く息を吐いた。

「こんな命令を受領することになるとはな」

 忌まわしい書類を参謀長に渡したところで力尽き、椅子に崩れ落ちる。

「これは⁉」

 穴が開かんばかりに書類を睨み付ける参謀長の手が戦慄わななく。

 〝降伏準備命令〟。

 軍隊では実際の行動に先んじて準備命令を出すことが多々あるが、これは極めつけだ。

 書類は次々と参謀たちの間を泳ぎ回り、その都度押し殺した呻き声が漏れる。

 一周して戻ってきた書類を眼前に置いて、司令はぐったりと伝令に尋ねた。

「本命令はいつ頃になりそうかね?」

「不明です。しかし、帝都では停戦交渉が進行中ですので、降伏文書の用意と調印が行われるのは、そう遠くないとは思われます」

「降伏、か」

 長い軍務生活で、終ぞ知ることのなかった結末だ。これが最初で最後の体験になることだろう。

「何故だ⁉ 北方軍我々は勝利したではないか!」

 参謀長の叫びは悲しみに染まっていたが、応える伝令将校は、帝都で何を見たのか、その声には感情が欠落していた。

「はい、いいえ。帝国軍我々は勝利できませんでした」

 北方で勝ち、西方で勝ち、南方で勝ち、東方でも連邦軍を圧倒した。帝国は全世界を敵に回した総力戦を完遂し、いつかこれに打ち勝つのではなかったのか。

 歯が軋む音が耳を打ち、堪え切れなかった嗚咽が若い参謀の口から漏れる。

 戦況は、知っていた。

 だが、まさか、という思いが捨てきれない。

 条件付きの講和ではないのか。

 しかし現実は残酷だ。その命令書は、帝国の敗北をこれ以上なく明確に表していた。

「参謀長」

「はッ」

「降伏手順の策定と周知を任せる」

「……はッ」

 北方軍を預かるこの司令部は、恐らく何らかの儀式への参列を要求されることだろう。式場を彩る、敗軍の将として!

 参謀たちが動き出そうとした瞬間、伝令将校がすっと手を挙げてその動きを制した。まだ、ある、と。

「伝言があります」

「伝言?」

 軍令を伝達する伝令将校が〝伝言〟などという命令でも報告でもないものを口に上げるという規律外の行動。

「降伏は合州国、連合王国に対して行うこと。連邦への投降は真に已むを得ない場合に限り、可能な限りこれを避けよ、とのことです」

「それは命令ではないのか?」

 内容がほぼ命令調であったことから参謀長が確認したが、伝令将校は重ねて否定した。

「はい、いいえ。〝伝言〟であります」

「……連邦の捕虜になるな、と?」

「連邦は戦時国際法を批准しておりませんから、捕虜の待遇に疑問があるのでは?」

「東部で何かあったのか?」

 参謀たちが口々に疑問を投げかけるが、伝令将校は首を振るばかりだ。

「自分は単なる伝令であります。委細は聞かされておりません」

「ゼートゥーアめ、東部で怨讐を積み上げ過ぎたか」

 力なく椅子に埋もれた姿勢で、司令は参謀に指示を出す。

「連邦の動きは把握しているか?」

「確認します」

 レガドニアは半島の北辺で連邦と国境を接している。帝国と連邦の間に戦端が開かれて以降、北方でも散発的な戦闘は起こっているが、湖沼地帯を挟んだ輸送網の不備もあり大規模な軍の展開はこれまで確認されてこなかった。しかし敢えて〝伝言〟を寄越すのだ。何かしらあるのだろう。出て行った参謀が数分も置かずに司令部に飛び込んできたのだから。

「今朝の航空偵察により、北方国境線付近に連邦軍の集結を確認とのことです! 規模一箇師団、なおも増加の見込み!」

「連邦め、落穂拾いをする気か!」

 参謀長が呻く。

 帝国降伏によって発生する権力の空白を逃さず半島を我が物にする気だということか。この半島全域を抑えれば、念願の不凍港、そして大西洋への出口を連邦は手に入れることになる。

