第5話
神の奇跡の現臨たるエレニウム九五式を握りしめ、ターニャは小さく、しかしはっきりと呟く。
それが合図であったかのように目映い煌めきがターニャから溢れだし、彼女を包み込む。薄汚れていたはずの士官服が、まるで聖衣の如く白く輝く。ふわりと宙に浮かぶその姿は、たった今降臨した天使と言われても皆信じるだろう。最初はただ何事かと驚いていた人々も、すぐにその姿、その神聖さに鮮烈なる畏怖を覚える。そうだ、これこそ白銀。我らが、女神。
人々の見つめる先で、彼女の唇は歌を紡ぎはじめる。
栄えに満ちたる 神の都は
救いの石垣 高く囲めば
御民の安きを 誰かは乱さん
讃美歌『栄えに満ちたる』。フランツ・ハイドンが1797年に作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』に、『Amazing Grace』で知られるジョン・ニュートンの詩を乗せて1802年に発表されたもの。元は連合王国の讃美歌だが、今は帝国を始め広く各地で歌われている。
音楽に造詣の深い
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。見よ、主の栄光は、今ここに満ち溢れている。
そうだ。救いの証しが、礎たる巌が、今ここにある。
白銀たる彼女。我らが大隊長、ターニャ・デグレチャフ中佐。彼女こそ奇跡、彼女こそ恵み、彼女こそ救いの石垣。
彼女に守られた我らが
始めは、神聖さに圧倒されるばかりであった。しかし、次いで彼らの内に、熱い衝動が込み上げてくる。
湧き起こるは愛国心。けれどなにゆえ? その理由はしかし、すぐに全員が気づく。
そうだこの曲は、彼女の紡ぐ、心を掻き立てるこの旋律は、
これは我らが、『
同じメロディーを持ち、異なる歌詞を持つ二つの曲があった。
ある旋律に詩が付けられ、『栄えに満ちたる』という讃美歌が生まれた。
やがて同じ旋律に違うことばがのせられ、『帝国の歌』となった。ライヒの国民は皆、この『帝国の歌』をこよなく愛している。
ライヒよ、この世の
護るにあたりて
ライヒよ、ライヒよ
二人の、異なる二つの歌を聞き、しかし、誰しもが気づく。
二つの歌は違うものなのだろうか。それは一つの真理を示すものなのではないか。
神が守りしこの帝国は全ての上にあり揺らがない、そんな神託を、二つの歌が指し示しているのではなかろうか。
集いし皆が自然にそう思ったその時。
ターニャ・デグレチャフが、マグダレーネのすぐ脇に降り立つ。人々は彼女の声に耳をそばだてる。彼女の唇は何を賛美するのか。人々は期待する。どのような境地に、彼女は我々を誘うのか。
その期待は、はじめ、肩すかしをくらったかのようにも思えた。
彼女が歌うは、『帝国の歌』の第二節。
そこには何の捻りも無い。しかも一節と比べ、この二節は巷での人気は低い。言葉遊びに過ぎ内容が無いとまで言われることすらある。
だがしかし。この夜、人々は、それをこそ己の最も大切な曲として、この日の思い出と共に心に刻むことになる。
「ライヒの女性」と歌う時、ターニャはマグダレーネ達を見つめていた。
「ライヒの忠誠」、そう口にする時、彼女は彼女の兵隊たちに右手を差し出していた。
「ライヒのワイン」といってそこにビールがあった時の「これじゃない!」とはねのけるジェスチャーには、皆が吹き出した。
そして、「ライヒの歌」。それは今、人々を包み込んでいる。
今この時。今日、この出来事。これが、
気付けば。皆、声を併せて歌っていた。
正義と自由をライヒの為に
我らの心は一つとなりぬ
正義と自由は栄えの光
祖国よ、ライヒよ、
祖国よ、ライヒよ、
歌い終わった時。不思議な静寂が場を満たした。しかし、それを沈黙と感じたものはいない。誰しも、言葉などでは表現しきれない雄弁な思いを、その身の内に溢れさせていた。
