第四篇 合州国最高機密

 憲法の定める処に依り、合州国大統領の交代は選挙の翌年の一月二〇日正午に行われる。

 従って、フィラデルフィアにある大統領官邸はその日、午前と午後であるじが入れ替わる。もっとも、午前の主の仕事はほぼ残務処理に限られるのだが。この日の午前の主にとって最重要な職務は、正午から連邦議事堂前で開催される新大統領就任式典への出席に行き着く。

 業務の引き継ぎは選挙からこちら二ヶ月をかけて進められているし、家財や荷物の搬出も順次進められてきた。

 閑散とした大統領官邸は、午後に迎える新たな主を静かに待っている。

 そんな中、ラングルレーから呼び出された名無しジョン・ドゥの局長は、午前の主と最後の挨拶を交わしていた。

「無事の退任おめでとうございます、大統領閣下ミスター・プレジデント

「まあ、まだ正午まで少し時間があるがね」

 椅子に座る気もないのだろう。気さくな立ち話を装って、午後には〝前大統領〟になる男は局長と握手を交わした。

「思えば長い八年間だった」

 全世界を巻き込んだあの大戦が終わり、世界が二つの極によって分割された新しい戦争の時代に、彼は求められて軍人から政治家へと転身し、合州国と国際社会の舵取りを担った。まさに非の打ち所のない愛国者であり人格者だった。局長はその一部始終を間近で見続け、時代の目撃者となったことを誇らしく思っていた。たとえ誰に口外することができなかったとしても、だ。