 帝国もまた、北の頭を抑えられる形になり、海軍に影響が及ぶことは避けられまい。

「だが、それがどうしたというのだ。帝国は降伏するのだ。後のことなど、戦勝国どもが考えれば良いことだろうに」

 ざわつく参謀たちに対して、司令はひどく投げ遣りな口調でそう呟く。

「道理であります」

 伝令将校が、無感動に応える。

「ゼートゥーアめ、何を考えている……」

「〝ライヒに黄金の時代を〟」

「なに?」

「ただ、そう伺っております」

「下らん。黄金の時代も何も、帝国ライヒは滅亡する。落日だよ」

 全ては終わったのだ、と司令は嘆息する。

「しかしライヒの大地、ライヒの民が消え去るわけではありません。我らは明日を生きねばならないのです」

「明日……明日か」

 ようやく司令は視線を上げて、伝令将校をめつけた。感情の欠落した表情を貼り付けた伝令の、皮の下を見通さんと射抜く。

「貴様の言う〝ライヒ〟は、私の知る〝帝国ライヒ〟とは違う姿をしているようだな」

「はい、いいえ。我らは同じ物を見ることができると確信します」

「そうか」

 数秒、あるいは数十秒、司令は俯いて沈默し、固唾を呑んで見守る参謀たちを前にようやく顏を上げた。目だけを、ギラギラと光らせて。

「私は帝国の軍人だ。帝国ならざるライヒに生きることはできん」

「……残念です」

 それでも情動を感じさせない伝令将校を置き捨て、司令は腰を上げた。

「参謀長!」

「はッ」

「予備師団の状態は?」

「定数割れ、員数は三分の一ですが戦力を保っております」

「よろしい」

 北方軍は長らく戦域が低調だったこともあり、度重なる引き抜きによって既に実態を失って久しい。張り付け師団と呼ぶのもがましい、警察に毛が生えた程度の戦闘力しか保持していない。

 ただしその中でも一箇師団だけ、本当に最後の切り札として維持し続けた師団がある。もっとも、実態としては一箇戦闘団程度の戦力ではあるが、敢えて補充兵を入れずに装備・練度を保ち続けた虎の子だ。

