第六篇 原隊復帰

 フランソワ共和国の東洋における拠点、インデンシナ半島の様相を一言で表すならば「茹でガエル」だと彼は思った。宮殿の如き屋敷の中で何十人もの使用人にかしづかれ、王侯貴族のような生活を送っている入殖者コロンたちには楽園のようにも感じられるのだろうが、ジャングルを切り開いて作った駐屯地で日々パトロールに明け暮れる兵士たちから見れば、浸っている湯の温度がわからなくなっている馬鹿どもの乱痴気騷ぎだ。

 ルーシー連邦の秘密裏の支援を受けた共産ゲリラ共の跳梁は拡大する一方だし、現地人のサボタージュやハラスメントは日々の平常任務を困難にし続けている。将校たちは損害が発生する度に喚き散らしているが、一向に有效な対策を取れずにいる。有り体に言えば、無能だ。

(こんな時、中佐殿であれば……)

 ついついそんなことを考えてしまう。

 嫌な癖が付いたものだ。

 灯火管制下で最低限の赤い標識灯しか点いていない駐屯地の道を慣れた足取りで進み、全ての窓に板が打ち付けられた木造のクラブハウスの扉を開ける。カーテンの向こうの明かりに目を細めながら、外扉を閉めてから改めて内扉を開ける。しっかりした防音性を誇るように、内扉の向こうからピアノジャズの旋律が煙草の煙と酒の香りと一緒に押し寄せてくる。

 下卑た笑い声、料理の匂い、踏み鳴らされる床の振動。

 テーブルの隙間を縫って歩けば、探していた顏がひょいとこちらに向かって手を挙げてきた。

「如何でしたか、上級曹長殿?」

 数人が囲むテーブルの空いていた椅子に座ってビールも頼まないうちから、仲間の曹長が聞いてくる。

「いよいよ俺にも来たよ」

「やはりですか」

「将校になれとさ」

 浅黒い肌の現地人のウェイトレスが運んできたビール瓶を手にし、仲間たちと一緒に乾杯する。

「戦友に」

「戦友に」

 ガチガチと瓶をぶつけ合い、一気にあおる。

「マズい」

「いやまったく、フランソワ人はビールの造り方がなってない」

「なってないのはビール造りだけじゃないがな」

「違いない!」

 下品に笑って皿に盛られた料理を摘む。

「それで上級曹長殿は如何なされるんで?」

「冗談じゃない」

 軍隊において下士官・兵と士官・将校は厳然と異なる。

 下士官・兵が命令を受けそれを実行する手足であるのに対し、士官・将校は作戦を考えて命じる頭だ。そして何より、士官・将校は国家の交戦権を体現する責任を負う。国家の名において士官は考え、行動し、命令を下す。よって責任は常に士官にあり、士官の行動は交戦規定や軍法という形で国家が保証する。

 士官になるということは、ただ責任が増すというだけではなく、国家の軍事力を行使する側に回り、否応なく国家機構の一部を担うことになる。

 故に士官は特別な教育を受けなければならないし、その国際法的な身分も兵・下士官とは異なるものになる。

「今更フランソワ国籍なんぞ欲しいものか」

 フランソワ共和国には、外人部隊レギオン・エトランジェと呼ばれる外国人によって構成される部隊がある。フランソワ国籍を持つ士官によって統率された、外国人兵士たちによって構成される部隊であり、長い歴史と伝統を誇る。

 フランソワ人でなければ何者でも前歴不問。犯罪者だろうが王侯貴族だろうが一切考慮されない。入隊と同時に身分を喪失し、偽名を与えられ、フランソワ軍人として生きることになる。一定の年限を勤め上げればフランソワ国籍を取得できることから、移民目的での入隊も多い。

 とはいえ、〝国民〟にはさせられないような仕事が優先的に回ってくる部隊だけに、訓練は厳しく脱落者・脱走者は多く、任務に至っては危険極まりない。士官連中は外人部隊の隊員など一山幾らでしか考えていないのだから、作戦など推して知るべしだ。

