第二楽章
「恋愛なんて、私には無駄なものなの」
俺の告白を受けて返ってきた第一声が、それだった。
「気持ちはありがたいけれど、それに私が応えるのは、私だけじゃなくてトミーにとっても辛いことになるわ」
「なんで…どうして辛いことになるんだよ!?」
「だって…。恋愛結婚なんて絶対にできないのよ? 私。
好きになっても、いつかは必ず別れなければいけなくなる。
好きっていう気持ちを知ったら、その先の未来が辛くなるだけだもの」
言い慣れたように言葉を並べ立てて、アイツは美しく微笑んだ。
白魚のような華奢な指で、艶やかな長い黒髪を片耳にかける仕草をする。
きっと今までそうやって何人もの告白を断ってきたんだろう。
わかってる。
学園理事長の一人娘で、紫藤本家を継ぐ
グループの体裁や将来のために、良家のボンボンと見合い結婚するのが
「でも…! そんなの寂しすぎるだろ!?
誰とも恋をしないまま、好きでもない男と結婚するつもりかよ!?」
「好きになった人と結ばれない辛さよりはきっとずっとマシよ」
寂し気に咲綾が口元を歪める。
俺の中で何かが弾けた。
なんだよ、それ。
割り切ってんなら
なんでそんなに寂しそうな顔をするんだよ──
「じゃあ、俺が咲綾に見合う男になってやる!」
「え…?」
「紫藤のお嬢様を嫁にもらうのに相応しい男になればいいんだろ?
咲綾に辛い思いなんて絶対にさせない。
だから、俺を見ててくれよ!
頑張るからさ…
恋する喜びを、俺が咲綾に教えてやるから!」
正直、告白はそこまでの決意をもって臨んだわけではなかった。
もちろん、咲綾のことが好きだから告ったわけだけれど、それは十六歳という年相応の本気というくらいのもので。
ただ、俺はわかってしまったんだ。
いつでも、誰からも “紫藤のお姫様” “理事長の娘” っていう目で見られてる。
だからいつでも大輪の百合のように気高く美しく、一輪だけでも寂しさを見せずに背筋を伸ばしてしゃんとしている。
でもそれは咲綾がそうでなければいけないと思っているに過ぎないって。
本当の自分が傷つくのが怖くって、弱い自分を知るのが怖くって、虚勢を張ってるだけなんだって──。
わかった瞬間、弱い咲綾が無性に愛おしくなった。
俺が受け止めてやらなければダメだと思った。
こみ上げてきた思いを制御することなく言葉にした。
「そこまで言ってくれたのはトミーが初めてよ。ありがとう」
子どもの冗談を取りなすかのように、咲綾は一欠片の余韻も残さずに背中を向けた。
それが、高校一年の冬の話。
その後は同じ部活の仲間として咲綾の傍にい続けた。
二年の夏、部長になったアイツを支えたくて副部長に立候補した。
虚勢を張るアイツがせめて
すぐに伝わらなくてもいい。
辛い思いをさせたりなんかしない。
無言実行でアイツに相応しい男になるつもりでいたけど…。
俺たちはもうすぐ卒業だ。
俺は合格したら都内の音大へ。
咲綾は父親の経営する藤華大学へ。
大学も、住む場所も離れてしまう。
俺は二年前と同じ気持ちでこれからも頑張る。
辛い思いなんかさせないから、俺のことちゃんと見てて。
咲綾に相応しい男になって、必ず迎えに行くから。
もう一度だけ、アイツにそれを伝えておこう──
.。.:*・゚♡★♡゚・*:.。 。.:*・゚♡★♡゚・*:.。 。.:*・゚♡
「あれ? 富浦先輩、こんな時間にどうしたんですか?」
うんりょーの扉を開けて入ってきた俺を、部活が終わって帰り支度をしていた後輩がきょとんと見つめる。
「ちょっとねー、楽譜庫で調べ物したいんだ♪
戸締りはしとくからさ、みんな先に帰ってていいよー」
俺は音大の受験勉強のためにしょっちゅう
がらんとして無音となった二階ホールの指揮台に立ってみる。
あの日、俺は決めたんだ。
俺は名だたるオーケストラで
胸を張って咲綾を迎えに行けるような、ビッグな指揮者になる!
その目標への第一歩として、俺はうんりょーのこの指揮台に立った。
仲間と一緒に練習に励み、定期演奏会を成功させ、コンクールも高校生指揮者としては異例の地方ブロック大会進出まで導いた。
次の舞台は大学のオーケストラだ。
絶対に指揮者の座を手に入れてみせる!
そしてさらに高みを目指してみせる!
