第二篇 社外取締役
彼の鋭敏な聴覚は、近づく者の気配を過たず捉えていた。
さり気なく懐に右手を差し込み、拳銃の銃把を握る。
「できれば、銃から手を離して貰いたいものだが」
両手を挙げながら現れた老人は、実際に気にしているとは思えない軽さで、そう口にする。
対する男は、鋭い目で男を睨みつけつつ、周囲を窺っていた。
「何をしに来やがった」
「旧交を温めに…などと言ったら、撃たれそうだね」
一瞬本当に肩に力が入ったのを見て、老人は溜息をつく。
「いい加減歳でね。手を挙げ続けるのも辛いんだ。できれば落ち着いた場所で話したいことがある。頼まれてはくれないかね」
緑に囲まれた閑静な佇まいを見渡す。
「君もこんな所で銃をぶっぱなしたくはないだろう?」
「アンタが今すぐ回れ右をして帰ればいいだけの話だ」
「そうしたいのは山々だが、悲しき宮仕えの身でね。君と違って退役もできないときた」
老人の顔に皮肉げな笑みが浮かぶ。老人が進んでこの仕事をしているわけではないのは彼にも分かっていたが、分かっていても
一秒、二秒、と調息に使い、彼はなんとか自分の感情に折り合いを付けると、右手をそっと懐から出した。
応じて老人は両手を下ろし、疲れたと言わんばかりに肩を揉む。
「行こうか。場所を用意している。死者の前で話すようことじゃなくてね」
一瞬だけ深い目つきで、老人は彼の横を見やった。緑の芝に埋め込まれた真っ白な墓石。戦時中に大量生産された、味も素っ気もない墓碑の群れ。
ああ、死者の魂よ安息なれ。
願わくば、生者を苦しみから救い給え。
人払いされた礼拝堂に入り、適当な椅子に横座りになると、彼は対面ではなく、横並びになるように一段後ろの席に座った。
これ以上譲歩する気はない、という無言の圧力に、老人は諦めてまずはシガレットケースを取り出して見せた。
「吸うかね?」
「大戦中に酸素不足に悩まされて以来、吸えなくなった」
老人は表情も変えずに煙草を仕舞う。
「職業病というやつかな」
「高度八〇〇〇で溺れるのが職業病だというなら、そうだろうな」
彼の言葉はいちいちキツかったが、老人は気にも留めない。彼にはそれだけの口を叩く権利があり、そしてこの先の事を考えればこの程度は甘受すべきだった。
「用件を言え。煙草を吸いに来たわけじゃないんだろ」
「君にやって貰いたい仕事がある」
チッ、と明確な舌打ち。
「俺は
「軍籍があっては望ましくない仕事もあるのだよ」
もう一度激しい舌打ち。
「言いたくはないが、祖国には充分貢献したと思ってるんだがな」
「勿論だとも! 君の祖国への献身を疑う者がもしいたら、私が……私だけじゃない、私の上司たちだって間違いなく説教をするだろうね。君が手にした勳章の数を教えてやったっていい」
だが同時に、あの大戦で人材を消耗し尽くしたこの連合王国には、使える者はこの老体でも使い倒さざるを得ない事情もあった。
「君が立て直した海兵隊には、我々も大変助けられているよ。特にあの、
「お前らの工作のために
終戦直後、ボロボロだった海兵隊を立て直すことを命じられ、恥を忍んで軍に残ってやり遂げた仕事だ。戦中の戦訓を検討し、帝国の使った方法論・訓練法すら取り入れて育て上げた彼の愛すべき子供たちが、情報部の遣いっ走りをさせられているかと思うと、それだけで血が沸騰しそうだった。
「落ち着いて欲しい。何も彼らを犠牲にしているわけじゃない」
これは本当だ。ただ、情報部の人員だけではどうしても荒事に対応しきれない場合に、協力を要請する相手として打ってつけだ、というだけなのだ。
非正規戦、というやつだが。
老人はそこまでは言わなかったが、通じたからこその怒りだとまでは思わなかった。それだけ、老人の闇は深すぎた。
「ところで、君はSBSを創設するに当たって、
老人の指摘に、彼は押し默った。
ここで〝連中〟という単語が示すものは、二人の間では明瞭だ。
先の大戦で帝国の尖兵となって東西南北全ての戦域で暴威を振るった、悪魔に率いられし火吹き蜥蜴。
公式には大戦終盤の『ライヒの護り』作戦において全滅したことになっているが、それが事実ではないことをこの男たちは知悉していた。何しろ、その隠蔽工作に直接関わったのだから。
「……それがどうした? まさか連中に手を出そうっていうわけじゃないだろうな?」
それは幾重にも
全盛期の彼が一個魔導連隊を率いてぶつかってあしらわれた相手なのだ。
「冗談はよしたまえ」
老人の仮面が剝がれて、死相にも似た何がしかの表情が浮かんだが、一瞬の後には元のポーカーフェイスに戻る。
「事情は逆だよ。〝ラインの悪魔〟が……いや、最近の言い方だと〝十一番目の女神〟とでも言えばいいのか? アレが何やらおっぱじめたらしい」
ぐふ、と変な音が聞こえたが、それが自分の喉元から発せられた音だと気づくのに時間がかかった。
老人は気づかなかったのか無視したのか、言葉の爆弾を投げ続ける。
「アレが〝連中〟をかき集めて、組織を作ってる」
「合州国の連中は何をしていやがった! アレの管理責任は合州国だろう⁉」
戦後何年経った? 暫く風評も聞こえてこないから、すっかり飼い馴らされたとばかり思っていたが、やはりあの狂犬はそんなタマではなかったらしい。
あの連中があの指揮官を戴いておっぱじめることだと?