 彼らとて、散々〝作戦〟には煮え湯を飲ませられてきた。

 こちらがここから逃げ出せないと思って、足元を見てきたわけだ。

「それを今更将校だと? ふざけんのもいい加減にしろってなもんだ」

「それは残念ですな。上級曹長殿なら良い将校になって我々を率いてくださると思ったのですが」

 冗談めかしてニヤニヤ笑う上級軍曹に、指鉄砲を突きつけてやる。

「馬鹿言うな。あんな将校共を育てて恥じない将校課程だぞ。我慢が三日続くか怪しいもんだ」

「初日にはなさらないんで?」

「俺は〝閣下〟と比べれば慈悲深いんだ」

 ギャハハハ、と仲間たちが再び下品に笑う。

 慈悲深いので、無能過ぎて有害な将校をちょっと事故に遭わせるくらいで済ませている。無能でも無害な将校には手を出していない。

「我らが戦闘団長殿なら、即刻全員銃殺だろ」

「くっくっく……苛烈なお方でしたからな」

「理想が高い分、要求も厳しかったが、何よりご本人が最も優秀であらせられた」

 今は遠い思い出の中にしかいない、かつての愛すべき上官殿を酒の肴にする。

 その思い出を共有できる仲間も、今はここにいるだけだ。戦争は何もかもを奪い去った。

 にも拘らず、彼らは未だその泥沼から抜け出せずにいる。

 因果なものだと自嘲しながら、再び運ばれてきた酒を高々と掲げる。

「戦友に!」

 そうして夜はふけていく。


 今でも忘れられない。

 泥沼の東部戦線。

 一時たりとも気の抜けない敵地で、強制的に休養を取らされながら、自分が何をしているのかすら見失い、僅かに失調を来した。完璧な戦争機械として鍛え上げられた我が身に生まれた、僅かな齟齬。それが負傷という形になったのは、運が良かったとしか言い様がない。戦死でもおかしくなかった。

 繃帯巻きにされ、仲間たちと再会を誓いながら病院列車で後送された先が野戦病院ではなく中央の陸軍病院だったのは、部隊の所属の問題だったのか、あるいは戦闘団長殿の手配だったのか。

 手術が終わって麻酔から醒めた頃には、帝国の敗勢は誰の目にも明らかになっていた。今日を耐え切っても、明日敗けるのか、明後日敗けるのか。その程度の違いしかなくなっていた。

 日々伝えられる劣勢と、満足に動かない体。

 そんな入院生活に嫌気が差して、自主退院をして自分の居場所を捜した。

 恐らく書類上は脱走になっているのではないかと思う。だが、あんな所で〝最後〟を迎えたくないと心底思ったのだ。どのような〝最後〟であれ、その時は仲間と一緒に迎えたかった。

 参謀本部直属の戦闘団の情報は戦場伝説を追うのに等しく、また、冷静になって考えれば、あの戦闘団長殿が軍規を犯した自分を迎え入れてくれる筈もなかっただろうが、その時はそんなことも分からなくなっていた。

 そして、間に合わなかった。

 発動された最後の大規模反攻作戦〝ラインの護り〟作戦において、サラマンダー戦闘団は帝国軍の横腹を守るために合州国の機甲師団を迎え撃ち、そして力尽きた。

 その情報に接した時、何かの間違いだと思った。戦死公報に並ぶ名前を見て、悪い冗談だと笑おうとした。

 何故だ?

 間抜けで負傷離脱していた自分がまだ生きているのに、何故戦友たちは逝ってしまったのだ?

 二階級特進して准将となった戦闘団長殿を筆頭に、軒並み〝上官〟になった戦友たち。

 どうしてこうなった?

 混乱したまま、戦闘団の生存者と合流しようと足搔いたが、その頃には既に軍機構も半ば機能不全に陥っており、配属などという情報はどこに行っても得られはしなかった。

 そして、東部方面軍の崩壊。雪崩れ込む連邦軍。

 最早、目に付いた部隊に飛び込んで現場の先任の下に入り、辛うじて繫がる通信線から流れる命令を遂行するのが帝国軍の実態と成り果てた。

 それでも、それでも、帝国軍人は戦ったのだ。隣にいるものが誰かすら定かでなくなっても、日付や時間の概念すら失われても、ありとあらゆる戦術を駆使し、それすらもできなくなれば宝珠を咥えて自爆することすら厭わなかった。

