第五篇 記録映画

 かつて帝都と呼ばれた都市は、現在は大きく二つに別れている。西側が連邦共和国ベルン、東側が民主共和国領ベルンだ。両国とも、このベルンが首都である、と宣言しているが、実際の首都機能はそれぞれ別の都市に置かれている。

 現実的問題として、この都市を首都とするには問題が多かった。実質的国境線が南北に走っていて東西両軍が睨み合っているという点を除いても、大戦で徹底的に破壊し尽くされた都市機能は未だ再建の途上だ。

 大量の地雷、不発弾、未使用弾薬、謎の地下構造、そして夥しい数の遺体。これらを処理しなければ一平方メートルたりとも再開発ができないのだから、作業の進捗など推して知るべしだ。首都機能を別都市に構築するのもむべなるかな、と言ったところ。

 それでも、ライヒの民の勤勉さは、この都市の再建を遅々として進めていた。合州国が始めた欧州復興援助計画によってまずは西側の整地が始まり、次いで競うように東側の開発が続いた。

 この再開発はそれぞれ問題を抱えながら戦後現在まで続けられている。

 大尉は忌々しい気分で、塀の向こうに掲げられた映画の看板を見やる。扇情的な女性を描いた頽廃映画の巨大看板は、間違いなく東側の市民に向けられたものだ。あれを市民の目から隠すため、国境沿いには高層ビルを並べて目隠しをしているのだが、資本主義の毒はどんな小さな隙間からでも染み込んでくる。〝汚染〟された市民を検疫する仕事は、必要だと分かっていても気が滅入る。

 ここは戦後世界を二分するイデオロギーがぶつかり合う最前線だ。

 銃砲弾が飛び交うわけではないが、水面下では静かながら壮絶な戦いが日夜繰り広げられている。戦前の帝国の戦犯どもがのうのうとのさばり、悪辣な資本家に牛耳られた西側に対し、社会主義の優位性を誇示する役割がこの都市にはあり、またそれを妨害すべく西側からの干渉も多いのだ。

 故に、国家保安省シュタージの出先機関もかなり大がかりな組織が網の目のように構築されている。

……難点があるとするならば、拠点が分散しているために要員の移動が避けられないことだな。

 何の特徴もない規格品のコンクリートビルディングの入り口を潜り、大尉は検問を潜って専用エレベータに乗り込む。この先にあるのは秘匿された傍受施設だが、今日はそこに客人が来ているとかで喚び出されのだ。

 エレベータを降りたところにまた衛兵が立っており、どうにも警備が厳重なのが気になったが、部屋に通されてその理由がわかった。普段は実質的首都におわすルーシー連邦国家保安委員会の駐在委員がおわしましたのだ。

……どう見ても面倒事だな。

 顏を顰めたくなるのを堪えて、連邦の同志と挨拶を交わす。

「さて、単刀直入に行こう」

 大佐の階級章を付けた国家保安委員殿が席を勧めながら、まったく訛を感じさせない口調で口火を切った。

「同志大尉は西側への潜入作戦の経験が豊富だと聞くが、その経験を活かしてある特殊作戦に作戦に志願して欲しい」

 つまり、実質的な強制ということだ。

「ご指名いただき大変光栄です、同志大佐」

「そうか、大変結構」

 この民主共和国において、指導的立場にあるルーシー連邦から降ってくる〝依頼〟を断ることは、自殺と同義語でしかない。そして大尉には自殺願望はなかった。

「先日のことになるが、〝西側〟で地下壕が発見された」

 それ自体は珍しいことではない。むしろ日常茶飯事と言える。何しろ〝火の三週間〟と呼ばれる戦闘において帝国軍はこの旧首都を要塞都市に作り変え、徹底的な市街戦を繰り広げたのだ。あらゆる建築物、それこそ歴史的遺構すらもトーチカとし、地下にあるものは古代の水道まで利用した。それでも飽き足らずに穴を掘っては守備拠点として利用した。

 連邦軍が一メートル進むために一個分隊の命が必要だったと伝わる戦いだ。

 停戦後、帝国軍の武装解除と共に、把握できる範囲では武器は撤去されたのだが、乱戦時の混乱の中で各防衛部署が独自に構築した部分については図面も資料もなく、全滅した部署が人知れず残した地下壕に集積された弾薬が、付近の工事の振動で爆発して多くの犠牲者を出す惨事まで起きている。

 旧帝都を掘り返せば何かしら当時の遺構が出てくるのは、日常と言うべきだった。

「西側の協力者からの情報によれば、旧帝国軍参謀本部の備蓄倉庫の一つだそうだ」

 大佐はそう言ってアタッシェケースを開き、一枚の書類を差し出して見せた。無味乾燥な備品の一覧には取り立てて目を引くものはないように思える。一体何が親会社インスペクチヤの興味を惹いたものか。

 それにしても、わかってはいても、国家保安省が地道に構築した協力者網から得られた貴重な情報が、親会社に筒抜けになっているのは、内心思うものがある。それで親会社が得ている情報の一つでも融通してくれるならともかく、連中の秘密主義ときたら!

