第4話

 なんだろう、先ほどからそわそわと、妙に落ち着かない感じがする。心臓の鼓動が高まり、顔が火照り、視野が狭まり、思考が何かに妨げられる。初めての経験だが、しかし初めてではない。そうだ、この昂ぶりは、前世で経験したことがある。一体、どういう状況だったか。知識など言語として蓄積された記憶に対し、身体感覚はどうにも思い出しにくい。しかも、既にこの身になってから11年。この身体に順応してきたということは、以前の肉体のことは忘れつつあるということでもある。しかし。思い出せないとしても、心当たりはある。これは、この現象は、いわゆる、性衝動というやつではあるまいか。先ほどまではついに酒が飲めるとそちらにばかり気が向いていたが、考えてみればこういう店に来るのも今世では初めて、興奮して当然というもの。無論軍隊にも女性はいるが、彼女らは女性としてそこにいるわけではない。起床喇叭ラッパが鳴れば、化粧する間も無く集合せねばならない。許される装飾は勲章だけ、それすら前線であれば外しておいた方が身の為だ。そんな環境に置かれ続け、気づけば書類上以上の意味での「性」という意識はすっかり薄れていた。

 だがしかし。それも存在Xの奸計ではあるまいか。そういえば初邂逅のあの時、性欲をもつことにも随分ご立腹であったようだ。そして、だからこそ「正反対な」この状況に投げ込まれたのだ。全く以て忌々しいことである。存在Xは滅ぼされねばならない。けれど。だとすると。性衝動を抱くというのは、その存在Xに対する反抗に他ならない。しかも、相手は男性でなく女性。存在Xが用意した「正反対な」状況に対して、真っ向から背いていると言えよう。素晴らしい、実に素晴らしい。

 そうしてみると。ふむ。なるほどなるほどこれはなかなか眼福な状況ではないか。目の前ではウェイトレス達が、百花繚乱、咲き乱されている。彼女達はみなそれぞれに、服装も、化粧も、装飾品も、ひとりひとり異なる。制服ユニフォームが当たり前になった身には、それが新鮮に映る。しかも、よく見るとそれぞれ、顔立ち、体付き、人となりの魅力を最大限引き出すよう工夫されている。さらに、遅番だろうか、一人、また一人と店員が増えてゆく。彼女らに共通するのは、なんとも言えない艶っぽさ。最初からいた娘達と比べ化粧は濃く、肌の露出も多い。しかし扇情的ではあるが下品ではなく、それもまた彼女らのもつ本来の魅力を引き出したものなのだろうと思わせる。これも、あの女主人の采配なのだろうか。きっとそうだろう。なんというプロ意識の高さ、頭が下がる。

 そう思い女主人を一瞥すると、

「興味あるのかい? お召し物は用意出来ないが、化粧くらいならなんとかなるよ」

 途端に背筋に寒気が走る。フラッシュバックするは、あの悪夢の四日間。プロパガンダだと割り切ったからなんとか乗り切ったが、個人的に?今ここで?勘弁願い奉る! それは、それだけは、絶対に、回避せねばならない。なんとかして彼女を説得せねば。

「いや、それはご遠慮願おう」

 ……まだだ、まだ言葉が足りない。

「砲兵には砲兵の、魔導兵には魔導兵の戦場がある。貴君には貴君の場所があり、私には私の場所がある。置かれた場所で咲くのが蒔かれた種の努め」。

 ふと女主人に視線を向けると、こちらの言葉に聞き入る様子。いける、このまま押し切れ!

「私は兵を率いて敵に打ち勝つ。貴君は、その兵を癒す。それぞれに与えられた役割がある。私は私の在り方に誇りを持ち、また貴君らの在り方を心より尊敬する。ならば…」

 と、女主人は私の唇に人差し指を当てるようにして、その言葉を堰き止めた。

「そうね、その通りね、大隊長さん。私は、私の責務を果たす。あなたは、あなたの役目を、しっかり果たしてね」

 ふむ、どうやら説得に成功したらしい。ほっとして気が緩んだのがいけなかった。一難去ってまた一難、新たな困難が牙をむく。視界が回る。意識が遠のく。強烈な眠気が襲ってくる。どうやら私も戦場の高揚感を引きずっていたらしい。緊張の緩和と共に、忘れていた疲労が一気に襲い来る。同時に、先ほどから感じていた違和感の正体に、今更ながら思い至る。これは、性衝動ではない、酩酊だ。たった一杯のビールで酔うとは、まったくもってなんたる不覚。しかし、反省は後だ。疲労と酩酊でぶっ倒れる?そんな無様な姿を見せては、醜態も良いところだ。朦朧としつつある中で、私は脳内に緊急信号を鳴らす。無意識で、脊髄反射で、身体が危機回避の為に全力を尽くしはじめ、後から意識がそれを追認する。そうだ、こんな時は自らの脳に働きかけ脳内麻薬でドーピング、既に経験済みだ。これなら大丈夫、そう思い私はエレニウム九十五式に魔力を通………っ!いかんっそれはいかんっ!! 曖昧になる意識の中、致命的な失敗を犯したことに気づくも既に時は遅し、魔術は発動し、宝珠はその神秘を発揮し、そしてその呪いは、確実に私を蝕んでいた。