 多くの戦友を見送ることになった。

 ほんの僅かな時間敵を拘束するために、数多の男たちが命を投げ出していった。

 泣きながら、笑いながら、叫びながら、歌いながら、悶え苦しみながら、這いずりながら。

 命冥加に生き残ってしまったのは、何故なのだろうか。

 気がつけば、何人もの男たちを率いていた。

「あなたが先任です!」

 そういって指揮権を寄越した軍曹とは半日も一緒にはいられなかった。その後、自分より上位の者と合流することなく、停戦を迎えた。

 停戦は、終わりではあったが、また新たな始まりでもあった。

 停戦だからと言って昨日までのあれやこれやを水に流せる人間ばかりではない。高級将校は鄭重に扱われたのだろうが、下級将校以下となれば〝現場判断〟で処分されることも多かった。

 また、魔導師は些か執拗に追い回された。特に東部で悪名の高かった部隊や所属将兵は、連邦軍が「国際法違反」などと言って手配をかけたのだから笑えない。

 連邦が戦時国際法の類を批准していなかったことは、周知の事実ではないか。

 だが、敗者の弁が何ほどの力を持とうか。

 最後に残った仲間たちと共に敗残兵狩りの手を潜り抜け、家族がいるものは別れ、また時に戦友を救って合流し、歩兵一個分隊ほどの規模となってしまった時に決断した。

 かくして彼らは名前を捨て、かつての仇敵の下で働くことになった。勿論、嫌がる者もいたが、伝手もない彼らに他に道はなかった。

 戦後の混乱期においてフランソワ共和国が実働戦力を欲していたことも幸いして、彼らはめでたく〝前歴不問〟で採用され、偽名を与えられて海外領土に送り込まれた。

 帝国に破れ国威を喪失した共和国では戦後殖民地の独立運動が盛んとなり、アルジェンナでは武装闘争が勃発。疲弊した共和国は鎮圧のため外人部隊を投入した。似たような道を辿ったのは彼ら以外にもいたらしく、外人部隊ではライヒ語が通用するような有様だった。

 共和国の尖兵となった元帝国軍人たちの前に現れたのは、帝国占領下にフランソワ人で編成されたヴァルデン軍団の残党だった。戦後、裏切り者と呼ばれ私刑の対象となった彼らもまた、寄る辺を探してアルジェンナに流れ着いていた。

 元帝国軍のフランソワ人がアルジェンナ側で、帝国人が共和国側で。共に帝都で〝火の三週間〟を潜り抜けた戦友の皮肉な再会は、砲火の応酬で暖めあう外なかった。

 涙など、涸れ果てていた。憎しみも怒りもなく、ただ敵であるというだけで、かつて同じ旗を仰いだ戦友が殺し合う。これを地獄と言わずして何と言おうか。

 灼熱のアルジェンナが終われば、次は熱帯のインデンシナ。少しずつ減っていく仲間たちを見送りながら、彼はそれでも最後の一人となるまで外人部隊に所属し続けるつもりだった。それが責任だと思っていた。



廃墟より甦り、

未来を目指して、

汝に最善を尽くそう。

ライヒよ、統一された我らが祖国よ。

我らは一致協力して

過去の苦難を乗り越えてみせる。

必ずや我らは成功するのだから。

暁には、太陽がまたとなく燦らかに

ライヒを照らし出すことだろう。

取り戻そう、我らがライヒに

黄金の時代を!


 気がつけば酔い潰れていたらしい。

 客の姿もまばらとなったクラブの中に、ピアノが流れていた。

「誰だ、こんな曲をリクエストした奴は……」

 忌々しいと頭を振る。

 一緒に飮んでいた筈の軍曹たちの姿も既になく、時計を見れば消灯時間も間近だ。恐らく兵卒たちを追い立てに行ったのだろう。一人寝かされていたのは温情なのか、ちょっとした意地悪なのか。