 大尉は内心を押し殺して確認した。

「破壊ですか?」

 かの大戦については、戦後編まれた公式の歴史が偽り極まりないものであることは、共通見解であると言って良い。少なくとも、彼らのような情報部員に於いては。この点についてのみは、合州国も連合王国も共和国も連邦も、歩調を揃えて真実の隠蔽に余念がない。

 ただ、些かの〝路線の違い〟があり、誰にとって都合が悪い情報かによって、扱いが変わることがあるのだ。

「乱暴な手段は好ましくない」

 おや、と思う。

「漏電による火災などはいかがでしょうか」

 多少手間はかかるが、協力者と工作員を使えば、無理なく火災を演出できるだろう。こちらが手を出した痕跡すら残さず始末が可能だ。

「確実を期したいのだ、同志大尉」

 それで、潜入工作か。目的の物を確実に始末しろ、と。

「対象物を、こちらが用意した物とすり替えて欲しいのだよ」

 なんということだ。

 工作としては最高難易度に近い。

 西側に知られることなく、その対象物とやらを始末する。始末したことすら気づかれないように、だ。そのためには、一見何もされていないように見せかけねばならない。

「その備蓄倉庫の警備状況は、分かっているのでしょうか?」

「残念なことに既に連邦共和国軍の管理下に入っている」

 爆発物等は見つからなかったため、歩哨が置かれている程度だと言うが、簡単に言ってくれる。

 荒事を避け、万全を期すためには、連邦共和国軍内の協力者を動かす必要があるだろうが、それは大尉の権限を遙かに超える。

 暗い気分になったところで、大佐が事も無げにこう付け加えた。

「心配は不要だ。我が国は勿論、作戦には最大限の援助を行うよう国家保安省をする」

 それは事実上の命令だ。つまり、国家保安省を挙げてこの作戦を成功に導け、と。

 大尉は自分の喉が音を立てるのを自覚した。それほど困難な目標とは一体何なのか。

「……目標をお教え下さい。必要な人員の手配をいたしますので」

 大佐の指がすっと書類の上を滑って、止まった。

 記録映画『モスコーは涙を信じない』。


 準備は急速に進んだ。

 潜入部隊は極少人数で、最低限の武装しかせず、民間人を装うのはいつも通りだ。

 連邦共和国内の協力者リストから必要な者がピックアップされ、配置が決定される。今回は連邦共和国軍内部の協力者を動員するため、失敗は許されなかった。

 通常こういった協力者は、実際の工作に関与させることはない。彼らに期待されるのは、彼ら自身が「大した価値はない」と信じ込める程度の情報を、良心が咎めない範囲で継続的にこちら側に提供することなのだ。終いにそれが日常となり、罪悪感を抱かなくなるまで調略するには、長い時間がかかる。

 本来は一度や二度の工作で使い潰すのは惜しいのだ。

 一つの帝国が東西に分かたれ、幾多の家族や親戚、親類縁者が東西に分断され、連絡を欲した。そういった肉親の情をくすぐり、便宜を対価に協力をさせることは、今後分断が長期化するに連れて難しくなることが予想されていただけに、今回の作戦は破格と言えた。

 それだけ、連邦の国家保安委員会のゴリ押しが強かった言うことだ。

 事情がどうあれ、準備に万全を期したおかげで、作戦は円滑に進んだ。まずは確保されている侵入ルートを使って越境。合法的に越境する方法もあるのだが、荷物の問題があり、今回は非合法な潜入だ。これまた確保されている活動拠点に入り、着替え。ツナギやヘルメットといった作業員姿が、集団で工具を抱えて移動するのには最も目立たない。

 一番の難関であった連邦共和国軍の検問は、内部協力者たちを監視に付けることで対応した。実を言えばこれが一番骨だった。

 封鎖された工事現場で歩哨に立つ憲兵に、合言葉を告げる。

「〝この先で工事をすることになってるんですがね〟」

「〝早く行け〟」

 憲兵は気忙しげに工作員たちを通すと、神経質に辺りを見渡し始める。そのような態度は感心しないのだが、専門の訓練を受けているわけでもないのだ。仕方ないところもある。

「急ぐぞ」

「は」

 大尉は部下たちと不自然に見えない程度に急いで工事現場にぽっかり開いた穴に梯子を下ろし、一人を見張りに残して地下に降りる。黒々と焼けた土が突如コンクリートに変わり、急造とは思えない程しっかりした構造の地下壕だった。

 迷うことなく通路を進み、二度程折れた先にある鉄の扉に辿り着く。本来の錠前ではなく、鎖と南京錠で封がなされているが、そのようなものを開けるのは基本技能だ。

 一分とかからず部下が解錠してみせ、音に注意しながら鉄扉を開くと、中は棚とそこに詰め込まれた物品の山だった。

「この中から目的のものを探すのか……?」

「まずはフィルム缶を探せ」

 懐中電灯を点け、一斉に棚に取り付く。箱を取り出しては開け、また閉じて元の場所に戻すこと数度。部下の一人が「ありました」と棚の一角から声を上げる。それぞれフィルム缶が数十缶入った箱から、元に戻す時に順番を間違えないように缶を取り出し、ラベルを確認する。