真っ先に動いたのは、マグダレーネだった。湧き上がる思いは語りきれはしない。だからこそ彼女は、ターニャを強く抱きしめた。ターニャはそんな彼女を、「神の導きに感謝」と言祝ぐ。そうだ、神の導きに感謝、
「今日は良い日だ。素晴らしい善き日だ。」
誰かが感極まって叫んだ。
「その通り、そして明日もそうだ」
ターニャもそれに呼応し、声をあげた。
そして更に、静かに言葉をつなぐ。
「明後日も、そうだ。明々後日もそうだ」
皆の視線が、ターニャに集まる。
「私が、お前達が、それを創るのだから!」
歓声が爆発する。「ライヒ万歳」「大隊長万歳」「ハレルヤ」、口々に歓喜の声を上げるが、皆気持ちは一つだった。なんたる素晴らしい夜だろう。
と、ターニャがいつもの笑みを浮かべて問う。
「ところで諸君、今宵はこれでもうお開きなのだろうか?」
「「「「はい、いいえ、大隊長殿、まだまだ最高の夜を、ご覧に入れましょう」」」
そこからは。大混乱だった。秩序のへったくれもなかった。しかし、皆が幸せであった。
ターニャが笑っていた。マグダレーネも笑っていた。手をつなぎ、抱き合い、声を合わせ、高らかに賛美を捧げた。兵士たちも負けてはいなかった。一糸乱れぬ二部合唱で、勇猛なる『
この夜が終わらなければ良いのに、誰しもがそう願ったが、しかしその願いだけは、叶うことがなかった。
頭が痛い。これは…二日酔いか。ずいぶん久しぶりの感覚だ。飲んだのは不味いビール一口。明確に覚えているのはそこまでであり、その後の記憶は曖昧になっている。何か変なものでも混ざっていたか、この身ではまだアルコールは早かったのか…。一体どのように帰ってきてどのように自分の布団に潜り込んだのか、それすら思い出せない。財布の中身の減りは許容範囲内とはいえ、厭な汗が流れるのは仕方ないだろう。せめて、せめて醜態を晒していなければ良いのだが。
と、そこで例の中尉の姿を見つける。眠そうな顔はしているが、一方で何かやり遂げた顔だ。こちらに向ける笑顔も、好意的に見える。おそらく、彼に迷惑はかけなかったのだろう。ならば、何か彼から聞き出せはしないか。もちろん、記憶を失っているなどという恥を晒さぬままに、だ。
「すまない、昨夜は迷惑をかけたな」
「はい、いいえ、ご迷惑などと言わんでください。こちらこそ最高の夜を過ごせました。大隊長に勝てると一瞬でも考えた己の浅はかさを猛省しているところです」
勝てる?飲み比べでもしたのか? よし、ここは更なる情報収集だ。
「昨夜はつい、興が乗ってしまった、つき合わされた身としてはたまったものではないだろう?」
「はい、いいえ、確かに普段の酒盛りとは随分違いますが、我々一同、非常に有意義な経験をさせていただきました。改めて、我々は大隊長殿に…いえ、あなたご自身に、この命尽きるまでこの身を捧げることを誓いました」
…私はなにをした?! 内心の絶叫を押し殺し、とぼけた素振りで彼に尋ねる。
「はて、昨夜の私はいつもと何か違っていたかな?」
すると彼は、真剣な顔をして答えた。
「まさしくいつもの大隊長殿そのものでありました。」
見ると、周囲の兵どもも合わせて首肯している。その様子に偽りは感じられない。…何があったのか分からないのは遺憾だが、印象を損ねる失態はおかしていないようだ、とりあえずそれで良いことにしよう。
ただしかし、一つだけ心に深く刻みこむ。「ビールはしばらくやめておこう」 二日酔いの頭痛に苛まれながら、心の中でそう誓ったのだった。
了
※『栄えに満ちたる』は日本基督教団出版局『讃美歌』(1954年)194番、『
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