 本来勇ましい愛国歌だったが、アレンジされた曲調は静かなバラードで、閉店間際の閑散とした店の雰囲気に妙に似合っていた。

 綺麗に片付けられたテーブルの上にぽつんと残されていた、すっかり氷の溶けたショットグラスを引っ摑むと、意外としっかりした足取りでカウンターに向かう。

「お代わりで?」

「いや、もういい。水をくれ。炭酸で」

 バーテンダーが出してくれた瓶を口に付けようとしたところで、カウンターの隅に人影があることに気づいた。

 灯火管制のため決して明るいとは言えない店内で、照明の影に隠れるような位置取り。

 脳内に警報が鳴り、ゆっくりと水を含みながら観察を始める。

 男だ。

 軍服ではない。

 スーツ姿。

 目に見える武器は携帯していない。

 だが、恐らく武装している筈だ。

 顏は影に入っていて確認できないが、いい年配のようだ。

 煙草は吸わないのか、灰皿の用意はない。

 まだ氷が溶けていないグラスを、男が持ち上げてこちらに向けた。

「奢ろうか、〝中尉〟?」

 脳を突き抜ける衝撃。

 この声は、知っている。散々部隊で聞いた、副長の声。

「しょ、〝少佐〟……⁉」

 しぃ、っと人差し指を唇に当てて、にやりと笑う。

「私はそんな人物ではないよ。君が〝中尉〟ではないようにね」

「生きておられたのですか!」

 何も考えられない。かつて戦死公報を確認した筈の人物が目の前にいるのだ。思わず詰め寄ろうとして、足が縺れた。

 そんな様子を見て〝少佐〟がやれやれと肩を竦める。

「暫く会わないうちに隨分節制を忘れたようだな。これは見込み違いだったか」

「お待ち下さい、これはたまたまでして……」

 どうか中佐には内密に……と続けようとして、再び衝撃が走った。

 そうだ。

 副長がこうして生きているのだ。

 であれば、中佐は、戦闘団長殿は?

「まさか、戦闘団長殿も……!」

「勿論、一緒になさったよ」

 その言葉が示すところは明瞭だ。

 生きておられる……!

 突然かつての情景が脳裏に蘇る。ラインを、北方を、砂漠を、連邦を、帝国中の戦域という戦域を渡り歩いた青春の日々。忘れ得ぬ、戦友との輝かしき時間。

「長らく連絡が取れず、済まないことをした。何しろフランソワ外人部隊というのは、外からは厳重に隠蔽されていてな」

「こちらこそ、一番大事な時に負傷離脱などしてしまい、申し訳ありませんでした!」

 病院を抜け出した結果として、跡を追えなくなっていたのだという。なんということか。

 嗚呼、そしてこの様子から分かる。戦闘団長殿たちは、何らかの極秘任務に就いたのだ。

「我々は閣下の下で今も任務を遂行している」

 目から滂沱と溢れる全ての感情がない混ぜになった激情の中心は歓喜だ。

 すっとカウンターの上を名刺が滑ってくる。

『ザラマンダー・エアー・サービス』

 所在地は合州国。

「まだ登記が済んだばかりで、ペーパーカンパニー同然だがね。懐かしい顏が揃っている」

 社長が誰か? 問うまでもない。

 直立。気ヲ付ケ。敬礼。

「自分は…自分は、原隊復帰を希望するものであります!」

「よろしい」

 鷹揚に頷く〝少佐〟が、名刺を拾い上げて裏面にさらさらと番号を記す。

「〝カンパニー〟の紐付きだが、お陰で偽装身分カバーには不自由しない。退役したら連絡をくれ」

「可及的速やかに!」

 敬礼を下ろし、直ぐ様脳内で退役申請の文面をフランソワ語で練り上げる。

「〝顏見知り〟が何名かおりますが、一緒に誘ってもよろしいものでしょうか?」

「社長の要望に応えられそうな有能な人材は大歓迎だとも」

「期待を裏切らないよう、せいぜい努力いたします」

 社長の要望、という言葉ににやにや笑いあう。

 ああ、またあの地獄に浸ることができる。

 懐かしき、忘れ得ぬ、灼熱の、極寒の地獄。

 戦闘団長殿は今はどのようなお姿になっておられるのだろうか。

 男達のケツを蹴飛ばすあの脚は健在だろうか。

「一つだけ忠告しておこう」

 すれ違いざまに肩をぽんと叩いて〝少佐〟が囁いた。

「酒は抜いておけよ」

 死にたくなけければな、と付け加えられ、彼は早くも震え上がった。

 それこそが、彼が望んでいたものではあったのだが。

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