第十一篇 搖籃期

 その孤児院は、連邦共和国南方の大都市の端に、旧軍の建物を利用する形で運営されていた。とはいえ設立当時それは特別なことではなく、同様にして旧軍の敷地や設備を利用した施設が数多く設立されていた。急場の一時凌ぎとして設立されたそれらが徐々に役割を終えていく中で、残った施設を、私達は記録に残す必要があると考えたのだ。

「本日は取材を受けていただき、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。遠いところからわざわざ取材にいらしてくださって、取材に値するものがあれば宜しいのですが」

 初老の院長は、自らコーヒーを淹れて、応接セットに座る私達の前に並べてくれた。気取ったところのない、シャツにセーター姿。中身のない左袖を除けば、宗教家や教育者といった色合いのない、それこそ極平凡な人物に見える。

「特に何の特徴もない孤児院ですが、どのようなお話をお聞きになりたいのでしょうか」

 取材申し込みを現地のエージェントを通じて行ったこともあり、こちらの意図をもう一度説明する。

「我が社では、あの大戦を振り返る特集を毎年組んでいるのですが、今年は子供や女性の戦後を中心に据える予定なのです。かつての戦災孤児が社会に出る頃合いということもあり、彼らを襲った苦難と、それを乗り越えて来た歳月を辿りたいと思っています」

「そうですか。しかし、なぜ当院に? 孤児院は他にも数多いでしょうに」

「幾つか理由はあるのですが、一番の理由としては、戦後設立された、通称〝赤鬚孤児院〟の中で、現存する一番最初期から活動している孤児院だからです」

 なるほど、と院長は相槌を打つ。

「昔話をお訊ねになりたい、と」

「もちろん、子供たちや、卒業生にも取材はいたします」

 実を言えば既にインタビューは進められており、その中でこの孤児院の話が何度か出たことも理由の一つではある。

 あの戦争には謎が多い。

 そしてその謎は、戦後にもまた尾を引いているのだ。


 助手が帳面を開き速記の準備が整ったところで、本格的なインタビューは始められた。

「孤児院の開設は、終戦翌年だそうですね」

「確かにそうなのですが、実はそれはあくまで孤児院としての体裁が整ったのがその年ということでして、活動そのものは終戦直後から始まっています。元は難民キャンプの自治組織でした」

 終戦当時、この帝国南方の都市には数十万人の難民が東方から押し寄せており、それは終戦直後も増加し続けていた。また都市自体も爆撃を受けており、家を失ったり、家族を失った者が多数発生していた。

 そんな混沌とした状況の中で、この孤児院は産声を上げることになった。

「終戦直後は特に酷いものでした。突然軍が機能停止し、武装解除され解体されたのですから、帝国の…当時のライヒの行政機構の半分が突如なくなったようなものです」

 院長は半分と言ったが、実際の所七、八割方と言うべきだろう。資源の生産、配分、流通の全てが戦争のため軍の管理下にあったのだ。それらが突如止まったのだから、〝混乱〟などという言葉では到底言い表せない程の壊滅的事態が全国各地で発生していた。

 これは占領統治を担うはずだった同盟各国にとっても全く想定外の出来事だった。軍の武装解除、解体、高級将校の逮捕訴追、高位高官の公職追放は既定路線として実行されたが、それがどのような影響を及ぼすか、想像できていなかったのだ。

 あらゆる生産と物流が司令部機能ヘッドクォーターを失って停止し、交通網が痲痹し、治安が急速に崩壊していった。既存の社会福祉団体ディアコニーは完全に飽和し、所によっては破綻に追い込まれていた。

 同盟各国も決して事態を傍観していたわけではないのだが、予想もされていなかった事態だけに、事前計画もなく場当たり的な対応以上の対策を講じることはできなかった。また、一部の……連合王国、共和国、連邦の将官らが殊更に帝国に対して懲罰的な対応を取ったことが事態に拍車をかけた。中立国からの人道援助物資を横領し、本国へと転用する者が相次いだのだ。その三箇国の内情を鑑みれば、帝国民よりも自国民を優先したのも無理なからぬところではあったが、しかし最悪の選択だった。