「閣下の業績は後世正しく評価されることでしょう」

「良い伝記が書かれると嬉しいね。惜しむらくは、私はその本を楽しめそうにないことだが」

 どんな時でもユーモアを忘れるな、と、将軍であった時も、大統領になってからも心がけた男は、それでも本音を織り交ぜるのを止められなかった。

「大統領になどなるもんじゃない。山のように心配の種を背負うことになる」

「しかしそれとも今日でお別れでしょう」

 同盟軍総司令官として旧大陸で帝国と戦ったあの日から今日まで、彼の人生は戦いの連続だった。そして彼は遂に負けなかった偉大なる男だ。

「そうだ。午後からは、新しい大統領がこの重責を担う」

 清々しさと寂しさと、そして多少の後ろめたさを覚えつつ、大統領は言葉を繫いだ。

「大統領として最後の指示を君に与える」

「承ります」

「午後に新大統領がこの執務室に入ったら、君が真っ先に彼に最高機密レクチャーを行いたまえ」

「……諒解いたしました」

 局長は半ば予想していたとはいえ、その役割を与えられた我が身を呪った。

「必ず、彼一人だけに、だ。その後、彼が機密の範囲をどう設定するかは彼の判断だが、君のレクチャーは新大統領ただ一人に対して行われなければならない」

 大統領の命令は、別の命令が出るまでは有効だ。

「一介の情報局員には過ぎたる任ですな」

 多分自分は大変情けない顏をしているだろう。そう意識しながらも、愚痴を溢さずにはいられなかった。

「諦めたまえ。君以上の適任者を私は知らない」

 ふーっ、と今度こそ全てをなげうった者の気楽さで、大統領は息を吐いた。

「私はここで降板だ。アレについて頭を悩ませる仕事からも解放される」

「羨ましい限りです。できましたら正午までに私の辞表も受理していただければありがたいのですが」

「それはできないよ」

 合州国大統領は連邦行政職員の人事権を掌握する。局長が過去に何度も辞表を提出していることを知る男は、厳かに首を振った。

「正午までは私はこの国の大統領であり、この国の安全保障に責任があるのだ。君の辞表は新大統領への申し送り事項となっている」

 新大統領が彼を解任するか否かは、レクチャー後に判断されることになるだろう。

 だが、大統領には確信があった。この卓拔した情報局員の辞任が認められることは決してないだろう、と。

 自分より三十近くも若い新大統領は、決して愚か者ではないのだ。


 潑溂とした精気を纏う新大統領が閣僚たちを従えて執務室に入り、記念撮影をしている所に割って入るのは気が進まなかったが、仕事と割り切る他なかった。

「誰だね、君は」

 不躾な闖入者に対して威厳を持って尋ねるその姿勢からは、この国の最高指揮官として振る舞おうとする強い意志を感じることができた。

「ラングルレー・カンパニーのジョン・ドゥと申します。新たな大統領閣下ミスター・プレジデントに対し、最高機密レクチャーを行うよう申し付かっています。お時間を頂きたいのですが、よろしいですか」

「それはおおごとだ!」

 大統領とその閣僚たちは、自分たちがそれを知る立場になったという事実に感動でもしたのか、互いに微笑み合って肩を叩き合い、さあどうぞ、と手を差し伸べた。

「それでは、人払いをお願いします」

「人払い?」

 一瞬、何を言われたのかと、大統領が副大統領以下の閣僚たちをぐるりと見渡す。

「ここにいるのは私のスタッフたちだ。全員、その機密を知るに充分な資格がある筈だが?」

「はい、いいえ、大統領閣下ミスター・プレジデント

 局長は静かにかぶりを振った。

「本機密に関しては、大統領閣下お一人に対してのみ説明を行うよう、命じられています」

「それは誰に命じられたのかね?」

 この国の最高権力者になったばかりの男の声に、不機嫌そうな色合いが混じる。

「前大統領による命令です」

「それでは、私がその命令を上書きオーバーライドすればここで全員に対して説明することもできるわけだな」

 ふん、と鼻を鳴らす大統領の言い分は全く正しい。

「ですが大統領閣下、前大統領がなぜそのような指示を出したのか、確認してから新命令を出されても遅くはないと思いますが」

「老人の嫌がらせではないのかね。君も二度手間だろうに」

 二度手間、か。

 局長は大統領に準じて若手が多い閣僚の顏ぶれを一瞥する。この中で、高級軍人としてのキャリアを持つ国務長官くらいだろうか。この事実に耐えられそうな者は。

「私の労苦をねぎらっていただき、ありがたいことです。できればその栄はレクチャー終了後に」

「なるほど。内容を知らなければ機密指定の変更も妥当性がないと言いたいわけか」

 思いの外物分りの良さを見せた大統領が、手早くスタッフたちに隣室で待機するよう命じ、つかつかと執務机を回りこんで、革張りの椅子に腰を下ろした。ぐっと背凭れに体重を預け、腿の上で指を組んでクイと顎を反らした。

「話し給え」

「それでは、ご説明申し上げます」


 隣室に追いやられた閣僚たちは、半ば憤慨しつつ、また残り半分は好奇の心持ちで、隣室との扉を眺めていた。

「やれやれ。我々はともかく、副大統領の君まで追い出されるとはな」

「ただまあ、筋は通っている。前大統領が必要だと認めたことを覆すのに、現大統領がその内容を知らないというわけにもいくまい」

 機密内容を確認し次第、すぐに自分たちは呼び戻されると信じて疑ってすらいなかった。男たちは小休止のつもりで、各々愛飮の煙草を取り出して口に咥える。

 マッチを擦る音が立て続き、僅かな火薬臭に続いて紫煙が部屋を満たしていく。

 一旦会話が途絶え、柱時計の振子が時を刻む音がやけに大きく響く。

「遅いな……」

「最高機密ってのは隨分数があるのかもな」

「こりゃ後が大変だな」

 それぞれ自分が引き受けることになるであろう機密に思いを馳せる。

 この合州国は戦後世界を二分する覇権国の片割れなのだ。大から小まで、機密は多岐にわたることだろう。

「そういえばカンパニーの長官は誰になるんだろうな?」

 カンパニーの長官は一組織の長というだけではなく、国内の情報機関の統括者でもあるため、政治職というよりは技術職という性格が強い。そのため諜報畑を歩んできた軍人や専門家がその任に就くことが多く、大統領以下若手が主体で軍歴の長い者が少ないこの政権には適任者がいなかった。