世界最終戦争か?
「合州国のご同業は大混乱の真っ最中だよ。当然我が国にも応援要請が来て、老骨に鞭打つ羽目になっている」
まるで「早く迎えが来て欲しい」とでも言わんばかりの投げ遣りな口調で、老人がぼやく。
気持ちは分からないでもないが、何分秘密を知る関係者が少ない案件だ。たとえ臨終の間際であってもこの老人が引っ張り出されるのは間違いないだろう。
そして当然、彼が駆り出されるのも。
「言うまでもないが、命を捨ててかかったとしても、一矢報いるのも難しい相手だぞ」
彼が育てたSBS、その最精鋭チームを惜し気も無く使い潰すつもりで投入しても、果たして手が届くかどうか。それに彼も既に衰えた。現場を退いて長いし、退役後は宝珠にすら触っていない。
「そういう用件ではないよ」
安心してくれ、とは言ったが、老人の声に楽観の色はない。
「アレがおっぱじめるのは、航空貨物・旅客輸送業だそうだよ」
彼は即断を避け、老人の説明を待つ。
曰く、世界のどこにでも、どんな時にでも、特殊な人材と特殊な物資を
風が吹いていようが雨が降っていようが、爆風が吹き荒れていようが砲弾が降っていようが、
「……どういう商売だ?」
彼は長らく軍人であり、それも海兵隊というやや特殊な環境に浸りきっていたため、退役した今も娑婆の事情には疎い。説明されても、それが事業としてどのような意味を持つのか、把握しかねるところがあった。
「情報部では、有効だと判断したよ」
なけなしの理性を総動員した情報部員たちが検討した結果は、ポジティブ。老人のような対外局員や、さらに外側のイリーガル、現地スタッフなどとはまた違う、金で雇える外部のプロフェッショナルは、この業界に新たな価値を
「政治的に手出しがし辛い微妙な地域でも、
「そんなバカな……」
民間企業と言いながら、やっているのは火吹き蜥蜴だ。火吹き蜥蜴が届ける荷物は、さぞかし熱かろう。アレーヌがもう一度焼けるくらいには。
「まさかあの〝連中〟が金で雇われるようになるとでも言うのか⁉」
「そのまさかだよ」
顧客の求めに応じて軍事的サービスを提供する民間企業。全ては金の重さで決定される地獄の沙汰だ。
「何を考えていやがる……」
彼は知らずの裡に右手を懐に突っ込み、苛々と銃を弄る。
「アレが何を考えているかなんて、誰にも分かりはしないよ。いや、逆か。アレは今でも最後の命令に忠実なんだろう。同業他社からは〝ライヒに黄金の時代を〟だと聞かされているがね」
だが既にその
もはや解除されることのない命令を背負ったまま戦い続ける亡霊大隊。平穏だと思っていた日々は、アレにとっては雌伏の時間だったのだろう。
そしていよいよ準備が整ったアレは、かつての子飼いを集めて、
「資本主義の企業体を装って、経済活動の名目の下に軍事行動を行うわけだ。敵は赤裸様だろう?」
あの大戦末期、共産主義に飲み込まれんとする祖国を救うために、合州国側に祖国を売りつけた程の愛国者が、何をしでかすか、言われなくとも分かるというものだ。
「ルーシー連邦の
冗句にして笑い飛ばそうとしたが、声が
戦後、二極化した体制が睨み合う世界情勢が冷たい戦争――〝冷戦〟と呼ばれるようになって久しい。
「アレが本格的に動き始めたら、もう誰も止められんだろう」
老人の言葉に小さく頷いて同意を示す。
「アカ共と〝連中〟が我々の
「そんな旨い話はない、と」
それはそうだろう。明日全世界が火の海に包まれてもおかしくない案件だ。
「それで、合州国側はなんと?」
問われて老人は、先日会った同業他社のパートナーのことを思い起こした。
「今にも出家しそうな様子だったよ」
「合州国としては可能な限りの便宜を図って、アレの行動を制約したい意向だそうだ」
便宜を供与する代わりに、多少の分別を付けていただく。依頼という形をとって、その向かう先に方向を与える。