 旧帝国全土がまさに無政府状態に陥らんとしたその時、これを救ったのは無数の有志たちであった。鉄道運用に携わっていた者たちが中心となって後に国鉄の母体となる鉄道委員会が結成され、元憲兵を核に自警団が立ち上がって治安を確保して配給を取り仕切り、本来同盟各国に接收されるべき帝国軍の物資を無許可で分配していった。

 もし本当に英断というものがあるのであれば、これらの〝自主的な〟活動を追認し、後には公的活動に格上げしたアイゼントルガー同盟軍総司令の判断がそれに当たるだろう。

 そのような草の根の活動で辛うじて旧帝国が機能していていた時期に、この都市の郊外の難民キャンプでも同じことが起こっていた。

「見ての通り私は傷痍軍人で、当時は軍から放り出された一市民に過ぎませんでしたが、とにかく切羽詰まった状況でして、誰かが指揮を執らねばなりませんでした」

 無政府状態は容易に人を殺す。そして真っ先に犠牲になるのは弱者、すなわち子供や女性だった。院長は難民キャンプにいた元軍人軍属を糾合して自主管理組織を立ち上げ、この地域を占領統治していた合州国と交渉し、手に入れた物資を配分した。

「それでもなお、最初の冬に多くの人が亡くなりました」

 戦後の混乱期に亡くなった市民の総数は、国家の分断もあって今も詳細は判明していない。ただ、少なくとも五〇万人以上、恐らくは一〇〇万内外の市民が命を落としたと言われている。

「翌年になって、いくつかの人道的な政策が施行されることになり、我々は『孤児院』という体裁で援助を受けることに決めたのです。傷痍軍人や夫をなくした寡婦を〝職員〟とし、戦災孤児を收容する……もちろん建前です。関わった全員が、いわば難民だったのですから」

 子供と同じ数の大人が職員として働く歪な孤児院。ほぼ同時期に、現在の連邦共和国域内で同様の経過を辿り、幾つもの『孤児院』が立ち上がった。理由は不明ながら、総じて〝赤鬚孤児院〟と呼ばれるに至ったそれらに対し、合州国は何も言わず目を瞑り、支援を開始した。

 同盟軍の他諸国と異なり、合州国が旧帝国に対し同情的・融和的であったことは、特筆すべきことだろう。連合王国、共和国、連邦の各国が直接的に国土に被害を被ったのに対し、合州国本土が実質的に無傷であったことがその大きな要因であったと今日分析されているが、壮丁の動員に伴い国内産業の担い手となった女性たちが、悲惨な戦地の写真に心打たれたことも見逃せない。終戦の年の報道写真賞を受賞した「焼け跡の少女」と題された写真は、瓦礫と化した街を人形片手に彷徨う少女を写した一葉で、合州国内に大きな反響を呼び起こした。

 それまで政府検閲の下、勇壮な兵士の写真ばかりを見せられていた合州国銃後の市民に、悲惨な総力戦の様相を知らしめた。彼女たちが工場で製造した武器が誰に向けられたのか、を。

 世論を追い風に合州国で戦後立ち上がった対欧州送金組合。合州国内の二〇を超える慈善団体の共同体であり、欧州支援の統一窓口。軍用レーションとして大量生産されていたテン・イン・ワン・フードパーセルを〝援助物資〟として流用。合衆国軍の兵站能力ロジスティクスに物を言わせて旧帝国中に配布してのけた。

 他にも衣類、寝具、医薬品。惜しげも無く投入された物資の調達は組合への募金で賄われたが、匿名の篤志家からかなり巨額の継続的資金提供があったとされる。

 〝戦後〟において合州国がキャスティングボードを握る、これが契機でもあった。

「合州国の支援には重ねて感謝を。また、義捐金を出して下さった合州国市民の方々にも、深く感謝しています」

 旧帝国内に駐屯する合州国将兵が減るのに反して増えていく旧帝国軍の遊休施設を『孤児院』の土地建物として手に入れ、かつての兵舎で子供と大人が寝起きする体制がなんとか整った後も、難民は増え続けた。