 已むなく前任者を使い続けながら時間をかけて後任を選ぶことになっていたのだが、そのことが今回の〝締め出しロックアウト〟の原因の一つであることは疑いなかった。

「散々話し合ったことではあるが、難しいな。我々にはそういった方面の経験者への伝手はないし、あったとしても今度は信用できるかが問題になる」

 何分合州国の暗部を扱う仕事だけに、技術的な問題がない上で信用できる人物でなければいけない。表舞台で脚光を浴びながらキャリアを積み上げてきた人間には難しいことだ。

共産主義者コミーはかりごとで渡り合う人間を信用する、か」

「難題極まる」

 相手がウォール街のトレーダーなら臆することもない男たちだが、相手が金銭という価値観を共有しない連中となると心許ないのだった。

 誰かが候補者の名前を挙げ、それを別の誰かが否定する。そんなやりとりを繰り返し、煙草が燃え尽き、新たな一本を取り出し、扉を見やる。

「それにしても、遅いな……」


 その部屋の主は、混乱の極みにあった。

 背は椅子から離れ、両手は机を摑み、見開かれた眼は前に立つ男を射殺さんばかり。

「君は一体何を言っている……?」

「本邦における最高機密事項です」

 至極真面目なその顏には、冗談を示すような気配は一切なかった。

「それでは何かね? 君は、我が国の安全を脅かすが存在すると、本気で言っているのかね?」

「はい、その通りです、大統領閣下ミスター・プレジデント

「信じ難い!」

「ですが事実です」

 ここまで一枚の書類も出さず、全ての説明を口頭で行ったジョン・ドゥなる局長は、少なくとも表面上は全くの混乱もなく、「続けても?」と促してきた。

「少し待ってくれ。私は今、混乱している」

「どうぞ、お気の済むまで」

 身体を椅子に預け眉間を指で解きほぐし、大統領はシガーケースから葉巻を取り出して吸口を切り落とす。マッチを擦ろうとする手が、僅かに震えていた。

「……噂は聞いたことがあったが、戦場伝説の類か、陸軍が自分たちの失態を覆い隠すために広めたデマだと思っていた」

「海軍は比較的被害が少なく済みましたからね」

 事も無げに言うが、実際のところ連合王国や共和国の海軍はとんでもない被害を被っている。合州国海軍は矢面に立たなかっただけだ。海軍大尉で退役したこの大統領がアレと遭遇する機会がなかったことは幸いだった。

 葉巻の煙を胸一杯に吸い込み、気持ちを落ち着けてから話の続きを脳に流しこむ。出来の悪い空想科学小説の朗読を聞いているような気分だった。

「ジョン・ドゥ局長。確認するが、我が国はそのT/Dと取引したのだな?」

「はい、その通りです、大統領閣下ミスター・プレジデント

 現金で一億ドル。そしてカバーの身分と、新たな活動の場。それらを提供することで、この国は安寧を買ったのだ。

「その事実を何人が知っている?」

「軍人は大分退役しましたので、現役では一〇人程度かと。カンパニーでは私と長官の二人です。あとは同盟国の情報機関に少人数」

 一線を退いた人間まで全部かき集めても五〇人には届くまい。

「……過去の、大統領たちの対応は?」

「約束の遵守、そして不干渉です」

 アレは言わば、安全ピンの抜けた手榴弾のようなものだ。安全レバーを握っている限り爆発はしないが、手を離せば間違いなく爆発する。不幸なことに、安全ピンの方は失われて久しい。

