ねむい(ねむいです)

ここではないどこか。

人間には理解できぬ、途方もなく強壮で巨大な存在が、目を覚ました。

彼は呼びかけに応える者。見る者に合わせて姿を変える彼は、ある種の歪んだ鏡だった。彼は願いをかなえる。彼を見た者の願いを。かつて、己の下へ訪れた矮小なる者を元の世界へと送り返してやった時のように。

今。

正しい呼びかけがなされた。

呼びかけたものが何者であろうが、彼にとっては関係がない。願いをかなえるべく、彼は動き出した。


  ◇


平原にある塔。

黒騎士が待ち構えている1階へと押し入った。否、のはひとり。

薄片鎧に身を包んだの美少女。ふた振りの手斧で武装した彼女は女楽士である。

そう。幽界かくりょでは魂の姿こそが真実となる。死者も生前の姿を取り戻すのだった。

それは、女楽士がこの世界においては強大無比な死にぞこないアンデッドではないということを示していた。ただの人間に過ぎないのだ。彼女は。力ある魔法使いではあったかもしれないが、それは黒騎士も同じ。

向かい合う黒騎士と女楽士。

見覚えのある、しかしどうしても思い出せぬ敵手の姿を目にした黒騎士は、口を開いた。面覆いに隠された口を。

「……たすけて」

言葉とは裏腹に、斧槍ハルバードを構える動きに迷いはない。

両者が、同時に動いた。

女楽士が投じたのは手斧。骨で出来た魔法の武器を立て続けに二丁、投擲したのである。

それらは異なる軌道を描いて黒騎士へと迫る。それを追うように走る女楽士。

黒騎士は最小限の動きで刃に対処した。

斧槍の巨大さを生かし、二丁の斧を叩き落とした。そして三つめの刃。すなわち黄金色の小剣を抜いた女楽士に対し、斧槍を突きだしたのである。

刃が迫ったその瞬間。

女楽士の口から、麗しい響きが流れだした。

どこか陽気なそれは踊りの曲。魂を揺さぶる霊力を備えた歌は、黒騎士の歪んだ魂魄にすら、感動を与えた。抗いがたい、強制の力を。

それは、持ち主の意に反して肉体を操る踊りの歌という形で結晶した。

黒騎士の四肢がひとりでに踊り出す。意志の力で抑え込もうとも不可能であった。

目標をそれる斧槍。

踏み込んだ女楽士は、まず手首を突いた。籠手に守られた黒騎士の、右手首を。

続いて肩。右の膝を突いた。この時点で黒騎士は立ち続けることができなくなった。

黒騎士は剣では死なぬ。禁呪の魔法によって。されど、それは負傷を防ぐわけではない。ダメージを受けた四肢では動くのは絶望的だった。

だから、器物霊へ動作を補助させるべく、黒騎士は口を開いた。

そこで、女楽士の歌が切り替わった。ごく自然な流れで、彼女の口から流れ出たのは歌唱を強制する魔法の歌。楽しげなそれにつられ、黒騎士の口から漏れ出たのは歌声だった。

―――ああ。昔私は、これを歌ったことがある。

黒騎士が知っている歌だった。今でも歌おうと思えば歌える。魔法の力を秘めた歌。

けれど、誰と一緒に謳ったのだろう。魔法の歌。誰かに教えてもらったはず。誰かと一緒に歌ったはずなのに覚えていない。それが、とても残念だった。

懐かしさを感じる中で、黒騎士の具足が外されて行った。やがてその全身が露わとなる。

後に残ったのは、骨と皮ばかりになり、土気色の肌に落ち窪んだ眼窩を晒す、哀れな魔法使いのなれの果てだけ。

この世界では、魂の姿が真実の姿となる。だから、これが黒騎士の魂だった。

無力な姿。いつでも殺されるであろう。だが、黒騎士は安堵していた。己が敗北したことに。

―――もう戦わなくていい。

主人は恐ろしい。けれど、もう命令を遂行することはできない。どんなに恐怖が強くても、己を支配することはできぬのだ。ざまあみろ。

そこで、黒騎士は気づいた。勝者のはずの女楽士が、こちらを見て涙していることに。

魔法の歌はいつの間にか途切れている。

「……泣かないで」

自然と言葉が口から漏れ出た。何故だろう。そんなことを思っている黒騎士へ、女楽士は頷いた。何度も、何度も。

黒騎士は、己に救いが来たことを知った。

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