「二年目は、規模の拡大が止まらない年でした」

 戦争終結と共に強制避難命令は解除され、疎開していた国民には元の居住地へ戻るよう指示が出ていたが、それが可能な状況ではなくなっていた。特に東部は〝新型爆弾〟で主要都市を破壊された上に、進駐した連邦軍が乱暴狼藉の限りを尽くしていた。東部からの避難民は戦後むしろ増加すらしていた。

 いくら合州国からの支援があるからといっても、限度があった。

「孤児も職員の数も増え続け、援助が追いつかなくなり、私達はとにかく食料調達の方途を探し求めました。当時は本当に『孤児院』とは名ばかりでしたね……」

 農業経験のあるものは畑を作り、狩猟経験のあるものは森へ出かけた。牧畜経験者は山羊や羊を飼い、河で魚や蟹を獲る者も。

 当然、比較的年長の子供たちも労働力として駆り出された。

 畑へ、森へ、河へ。

 決して食料が十分とは言えない時分に、それは必然として始まったことだった。それがある種の職業教育の性格を帯びてしまったのは、卵が先か鷄が先か。

「その年の後半から、新たな孤児が増え始めました……私生児です」

 忌むべき、そして恥ずべき事実だが、終戦直後、帝国全土で女性に対する暴力が横行した。特に連邦占領地域で顕著であったが、それ以外の地域で見られなかったわけではない。また、極端に食料・物資が不足する中、女性がそれらを手に入れるため、自らの体を売ったケースも多々見られた。

 包み隠さず白状すれば、私も、缶詰一つで身を売る女性と何度も遭遇した。

 そして十月十日を経て、父親の知れない望まれぬ子供たちが産まれ落ちることとなった。あのような情勢下で、赤子たちがどうして幸福な家庭に入ることができただろうか。一部の幸運な子供を除けば、多くが孤児院に引き取られることになった。

「本当に、どれだけ支援を受けても足りないほどでした。合州国から折よく粉ミルクの物資を受けられなかったら、どれほどの命が失われていたかわかりません」

 マールバラ公爵による「鉄のカーテン」演説以降、急速に実体化する冷戦構造。漸く〝欧州復興計画〟が真面目に検討される運びとなった。その中には、西ライヒ、すなわち現在の連邦共和国の経済的復興、自立が組み込まれ、漸く戦後の〝帝国膺懲〟は実質的に終了する。

 あれから幾星霜。連邦共和国の経済は飛躍的に伸びたが、それでもまだ道半ばだ。

 私は疑問に思っている点を質問する。

「最初の数年は子供たちにとって大変劣悪な環境であったわけですが、受入れを中断して質を改善しようとは思われなかったのですか?」

 彼らが酷く苦労したことは確かだが、それは殆ど無制限と言える勢いで孤児・難民を受入れ続けたからだ。無分別な拡大は、最終的に救済機関そのものを崩壊させかねず、そうなれば子供たちを巻き込んでの共倒れになるのは明らかだ。

 結果的に綱渡りを渡り切った今だからこそ回顧もできるが、当時、取捨選択を考えなかったとは思えない。

 だが院長は首を振って私の考えを否定した。

「子供たちをり取るなど、考えたこともありませんでした。目の前に孤児がいたら保護せずにはいられませんでしたから……不思議と不安はありませんでした」

 もしも欧州復興計画が遅れていたら、相当悲惨なことになったに違いないと、私はおののかずにはいられなかった。彼らは何故そこまで合州国を信頼できたのだろうか……。

「欧州復興計画のお蔭で我々も一息付けましたし、また国鉄や国境警備隊の設立によって公職追放されていた元軍人に再就職の道が拓けたことも状況の好転に繫がりました」

 軍の解体と公職追放によって職なしに身をやつしていた元軍人たちがこぞって国境警備隊や国鉄に就職し、就業状況と治安が大幅に改善した。また、戦後勃興した民間航空会社へのパイロットの就職も段階的に認められた。

