悪堕ち洗脳はロマン(ロマン)

―――ああ。なんでこいつは、泣いているのだろう。

黒騎士は、己の生首を抱える女楽士を観察していた。

体を包むのは黒く塗られた薄片鎧。今は放りだした小剣は強い防御の魔法が込められた武具。恐るべき剛力を秘めた小柄な肉体には、しかし首がない。

不思議だった。こいつの霊には見覚えがある。だが思い出せぬ。己には昔の記憶がない。どんどん記憶が欠落していくのだ。自分が歪んでいるという自覚はある。ひょっとすればこいつは、過去の自分について知っているやもしれぬ。

だが敵だ。

主人の敵は排除する。それだけが黒騎士にとって唯一確かな事。だから、斧槍ハルバードを振り上げる。

胴体には目が備わっていないから、狙いを定めるのに苦労する。気付かれないようにしなければ。己は剣では死なないが、それ以外ではたやすく傷つくのだから。甲冑の上からでも、背中に突き刺さった手斧の威力には参った。これは痛い。

斧槍を振り下ろす。

一撃は、たやすく女楽士の背へ食い込んだ。

倒れ伏す小柄な肉体。黒騎士の生首が手放された。転がった先。角度が悪い。見えぬ。問題ない。刃は突き刺さったままだ。

さらにねじ込もうとして、真横から衝撃を受けた。

そうだ。ボアを忘れていた。奴に違いない。

器物霊へ命じる。首を胴体まで運べ、と。

兜に宿った霊は命令を受諾し、黒騎士の生首はふわりと浮き上がった。まるで武者が自らの兜を運んでいるかのような動作。

無事、首の断面はひとつに重なり合う。とはいえすぐにつながるわけではない。魔法で治すにせよ、自然治癒を待つにせよ。

だが魔法で固定しておくことはできる。そのための全身鎧だった。

視界が戻る。眼前にいたのは、やはりボア

構わず、斧槍を振るった。

粉々、とまではいかぬが粉砕される猪の骨。

さあ。これで邪魔者は消えた。女楽士の肉体を、完全に破壊しておかなければ。

武器を、振りかぶった。


  ◇


「…ぁ!……ぉ…!!」

「どうしたの!?」

野伏は、女楽士の尋常ならざる様子に困惑した。獣たちを誘っていた歌は途切れているのだが。今からならば追撃に戻る事もできよう。どうすべきか判断に迷ったのだ。

続く女楽士の言葉が、野伏に決断させた。

「…ぅ……」

「なんてこった。やられたのか!」

女楽士の胴体がやられたというならば一大事だった。彼女の肉体が完全に破壊されてしまえば、もう修復は不可能だ。

迷うことなく、野伏は女楽士の救援へ向かう事を決めた。ただし、獣たちの1匹に、仇の尾行を命じて。


  ◇


―――なんだ。何が起きた!?

混乱する女楽士。その背骨は断ち切られている。四肢は動かせるが、これではまともに立ち上がる事もできない。事実上戦闘力を喪失したと言っても過言ではなかった。

なんとか、背後を振り返る。

死んだはずの姉が、こちらへと刃を突き立てていた。首は元通り繋がって、生きている。うつろなまなざし。頭蓋に張り付いたかのような皮膚。馬鹿な。首なし騎士デュラハンであるならばこのように朽ちるはずがない。どうして。

分からない。分からなかったが、確かなことはひとつだけある。

己は胴体を失うであろう。完全に破壊されてしまえば、もはや回復は不可能だ。

それで自分が死ぬわけではない。だが、そうなってしまえば自分は生首だけで生きて行かなければならなくなる。ただの無力な死者に成り下がるのだ。

ボアは砕かれた。姉の背に刺さっている手斧は甲冑で阻止されたか、効いてはおらぬよう。まさかあらゆる武器が通じぬのか?

助かる道はなかった。

その時。

姉は手を止め、横手に目を向けた。そちらから来た獣の集団に警戒したのである。

彼女はこちらを一瞥すると、速やかにこの場を退去した。薄片鎧で守られた肉体を破壊し尽くすには時間がかかると判断したが故であろう。

女楽士は、助かったことを悟った。

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