第39話 最後のひとり

 見渡す限り、その景色には雪をいただいた大きな山と手前に広がる澄んだ湖以外、何も見つけることはできない。もちろん、そこには人っ子ひとりいやしない。

 まさしく僕が、この世界において最後の一人と言うことになるわけだ・・・


 こう切り出すと、読者の皆さんは『世紀末を迎えて・・・』とか、『パンデミックの果てに・・・』などと悲観的な妄想をされる方が多いと思います。

 しかし、この世界で最後の一人となった僕には、そんな絶望的な感情なんて微塵も感じる余地はない。

 むしろ目の前にあるこの雄大な風景を、独り占めできることに喜びすら感じているのだから。


 『一人で寂しくはないのか?・・・』 だって・・・

 冗談じゃない。粘った末に、やっと勝ち得たとも言えるこの状況を僕は今最高に楽しんでいる、いや満喫しているといっても過言ではない。


 『生きるための水は汚染されていないのか?・・・』 まあ、そう言う質問には必ずなるな・・・

 人間生きていく為には、どうしても水が無ければならない。

 ところが、ここには水なら有り余るほど確保されているのだ。まあ、その全てが口にできるというわけではないが、その気になれば飲み水ぐらいはいくらでもひねり出すことはできるはずだ。


 『地球が滅びるまでの時間はどれくらい?・・・』 そう、問題はそこだ。

 地球が滅びるまではいざ知らず、僕には残された時間がそうあるわけではない。つまりは、この一人の空間を満喫できる時間は限られていると言うことである。

 だから、読者の皆さんとこのような問答をしている暇など僕には無いというわけだ。



 僕は両手を大きく左右に広げてみる。

 誰にも気兼ねすることなく、今度は足を思い切りのばす。当然それを文句言う者など何処にもいないのだ。

 

 今度は首を傾け、真上を向く。

 徐々に自分の身体が宙に浮いているような感覚にさえ思えてくる。

 僕はそれに任せて全身の力を抜く。比例するかのように、さらに僕の身体は少しずつ重力から遠ざかっていく。


 (声を出してみるか・・・) 


 「あっっっ」

 無作為に発した言葉が、反響して戻ってくる。

 それも当然のことだろう。微かな水が流れる音以外、僕が居るこの世界は何の音とも無縁であるのだから。 


 (どうせなら鼻歌でも・・・ 大丈夫さ、その僕の歌を聞く者なんて誰もいないのだから・・・)


 「あるう日、森の中、クマさんに、出会った・・・」


 (いつもよりも調子良いみたいじゃないか、これなら今日はフルコーラスいってみても良いな・・・)


 「・・・お嬢さん、お逃げなさい。スタコラサッサノサー、スタコラサッサノサー」とその時突然、僕ひとりしか居ないはずの空間を、切り裂くように扉が開けられる音が・・・

 慌てて振り返る僕の目には、一人の男が何かを持って立っている。その表情からは、明らかに僕を敵視していることが伺える。


 (しまった! この男と戦うには、僕の格好はあまりにも無防備すぎる・・・)


 男はなおも近づいてくる。

 

 (戦いでは不利だということは明白である。ならば、話し合いに持ち込んでみようか・・・)


 僕の気持ちを察したのだろうか、その男の方から口を開く。

 「お客さん、とっくに銭湯の営業時間は過ぎてるんですけど。そろそろ掃除をさせてもらえませんかねえ・・・」

 「えっ? もうそんな時間ですか?・・・」


 男はコクリと頷くと、手にしたデッキブラシでゴシゴシとタイルを磨き始める。


 「もうそんな時間でしたか・・・」

 

 「そう、お客さんがですから・・・」

 そう言うと、男は湯船の栓を勢いよく抜いた。

 


 

  

 


 

 

  

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