 ただ、そんな中でもやはり難民はまだ増え続けていた。

 今度は、社会主義国家の建設が始まった旧帝国東部からの脱出者だ。後に民主共和国となる国家建設は、〝覚醒せしライヒの民〟によって主体的に進められた、とされる。実際のところ、連邦による傀儡国家樹立に他ならず、少なからぬ市民が西側への脱出を試みた。(この背後には西側による不正な誘導があったと東側は主張している)

 当然それらの行為は東側の官憲によって取り締まられたが、老人や乳幼児といった非労働人口の脱出は半ば意図的に見逃された。一方で設立間もない西側の国境警備隊はこれらについて積極保護を図った。結果、負担は全て『孤児院』へ。

 このような経緯で、旧帝国西側・後の連邦共和国は非生産人口を多く抱え、苦難の船出を余儀なくされた。

「なんとか学校が再開された時には、大人が無理をしてでも子供たちを学校に通わせました。それがライヒ…連邦共和国の未来に必要だと信じたからです」

 とは言え、経済復興は始まったばかり。社会は未だ合州国からの支援頼みだった。

「餓死の危険こそ遠のきましたが、子供たちはいつもお腹を空かせていました。大人の数も減って、以前のように狩りや漁で補うのも難しくなっていましたし……」

 健常な者から再就職をしたのだから、残ったのは院長のような怪我人や老人がどうしても多かった。

 結局、狩猟採集に頼らざるを得なかった。かつていた大人たちから技術を学んだ年長の子供たちが年下の子供たちを率いて森へ行き、河へ行き、山羊を育て、畑を耕した。

 週末を利用しての一泊行は、監督の大人も元軍人だったことから、さながらサバイバル訓練の様相を帯びていたと、『孤児院』出身者たちは口を揃えた。行軍、野営、罠の設営、収穫、解体……。

 冷たい戦争、〝冷戦〟の本格化に伴い各種制限の解除が怒濤の勢いで進み、ライヒの経済が回復基調に乗りようやく飢えと縁を切ることができるようになった時には、戦後十年近くが過ぎていた。

 その間に子供たちの活動は〝伝統〟となり、その必要がなくなった今もなお、野外活動として続いているという……。



 四件目の取材を終えた私の心中では、言い表しようのない不気味さが渦巻いていた。

 一体これは何なんだろうか。

 あの混沌の時代の中で、難民キャンプの中から自治組織が立ち上がり、合州国からの支援を受けて考えられ得る限り最善の選択を道を辿り、多数の市民を保護してのけた。確かに、美談としか言い様がない。

 しかしそれが連邦共和国の各地で同時多発的に、同じようなプロセスを経て成果を挙げる、などといったことが本当に起こるのだろうか?

 四件の保護施設でのインタビュー内容は、驚くほど似通っている。

 保護施設だけではない。あの鉄道委員会も、今もよくわからない部分が多い。自発的に立ち上がったという割には、あまりにも統制の取れた行動。あつらえたようなダイヤグラム。

 まるで事前計画でも用意されていたかのような周到さ。合州国が呼応することを知っていたかのような連携。戦中の、あの帝国軍の、当意即妙かつ稠密極まりない部隊運用を見るかのような、あまりにも無駄のない動き。

 子供たちが孤児院を卒業するタイミングで再軍備が許可され、彼らは野外活動の経験を携え、新たに編成された連邦共和国軍へと入隊。幾人もが下士官、士官として軍に留まる道を選んでいる。他方、除隊した若者は拡大する経済を支える労働人口になり、さらなる経済発展に寄与した。

 一方で東側の民主共和国はを失い、経済建設継続を思うに任せられなかった。短期的に余剰と思われた人口を切り捨てたが故の失敗だった。

 これらの一連の動きは、本当に個々に、全く、完全に、無関係に起きたことなのだろうか。

 無論、証拠などない。どれほど調べようとも、一つ一つは偶然起きた出来事でしかない。しかし、視点を引いてみると、あたかも全てが計画されていたかのように、一繫がりをなしているように見えるのだ。

 私にはどうにも、悪魔のような奸智を戴く死せる参謀将校が、地獄からくりいとを操っているかのような、そんな妄想を振り払うことができない。

 あの戦争には、謎が多い。

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