 不活化する手段がない以上、握力の続く限り現状を維持するのが唯一の方策だろう。

 しかし、その若さを武器に大統領選挙を勝ち上がってきた大統領には、些かならず老人の消極策に見えたようだった。

「積極策はないのかね?」

 大統領は苛立たしげに指を組んで椅子を鳴らした。

「リスクが大き過ぎます」

 若く精力的な大統領が「問題解決」を求めてそんなことを言い出すんじゃないかと危惧していた通りの発言をしたのを受けて、間髮入れずにジョン・ドゥ局長は返す。

 過去に全く検討されなかったわけではないのだが、失敗の可能性と、失敗した際の報復の苛烈さは想像するに余りあり、前大統領は一考すらせずに計画の破棄を命じた。

 その判断が故なきものではないことを、局長は説明する。

「先年の事になりますが、戦略空軍の基地防衛訓練で、アレが侵攻部隊を率いて弾薬庫に到達しました」

 空軍基地で定期的に行われる防衛訓練は、核兵器等戦略兵器を保管する基地の防衛体制の確認と伎倆向上のため、かなり本格的な訓練が繰り広げられる。侵入部隊が爆弾の代わりにトイレットペーパーを設置することで知られるこの訓練で、核弾頭保管庫にそれを置くことに成功したのは、史上初めてだったという。

 部隊を任せた基地司令官は機密を知らない人物だったが、機密有資格者たちは後で盛大にのたうち回ることになった。〝皆殺し〟の二つ名を取る戦略空軍総司令官が偏執的に構築した防衛網を、アレは突破してのけたのだ。

 もしアレが〝積極策〟の存在を嗅ぎつければ、何が起こるか知れたものではなかった。

 ますます渋い顔をする大統領を、局長は宥めるほかなかった。

「考え方をお変え下さい。アレは確かに災厄の種ですが、一方で合州国に利益も齎しています」

 空軍士官学校第一期首席という表の肩書で高等研究計画局に提案され、実現した兵器や戦術の数々は、合州国の覇権に多大な貢献をなしている。連邦との戦いは、直接的な戦火を交えないままに合州国が優勢を築きつつあり、その原動力の一つがアレの頭脳であることは明白だった。

「危険を排除するより、利益を享受することを優先するべきだと、助言させていただきます」

 必要なのは連邦共和国に対する幾ばくかの外交上の配慮だけで、得られるものは莫大だ。投資費用対効果は抜群なのだ。

 しかし新大統領は納得してくれなかった。

「そうやって君たちは過去の大統領を操ってきたのか」

「滅相もない」

 あまりといえばあまりの内容に、大統領はカンパニーとT/Dとの癒着を疑うに至ったようだったが、ことアレに関して言えば、カンパニーにできることは殆どないと言って過言ではない。

 後にも先にも、アレを操ることができた人物は、ただ一人。そしてその人物は既に故人だ。自分たちを操っている者がいるとしたら、地獄にいるその人物であろう。

「大統領閣下。あなたがこの国の最高権力者です。我々は助言するだけです」

 大統領が強いてやれと言えばカンパニーは〝積極策〟を実行に移すことになるだろうが、そのようなことになれば局長は辞任する気でいる。そして愛する祖国から一フィートでも遠くに逃げるだろう。

「ふん、どうだかな」

「ご納得いただけないようでしたら、長官や他の有資格者をお呼びします。前大統領との会談もセッティングしましょう」

 どうせ誰に聞いても同じ答えが返ってくるだけだ。

 それより情報機関が大統領の不信を買うことは、国家の礎を脅かしかねない。早急な信頼関係の構築が必要だった。

「いいだろう。この件は保留だ。もっと情報を集めることにしよう」

「ご隨意に」

 説明できることを全て説明し終え、局長は執務室を辞去するべく一礼した。

「そういえば、提出済みの私の辞表が、引継ぎ事項になっているそうです。可能な限り速やかにご裁可頂ければ幸いです」

「……それも当面保留だ」

 もし虚言があれば辞任ではなく馘首するつもりで大統領は告げたのだが、その時だけ、局長は実に哀しそうな表情を浮かべたのだった。

 この時が辞任の千載一遇の好機だった、と局長は後に述懐した。

 合州国でとあるエア・サービスが勇名を馳せる少し前の話である。

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