俺が見えない未来に向かって右手を伸ばしたときだった。
「来たわよ」
凛とした声にはっとして視線を向けると、階段を上ってきた咲綾が立っていた。
「悪いね。こんな遅い時間に呼び出して」
「いいのよ。最近は学校も休みであまり来る機会がなかったし、うんりょーも久しぶりだから」
「ちょっと話があってさ。…やっぱり、咲綾とはうんりょーで話したいなって思って」
「そう」
俺は指揮台から下りながら制服のブレザーのポケットに手を入れて、赤いリボンで口を結んだ、小さなピンク色の不織布でできた袋を取り出した。
「これ、プレゼント」
「え? トミーが私にくれるの?」
「今日は年に一度、気持ちをまっすぐに伝えられる特別な日だぜ? 男が告ったっていーだろ?」
俺のその言葉には答えず、咲綾は袋のリボンをほどいて中身を取り出した。
「フルートと…
「そ。ストラップにしてもいいし、キーホルダーにしてもいいし。いつでも目に入るところに付けといてよ」
「トミー…」
咲綾の表情を見て、続く言葉を聞く前に俺の気持ちを伝えなければと思った。
「俺、二年前に宣言したとおり、咲綾に相応しい男になるように頑張るよ。
音大に合格したらしばらく離ればなれになるけどさ…。
でっかくなって、きっと咲綾を迎えにくるから」
「ふふっ。いつも違う女の子を連れて歩いてるんだから、東京に行ったらよりどりみどりで遊んじゃうんじゃない?」
「そりゃあ誘われたら断るのも悪いし、基本的に女の子は好きだからね。一度くらいはデートに応じるさ。
でもわかってるだろ? 俺が本気で好きなのは…」
「私のことは、忘れてくれたっていいのよ」
俺の告白を遮って、咲綾は二年前と同じように口元を歪める。
「そんなに傷つくのが怖いのかよ!?」
俺のキャラじゃない声色に、咲綾が漆黒の瞳を丸く見開いた。
「俺は傷つくのも覚悟の上だよ!
俺が離れて頑張っている間に、咲綾に見合い話がくるかもしれないし、咲綾の心を奪うような奴が現れるかもしれない。
俺が頑張って成功したって、咲綾の心を俺に向かせられる保証だってない。
でも俺はそれでもいいんだよ!
咲綾が好きだって気持ちを原動力にして俺は頑張っている。
お前を好きでいられてること自体がすげー嬉しいんだよ!」
「……」
咲綾の黒い瞳が揺れている。
俺は構わずに続ける。
「傷つくことを怖がって恋をしないなんて、そんなの寂しすぎるだろ!?
それに俺は言ったじゃないか!
俺は咲綾を絶対に傷つけな…」
「お黙りなさいっ!!」
「…い…?」
頭に逆流していた血が急停止する。
「さっきから言わせておけば人を臆病者みたいに…」
「え…っ…」
咲綾の瞳に攻撃的な光が宿っていた。
心なしか黒髪が逆立ち、背後からゴゴゴゴ…と轟音が聞こえてくる気が…
「私はねぇ、臆病者じゃなくて徹底した合理主義者なだけなのよ!
将来をある程度見通せてる中で、確実に不必要なものは切り捨てるっていうだけよ。
言われなくても心が動けば恋くらいするわよっ!」
「え…っ」
俺の心を突き動かした弱い咲綾はどこへ…?
「そもそも二年前に私に相応しい男になるから見てろって啖呵切ったくせにこれまでのトミーの言動はどうなのよ!?
いつもおちゃらけてばかりだし女の子なら誰彼かまわず良い顔してるし勉強そっちのけで部活にのめり込んでるし音大の指揮科を受験するなんて聞いたのは割と最近でそれまではそんな成績でよく私に相応しい男になるなんて宣言したわねと思ってたし」
く、黒いオーラがもあもあと…
「だいたい私に辛い思いなんてさせないって言うけれど貴方が指揮者として大成するまで待っていろという方が辛いんじゃないの? 指揮者って言ったって下積みが長くて無名の楽団で棒を振って実績を積み上げながら少しずつ力をつけて名声を得ていくものでしょうにその過程をずっと待たせるつもりだとしたら先の見通しが甘すぎるとしか思えないわよ! 貴方の実力を私は認めているけれど周囲がそれを認められるようになるまでには時間がかかるのにその間私は何かと理由をつけて見合いを断り続けなければいけないわけでその針の
と、止まらない…
「音大の指揮科を受けるって決意してずっと部活動を頑張っていたんでしょうけれど周囲にそのことを伝えたのはこの冬に入ってからでしょう? それまでは私だって二年前の宣言はおちゃらけてるトミーの中ではもうなかったことになっているんだろうと思って所詮その程度よねと諦観していたのにあれだけ吹奏楽にのめり込んでいたのは指揮者になるための努力だったんだと知って貴方が二年前の宣言どおり頑張ってくれていたんだってわかってそれなら多少辛い思いが待っているとしてもトミーのことを信じて一歩踏み出してみようと思ったのよ」
え…
「今、なんて…?」
俺に向けられていたマシンガンの乱射がぴたりと止んだかと思うと、咲綾は自分のバッグのファスナーを開けて中からグリーンのリボンをつけた小箱を取り出した。
「これ、霞音大への合格祈願だから頑張って。
万が一スタートラインにすら立てないなんてことになったら承知しないわよ」
「あっ、はい…」
頭が整理できないまま俺が両手を伸ばしてその小箱を受け取ろうとしたとき。
小箱を差し出す咲綾の手が少し震えていることに気づいた。
白っぽい蛍光灯の光の下、色白の咲綾の顔が桜色に上気している。
「見た目はアレだけど、素材はベルギー産の最高級クーベルチュールだから安心して」
咲綾は艶やかな黒髪を揺らして背中を向けたかと思うと、何のことかわからずに呆然とする俺を残して階段へ向かってスタスタと歩き出した。
下りかけて、ふとこちらを向く。
「チャームありがとう。大切にするわ」
再び横顔になり、トントンと下りていく。
二年前には感じられなかった甘酸っぱい余韻が、
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