「予備師団を国境線まで進出させる。同時に、レガドニア全土に展開中の北方軍を全て後退させろ。集結地点はオース市」

「はッ」

「重砲火器は現任地に放棄して構わん。身一つで良いから、可能な限りの速度で後退させろ。書類は適当にしておけ」

「はッ」

「あと、本司令部を前進させる」

「は?」

 本司令部、ということは北部方面軍司令部ということであり、減ったとはいえ総勢百人を越す大所帯。動かすとなると大事も大事だ。

「ああ、全部じゃなくていい。この会議室のメンツくらいだな。残りは降伏司令部に名称を変えて責任者を置け。我々は最前線に行くぞ」

「お伴します!」

 間髪入れずに何人もの参謀が声を上げる。

「参謀長、貴様は降伏の――」

「お断りいたします」

 ついていきます、と毅然と言い放つ参謀長に、説得は無理と諦めて、次席参謀を見る。

「次席参謀――」

「最近耳が悪くなりましてなァ」

 ふてぶてしく耳の穴をかっぽじりながら、彼もまた同行を志願する。室内を見渡して、全員がその気になっているのを見て、司令は考えを変えた。

「参加資格を変更する。まず、参加できるのは士官のみだ」

 部屋の中に何人か控えていた下士官が愕然とする。

「お待ちください閣下……」

 方面軍の下士官たちの長として列席していた最先任特務曹長が異議を唱えようとしたが、これを封殺する。

「ならん。帝国と心中する権利は、将校にのみ与えられた特権である」

 傲然と言い放ち、次いで二つ目の条件を挙げる。

「あと、の参加も不可だ。これは大人だけの楽しみだからな」

 若い尉官クラスの列席者が動搖するも、これも無視。

 そして我関せず、と一人佇立していた伝令将校を呼びつける。

「おい、貴様。どうせ帰る所などないのだろう?」

「こちらで降伏を見届けるよう、命じられております」

「そうかそうか」

 司令は適当に便箋を一枚持ちだすと、さらさらと何やら書き込んで判をした。

「一筆書いた。貴様が降伏の指揮を取れ」

「なんですって?」

 初めて表情が崩れるのを見て、司令はしてやったりと北叟笑む。

「面倒事を持ち込んだんだ。最後まで尻を拭え」

 もう後のことは知らん、と司令は部屋を後にした。


 司令は自室に戻って新品同然の野戦服を着こむと、営庭に出る。待てば次々と野戦服を纏った参謀たちがやって来て、中には年季の入った銃を担いで来る者もいる。

「その銃はどうした?」

「トナカイ狩りでもしようかと持ってきた猟銃ですよ。熊撃ちもできるマグナムですから、今こそ出番でしょう」

「違いない!」

 三々五々に集まったところで、司令部警備隊のトラックを挑発する。

「ところで誰が運転するんで?」

「おい、誰か運転できる者はおらんか?」

 しまったな、運転手のことまでは考えておらなんだ、と司令が顏を顰めるも、「自分が運転できます」との声が聞こえて振り向けば、そこには司令部付きの特務曹長の姿。

「下士官は参加不可と言ったろう」

 そういう司令に向かって特務曹長は階級章を指差してみせる。

「年功が溜まっておりまして、つい先程、少尉に昇進してきました」

 見れば何人かの先任下士官が、真新しい少尉の階級章を付けて並んでいる。

「馬鹿どもめ。司令部付きの下士官ならそこらの新品将校を顎で使えただろうに、少尉になったら下っ端だぞ」

「閣下こそ、我々抜きで戦争などできんと思い知っていただきたいものですな。どうです、運転も戦闘も、ひと通りできる得難い人材ですぞ」

「ふん。物好きなことだ」

 勝手にしろ、と言い捨てれば、勝手にします、と嘯く。

 参謀たちが何台かのトラックに分乗し、またどこから調達したものか、銃や弾薬箱を手早く積み込み始める。

「おい、急げよ。時間をかけると馬鹿が増える!」

「なんとも冷たい物言いだ。祖国に殉じたいという熱い思いを踏み躙るとは」

「まったく、降伏式典の方に参加を希望する奴はおらんのか。あまり数が少ないと、儀式好きな連合王国が気を悪くするぞ」

 やけっぱちの笑いが荷台に響き、我も我もと追いすがろうとする連中を置き去りにトラックが発進する。

「閣下ぁ!」「置いて行かないで下さい!」

 若手の将校が走るのを見て胸が痛む。

 同じ車輛に乗った参謀長が問うてくる。

「して、閣下。作戦はいかに?」

「守って勝てるわけもなし。で敵を誘引して、予備師団が運動戦だ」

「豪快ですな」

「ふん。ゼートゥーアの奴にできたんだ。私にだってできようさ!」

 まだ階級は私の方が上なんだ、とやっかんでみせる。

「このままだと階級でもゼートゥーアに抜かれかねん。ここで一丁、階級差というやつを決定的にしておかねばな」

「おお、良い考えですな。私も奴を追い越せそうだ」

 何人かの高級将校がこれは愉快、と破顏する。

「先に言っておくが、いつでも、随時離脱を許可する。気が変わった者は、その場で去ることを許す」

「そのようなこと、仰らないで下さい」

 搖れる車内で小銃を抱えた年嵩の尉官が笑う。

「きっと帝国ライヒは、若い奴らがなんとかしますよ」

 未来、か。

 どのような未来が帝国ライヒに待ち受けているのか、司令には全く明るい予想を描くことができなかったが、それでもどうやら絶望せずに前に進もうとする連中がいるらしい。

 頼もしいことではないか。

 ただ一点、気に入らないことがあるとすれば――。

「ゼートゥーアめ。何もかも貴様の思い通りになると思うなよ」

 無駄に頭の回る奴のことだ。他力をたのまず、全ての権力と責任を一手に引き受けて、阿修羅の如き奮戦をしているのであろう。

「恩を着せるつもりだろうが、そうはさせん。我らこそが、ライヒの未来に恩を売ってやるわ」

「素晴らしい取引ですな。まさに命の賭けどころに相応しい」

 不意に、上からブーンというプロペラ音が降ってきて、すわ敵襲かと幌の隙から上空を覗いた参謀が呆れ声を上げた。

「友軍機が! それと魔導中隊! 発光信号、ワレ司令部ヲ先導ス」

北方軍うちの将兵は馬鹿ばかりだ!」

 それでも律儀に参加資格だけは守っているらしい辺りが、いよいよ馬鹿馬鹿しい。

 司令はなんだか清々しい気分になってきて、懐に忍ばせてきたスキットルを取り出して、蓋を指で跳ね飛ばし、ごくりと一杯楽しむと、「歌うか」と笑った。


 帝国国歌を歌う部隊がレガドニアに侵入する連邦軍を足止めした三日間は、連邦の所定の進出計画に大きな影響を与えることはなかったと公式に記録されるところである。

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