「これでもない」

「これは西部航空戦の記録映像か」

 どうやら当時の参謀本部が集めた記録映像のようだったが、これはこれで大変貴重なのだろう。時間があったら鑑賞したいと思えるタイトルのものもあったが、不幸にも任務中だった。

「『モスコーは涙を信じない』…これか」

 数箱目でようやく見つかった。

 一体どんな作品なのだろうか。

 聞いた話だと戦前の連邦で撮られた喜劇映画らしいが、反革命的な内容が災いしたとかなんとか。国家保安委員会の連中が血眼になってすり替えを試みるということは、相当問題のある内容なのか、あるいは人物でも写ってでもいるとでもいうのだろうか。

 失脚した人物を写真や映画から消し去るのはよくある仕事だが、国外に流出したフィルムにまでこれを行うというのは、あまりない。

「深く追及すべきではないな」

 自らを縛め、缶を開けてフィルムのリールを取り出す。自分たちが持ち込んだ偽物のリールと入れ替え、フィルム缶を箱に詰め直し、箱を棚に戻す。

 そうして彼らは、自分たちが扱っているものの意味すら知らずに、元の道を引き返すのだった。


 数日後。

 連邦首都モスコーの共産党書記局では、一巻のフィルムを前に局員たちが満足そうな顏を並べていた。

「同志議長、これがそのフィルムかね」

「は。分析の結果、戦前の連邦製ネガフィルムであることが判明しております。オリジナル・ネガの可能性が極めて高いと推測されます」

 国家保安委員会議長の説明に、書記局員たちが鷹揚に頷く。

 長年、本当に長い年月をかけて探し回った品だった。

 帝国が降伏した際にも血眼になってベルン中を捜索したものの、マスター・ポジやデュープ・ネガを見つけるに留まった。このオリジナル・ネガの発見は悲願だった。

 当時の内務人民委員部が〝組織の混乱〟によって機能を大幅に減じていたことも理由ではあったが、終戦間際の混乱は各所に小さくない影響を残した。

「それでは、いかが致しましょうか」

「今この場で燃やせ」

 粗野な振る舞いで知られる第一書記閣下が、ふん、と鼻息を鳴らしてそう命じた。

「このようなフィルムはこの世に存在しない。そうだろう?」

 『モスコーは涙を信じない』は出来損ないの喜劇映画なのだ。間違っても、モスコー各所を攻撃する帝国軍の姿を写した映画であってはならない。

「では」

 大振りな陶器の灰皿が用意され、リールから引き出されたフィルムが灰皿にどさりと乱雑に載せられる。

 さっとマッチが擦られ、火がフィルムに移されれば、セルロイド製のフィルムは悪臭を発しながら良く燃えた。書紀の一人が煙を逃すために窓を開けた。

 窓からたなびく煙が火事と間違われ、火災警報が発報されて小さくない騒動が起きたために、リールの芯に小さく書かれたメッセージには誰も気が付かなかった。

「T/Dより愛を込めて」


 同じ頃、連邦共和国にて。

「アレに言われるままにやってみたが、思いの外頭の痛い結果になった」

 准将の階級章を付けた銀縁眼鏡の男が、こめかみを指で押さえる。

「これほどまでに民共どもの手が我が方に入り込んでいるとは……」

 同じく大佐の階級章を付けた男は名簿を見て愕然とした表情を隠そうともしない。

「閣下が仰るには、排除は現実的ではないとのことです」

 何者とも知れないスーツ姿の男性が〝休め〟の姿勢で述べる内容に、准将は同意する。

「それはそうだろうな」

 今回の〝罠猟〟で引っかかった人数を考えれば全く理解できる。

「こちらがこれらを察知したことに気づかれぬよう、適当な情報を流す手段として利用するべきだ、と」

「簡単に言う」

 実際それをやってみせてこの事態なのだから、苦笑いしか出ない。

「まあいい。連邦情報にやらせよう」

 この新たな時代の戦争においては、直接的な軍事力の衝突以外の戦いが重要になる。どうにも旧帝国軍人は直接打撃力に重きを置き過ぎる嫌いがあるが、それこそが敗因だとも理解していた。政治、経済、科学、情報。軍人とは軍事力だけを掌握していれば良いものではなかったのだ。あの時代、そのことに気づいていたのはゼートゥーア閣下と奴の二人きりだった。

「そういえば、訓練生たちは元気にやっているかね?」

 准将に問われて、スーツの男性は苦い笑いを浮かべた。

「閣下が大変可愛がっておられます」

「そうか。死なない程度に加減するよう言っておいてくれ」

「世の中には『死んだほうがマシ』ということもあるとご承知おき下さい」

 なんとも頼もしい話だ。出来上がってくる部隊はさぞかし精鋭であることだろう。

 准将と大佐は顏を見合わせたあと、内心の罪悪感を押し殺して唱和した。

「ライヒに黄金の時代を」

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