短くない付き合いの中で、アレが約束や契約を大変重視する性格なのは分かっている。そこで、絶え間なく仕事を発注して好き勝手する暇を与えない、という方法が考案された。苦肉の策でしかないが、それなら少なくとも望まない所に勝手に火吹き蜥蜴がデリバリーされる事態だけは避けられる。
「それしかないか……」
彼も老人の見解に賛同した。
彼自身はアレと話したことなどないが、〝連中〟とは付き合いがあった。祖国のため、帝国のため、名を捨て戸籍を捨て名誉も報酬も捨て、裏切り者の汚名すら甘受して、なお挺身し続ける亡者たち。敵であることが惜しい、実に好ましい男たちだった。できれば味方に迎えたいと思ったことも一再ではなかったが、誰一人として
SBS創設時に、彼らの何人かを呼んで「アドバイザー」に就任して貰ったが、彼らの受けたという訓練は、大戦を生き抜いた古参の部下が音を上げるほど常軌を逸した内容だった。何より恐ろしいことは、ハードルが常に「不可能」のギリギリ一歩手前に設定されていることだ。ハードルを越えるごとに明らかに向上していく戦闘能力は恐ろしい限りだった。
この訓練方法を考案した奴は、本物の悪魔より余程悪魔に近い存在だろうと思ったものだ。
でき上がった部隊の練度は凄まじく、大戦中にこの部隊が手元にあればとすら思ったが、一方でつまり火吹き蜥蜴はこの練度の大隊だったのだと気づいて慄然とした。自分が今生き残っていることは奇跡だったのだと。
敵うことなどない相手だったのだ。
それに気づいた時、彼は退役を決めた。もう自分が時代遅れのロートルに過ぎないと痛感させられたからだ。
退役後は、かつての部下の菩提を弔って回った。不甲斐ない指揮官だけが生き残ってしまったことを遺族に詫びる日々だった。
「それで、俺の仕事とは何だ?」
ここまで聞いた話の中に、彼の出る幕などありそうにないが、この老人がここまで喋ったのだ。もっと恐ろしい話が飛び出してくるに違いない。
覚悟を決めて、彼は促した。
「我が連合王国情報部も、この案件に一枚嚙むことになったのだよ」
簡単に言ったが、決定に至る議論は激烈なものだった。灰皿やソーサー、ティーポットが空を舞い、辞表を叩きつけてまで反対する者もいたという。
だが、最後は合州国からの要請――というか泣き落とし――に屈することとなった。合州国は、もはや単独ではアレを御し切れない、との訴えを無視できなかった。
「それは…大丈夫なのか?」
「様々な検討の結果だよ」
とてもそのような簡単な話ではなかったが、彼に聞かせるべき話でもない。
「君のSBSではないが、我が国としてもアレから得られるものは小さくなかった」
彼は知らないだろうし、また表沙汰にもなっていないが、合州国の高等研究局を経由してアレから
民間企業となった後、アレの知識や経験に値札が付けられ、誰もが自由に購入できるようになる未来というのは、控え目に言って望ましくなかった。限定的にでも制御下に置くための方法は、結局合州国と同じやり方ということだ。
「核兵器と同じだよ。恐れるだけではなく、積極的に制御せねばならない」
「無茶を言う」
核兵器なら物言わぬ無機物だが、アレは意思を持った生きた人間だ。
「情報部のカバーカンパニーを通じて、アレが作る会社に出資することになった。ついでに、役員を一人、経営陣に送り込む」
アレが資本主義のルールに則るのならば、こちらも資本主義のルールで応じるまでだ。
「……まさか」
「ついては、君にはまずカバーカンパニーの役員に就任してもらい、準備が整い次第アレの作る会社に社外取締役として赴いて欲しいわけだ」
「出鱈目だ!」
「そう言うとは思ったよ」
老人は深く溜息を吐いた。
「大体俺は軍人だぞ。ドンパチならともかく、経営だの会計だのは全くの門外漢だ。他を当たってくれ」
「名前に惑わされないで欲しいな。君の任務は、言ってしまえば
そう言われてしまえば、納得はいく。同盟国の軍司令部に派遣される連絡士官の任務ならば経験もある。