幼女と言えども女は女、私は彼女の視線を追いながら、そんなことを考えていた。どれだけ装っても、男どもときたら顔か胸しか見やしない。にも拘わらず店の女性達の服装や化粧の指導に力を入れるのは、その実、彼女達の自信の為である。そこで手を抜くと、周りの女達から蔑まれる。人が絶望するのは逆境に置かれた時ではなく、自尊心を失った時だ。かつての私がそうだった。

生まれは、実に恵まれていた。聡明な両親だった。良い教育を受けることも出来た。しかし、戦争の混乱の中、家は没落していった。そして、父は戦場で、母は病で命を落とした。全てを失った私が身を窶してゆくのはあっという間だった。気づけば場末の酒場に流れ着き、売れるものは何でも売った。

でもふとある時思った。思ってしまった。なんでこんなことになったのか、なんと惨めな命だろう。そう思うと、いてもたってもいられなくなり、気づけば教会に駆け込んでいた。あの時私は何を望んでいたのだろう。俗世を捨てることか、もしくは、この世を捨てることか。一つ言えるのは、全てを捨てる覚悟を、あの時は決めていた。いや、もうとっくに、全て失っていたのかもしれない。

私の話を全て黙って聞いた老牧師は、静かに呟いた。「なるほど、あなたの思いはわかりました。あなたは天の御国を望んでいるのですね」。そしてしばらく、沈黙が続いた。再び、老牧師は言葉を紡いだ。「私も、それを望みました。そして今、ここにいます」。そして、じっと私の目を見つめて言った。「あなたも、あなたの場所にいる。それもまた、主の導きでありましょう」。 その言葉には、不思議と迫るものがあった。「あなたの周りには、同じように絶望に苛まれた者達が集まるでしょう。全てを捨てる覚悟ならば、その者達の為に、居場所を作りなさい。そこに、天の御国はあるのです」。雷に打たれたような思いがした。私は、我が身を嘆いていた。どうしてこんなことに、これは何かの間違いだ、そう思い続けていた。しかしそこにも、何か意味があるとしたら。私にも、何か出来ることがあるとしたら。

状況がすぐに変わったわけじゃない。でも、あの日確かに、全てが変わった。幸か不幸か、私にはこの道の才能があったらしい。気づけば、自分の店を持つようになっていた。そして、そこにはかつての私のような女性達が集まってきた。私は、私の出来ることをするだけだ。私にはこの場所が与えられた。ここに集う全てのものに安らぎを、日々そう祈りながら、今も過ごしている。

もっとも、女達の努力に気づかない男達の姿に腹が立つこともある。だからこそ、目の前の少女がそれに気づいたことは、なんとも嬉しいことであった。

「興味あるのかい? お召し物は用意出来ないが、化粧くらいならなんとかなるよ」

何気なくかけたその言葉は、しかし思いのほか強く拒絶された。

「いや、それはご遠慮願おう」

彼女の表情は、真剣そのものだ。そこには、不思議な気迫を感じる。

「砲兵には砲兵の、魔導兵には魔導兵の戦場がある。貴君には貴君の場所があり、私には私の場所がある。置かれた場所で咲くのが蒔かれた種の努め。私は兵を率いて敵に打ち勝つ。貴君は、その兵を癒す。それぞれに与えられた役割がある」

一つ一つ言葉を紡ぐ彼女の姿に、あの日の老牧師の姿が重なる。あの後、しばらくして再び教会を訪ねた。老牧師に会うことは、しかし叶わなかった。彼は、まことの天の御国に旅立ってしまっていた。望んでいた場所に招き入れられたのだ、嘆きはするまい。でも、心残りが一つだけある。あの老牧師は、今の私を見て、なんと言うだろうか。どんな言葉を、かけてくれるのだろうか。そう思った、その瞬間だった。

「私は私の在り方に誇りを持ち、また貴君らの在り方を心より尊敬する。」

……! その声は、まるで神の御言葉のように、私に響いた。そのような奇跡が与えられるはずがない、けれどそんな反論は、心に溢れる満たされたという思いに搔き消されてゆく。人目がなければ滂沱の涙を流していたかもしれない。

 改めて目の前の少女に思いを向ける。小さいその身には、鋭い眼差しには、強い意志と誇りが溢れている。そうだ。目の前の彼女も、役目を果たそうとしているのだ。その軍服にも、戯れに袖を通しているわけではない。彼女は彼女として、そこに立っている。

「そうね、その通りね、大隊長さん。私は、私の責務を果たす。あなたは、あなたの役目を、しっかり果たしてね」

すると彼女は、それで良い、と言わんばかりに満足げに微笑んだ。そして、彼女は胸元の宝珠に手を伸ばす。そして私は、本当の奇跡を目の当たりにすることになる。

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