第38話 他人保険2
ここはとあるスナック。仕事帰りの男がひとりカウンターに座っている。隣の席にはタイトなスカートをはいた女性が、その細い足を組んでいる。
男はバーボンを喉に流し込むと、女の方を振り向いた。
「僕は保険には興味がないのですよ」
「ええ、分かってますわ」
「でも君が手に持っているのは、保険のパンフレットだろう?」
「ええ、確かにその通りよ」
女は少しの微笑みを忘れない。
「それに、ご覧のように僕はきわめて健康そのものだし・・・」
「はい、それも分かっていますわ。失礼ですが、高田様のことは事前に調べさせていただいております」
女は、少し乾いた表情になり、男の目を見つめる。
「ですからこそ、この保険をお勧め致しているのでございますわ」
「君のいっている意味が僕にはわからないな・・・」
男は再びバーボンをあおった。
女はニッコリと微笑むと、静かに語りかける。
「簡単なことですわ。あなたはただ、保険を掛けるだけ。ただし、それは自分自身にではなく、まったく見ず知らずの他人に対してですの」
「他人に対して保険を掛ける?」
男は酔いも手伝っているのであろうか、ますます何がなんだか分からないというような顔をする。
女は続ける。
「あなたの場合、ご自分の健康にはかなり自信を持っていらっしゃる」
「その通りだ・・・」
「ですから、ご自分に保険を掛けても無駄というもの」
「まあ、そうかもしれない・・・」
「そこで、他人に保険を掛けるのでございます」
女は、理路整然と説明をする。
男は、未だ狐につままれたような顔をしている。
「あなたが他の人に保険を賭けたといたします。その保険を賭けられた方が一定期間、怪我などをしなければあなたには保険額に対する配当金が支払われるというものなのです」
「他人が怪我をしなければ、保険金がもらえる?」
男の顔が急に赤らみ始めた。
「もし、僕が保険を掛けた他人が怪我をしたり、死んだりしたらどうなるのかね?」
「その時は、残念ながら保険金は戻ってきません。でも、もしそうなってもあなたが怪我をするわけでも死んでしまうわけでもありませんわ」
「なるほど・・・」
男は、妙な納得の仕方をする自分に少し戸惑いながらも、その女の話に少しずつ興味を持ち始めていた。
女は、焦げ茶色のカバンから別のファイルを取り出す。
「ご覧下さい、こちらが被保険者のリストでございます」
「被保険者?」
男はその女が広げたファイルを喰いるように覗き込む。
「この方なんか如何ですか? 健康状態はきわめて良好。ちょっとやそっとでは怪我などしそうにありませんわ」
そこには筋骨粒々の若者の顔写真が載っていた。
「まあ、その分配当金の割合も少ないのですけれど・・・」
写真の男の下には、元金+5%と記されている。つまり、一万円の保険料を支払っても、元金とその5%、つまりは月々五百円しか配当金は支払われないということのようだ。
それでも、この男が元気ならば多少の配当金が戻って着るというシステムなのだ。
男は、ファイルに目を移す。
「この、+150%というのは?」
男は少し興奮気味に尋ねた。
女はなおも冷静に答える。
「その方は、重度の糖尿病を患っておいでです。いつ病院に入院するか分かりません」
「しかし、来月まで元気なら保険金額の150%を配当金として受け取れるというわけですか?」
「その通りでございます」
元金の一万円に加えて、プラス一万五千円。悪くない小遣い銭稼ぎである。
男の目は、もうファイルに釘付けである。
「えーと、この男は肥満体質、いつポックリいくかわからい。こちらの女性はベジタリアン、栄養が偏っているかもしれない。こちらの男性は・・・」
男はファイルに並ぶひとり一人のデータを読み上げては、自分がこれから保険を賭けるに値する他人を見定めている。
隣で女は、いつの間にか注文をしていたコニャックのグラスを傾けている。
男はファイルの中からひとりの中年の男性を選んだ。その男のプロフィールはこうだ。
『田端勝夫 四十七歳 配当率100% ただし、肝臓疾患あり』
次の日から、その男は毎朝新聞の三面記事に目を通すようになった。
自分の被保険者でもあり、配当金が支払われるための対象である、この田端勝夫が昨日も一日無事であったかを確認するためである。
男は、ひと月の間を一日千秋の思いで過ごした。
しかして、ひと月後、男の元には元金と配当金が振り込まれてきた。
男はこの後も、ずっとそうでありたいと願った。
男は、例のスナックで、またあの女と会った。そう、男の方からその女を呼び出したのである。
男は幾らかの現金とコニャックを女に提供する。
「本来このようなことは・・・」
困った顔をする女。
「分かっている。今回だけだ」
男は違法と知りながらも、自分が契約する被保険者の住所をその女から聞き出した。
次の日、男は朝早く、その被保険者の家の近くに出掛けた。
どうしても、自分で彼を守りたいと思ったからである。当然彼を守ることで、自分にも利益が生じるのだ。
男は、被保険者が家から出てくるのをじっと待つ。
七時四十五分、マンションの一室から彼が出てきた。若い奥さんに見送られてのご出勤だ。彼の名前は早川達彦。大型冷凍機を販売している商社の営業マンだ。
男は、気付かれないように彼のあとをつけた。
駅へと急ぐ早川達彦が通りの交差点に差し掛かったとき、信号を無視したバイクがやって来た。男は自分の身を挺して、すんでのところで彼を救うことができた。
男に達彦は何度も深く頭を下げたが、何とも妙な気分だ。
「いったい僕は、誰のために彼を助けたのだろうか・・・」
その後も、男は被保険者こと早川達彦と行動を共にすることとなった。
それは、時には会社の近くで、時には通勤の途中で、そして彼の家の回りでと・・・
男は自分が努めている時間以外、すべてこの達彦のために時間を切り裂いた。
そう言えば、こんなこともあった。
会社帰りの彼を見つけた男は、達彦のあとを追った。彼の行き先はいつもの居酒屋。達彦はしこたま飲んで酩酊状態。
男は彼の肝臓を気遣いそっと囁く。
「もうお酒は、おやめになった方が良いのでは・・・」
ところが、酔った達彦はいきなり男に殴りかかってきた。男は頬を三発殴られることとなってしまったのである。
男は、多少の理不尽さを感じながらも、今日がまた、そのひと月目に当たる日だということを思い出した。
「今月も他人保険の配当金がもらえそうだぞ」
そう思うと、男はニンマリしながら駅への道を急いだ。と、その時、見通しの悪い路地から、急に車がその男に向かって飛び出してきた。その瞬間、男は別の若い男に腕を掴まれた。
「もう危ないなあ、道を渡るときは左右見てからにしてくださいよ!」
その若い男は、すがるような目で見つめている。
深々と頭を下げながらお礼を言う男に、その若い男は言い放つ。
「お礼なんて結構ですよ。ただ、僕はあなたが元気でいてくれさえすれば良いのです。まあ、少なくとも来月の中旬まではね・・・」
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