「大変困難な任務なのは承知している。しかし、まず先方と信頼関係を築ける人材という観点で君が選ばれたのだ。反対意見は誰からも出なかったよ」
確かに、連合王国中を探しても、自分ほど〝連中〟と縁の深い人間も他にいないだろう。
「しかし……連絡士官だと? 本気で〝連中〟と結託するつもりなのか」
「ある意味で我々は既に一蓮托生だよ。〝バルバロッサ〟と手を組んだ時からね」
あの時はこんなことになるとは思ってもみなかったが。老人は当時を思い出す。とにかくあの悲惨な戦争を一日も早く終わらせ、かつ戦後にやってくる混乱を少しでも小さくできるなら、と悪魔と手を組んだのだ。
それが回り回って今こうなっている。
「少なくとも……少なくとも、ルーシー連邦が斃れるまでは共闘できるはずだ」
その後どうなるか? 老人というものは老い先短いものなのだ。後のことは若い者がなんとかしてくれるだろう。
だが、若い者には若い者なりの苦悩があるらしい。
「なんてこった。アカ共の崩壊が一日でも遠いことを祈ることになるとはな!」
老人より何十年かは長くこの世に留まる彼は、その日を生きて迎えることになるかも知れないのだ。ルーシー連邦崩壊後に彼らが大人しく解散して一般社会に融けこむ未来など、冗談でもあり得そうになかった。
「くそっ!」
懐に突っ込んでいた右手を引き抜き、拳にして椅子の背もたれを叩く。老人は静かに彼が落ち着くのを待った。
「……給料は弾んでくれるんだろうな?」
「勿論だとも!」
老人は独断で保証した。
「会社役員としてどこに出しても恥ずかしくない金額を用意するよ。なんだったら君の『あしながおじさん』事業に出資したって良い」
この仕事をやっていると、金で解決が付く問題は金で解決すべきだと、痛いほど身に染みる。
「余計なお世話だ……。だが、話は分かった。これも身から出た錆なんだろうな」
天井画の鑑賞を始めた彼の未来を、老人は切に祈った。何しろ、彼の代わりはいないのだから。
礼拝堂を辞去する間際に、彼が問うてきた。
「ところで〝十一番目の女神〟ってのは一体なんだ?」
老人は暫し考え込んで、そんなことも言ったな、と自分の発言を思い出した。
「知らないのかね? 君も知っているWTNのアンドリューという記者が最近アレを追っていてね。付けた名前が〝十一文字の女神〟というのだよ」
「ああ、彼か……」
その名前は彼もよく知っていた。従軍記者として駐屯地をうろついていたところをよく利用させて貰ったものだ。もちろん、代わりに特ダネを提供していたのだから、持ちつ持たれつという関係だ。
あの頃は熱意ばかりが空回りしている御しやすい駆け出し記者だったが、今ではアレを追うようになっているのか。
しかし戦後、アレに関する情報は徹底的に秘匿された。機密指定が解除されるのは半世紀は先のことだろう。そういう、無謀なネタに挑戦するところは、相変わらずなのかもしれない。
老人の方は、塗り潰された十一文字に
「ひでぇ冗談だ」
アレを知る者たちが、一様にそんな感想を述べるところを含めて、だが。
「だが、いいのか? アレについて嗅ぎ回っているのを放置しておいても?」
「アンドリュー君は〝鉱山カナリア〟だよ」
あれだけ執拗に追いかけているのだ。彼一人を監視しておけば、現状の機密保持体制でどれだけ秘密に迫れるのか、ペネトレイションテストができるというものだ。
「彼が本当に危険な情報に接するようなら、さっさと排除されることになってるよ」
つまり、彼が生きているということが、即ち機密が守られているという傍証なのだ。
「ひでぇ話だ」
だが、アレはそれだけの体制を敷くだけの意味がある者なのだ。一度
アンドリュー記者が天寿を全うできることを、彼と老人は共に祈った。
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