ささやかな笑いを入れないと死んでしまう病なんです(ささやかすぎる)
君影草は毒を持つ。
鈴にも似た花を咲かせるこの多年草を摂取した場合、嘔吐、頭痛、眩暈、血圧低下、心不全などの症状を起こし、最悪、死に至る。とはいえそれは誤飲した場合の話であって、単にこの植物に近づいただけで死ぬわけではない。
だから、君影草の群生地に近づけば命を落とす、という言い伝えは幼い子供が誤って飲み込むのを避けるための生活の知恵であろう。そう、少年は思っていた。
まさか、そこにも悪霊が棲みついていたなどと誰が思おうか。
月光に照らされ、咲き誇る君影草の中で舞い踊るのは、女。楽しそうに、両腕を広げている姿は幻想的であった。服装は村娘に見える。長袖の粗末な服。刺繍が施された裾の長いスカート。
だが、そいつには首がない。この世の者でないことは明白だった。
もし生き延びることができれば、今後は言い伝えをきちんと守ろう。少年は、そう誓った。
◇
刻は少し巻き戻る。
夜の森、木々の合間で、少年は立ち尽くしていた。
鎧武者の悪霊。友人の命を、文字通りの意味で奪った怪物が立ち去ってから、一体どれほどの時間を震えて過ごしていたのだろうか。
少年は、握りしめた木札がぐっしょりと濡れていることに気付いた。彼自身の汗が掌の中、護符を湿らせていたのである。己の命がいまだにあるのはこれのおかげだと、彼は本能的に察した。
ふと、少年が視線を落とした先。かつて友人だった亡骸は、炭化しておりもはや面影など残っておらぬ。結界の魔力に焼かれた結果だった。
村に戻って知らせなければならない。友人が死んだことを。いや、それよりも重大な問題があった。悪霊の実在。少年の乏しい知識でも、あいつが結界によって封じられていたことは推測がつく。
それを解き放ってしまった。
急がねばなるまい。封印されていたという事は滅ぼせなかった、という事である。強力な悪霊が自由を取り戻し、人里に現れたとしたら大変なことになる。いや、既に犠牲者が出てしまった。
だが、どちらに行けばいい?
そこで、少年は思い至った。あいつが進んだ方向。悪霊がどれほどの期間封印されていたかは分からないが、封印されていたということは人間を襲ったことがあるのだ。最も近い人里は、少年の村。悪霊は道を知っているはずである。つまり、あいつの後を追えばいい。知っている地形まで出られれば、先回りすることはできるだろう。悪霊は、歩いていたから。推測が外れていたとしても問題ない。悪霊が村へ向かわないということだから、猶予ができる。その場合、自分が道に迷うわけだが。
唯一明るい材料は、護符が力を発揮したこと。
少年は、走り出した。悪霊が消えた木々の合間へと。
◇
そして今。
もくろみ通り知っている地形に出くわした少年は、坂を駆けあがった。村では近づいてはならぬとされている君影草の群生地を抜ければ、大幅な近道になるからである。既に彼は禁を一つ犯していた。二つ犯してもやむを得まい。
間違いだった。
鈴に似た花が咲き乱れる高台。
木々の合間から飛び出し、月光に照らされた空間に脚を踏み入れた少年は、そこで立ち止まった。眼前に、信じがたい光景が広がっていたからである。
両腕を広げ、月光の元で踊り狂う首なしの女。少年に気付く様子もなく舞う彼女の姿は、信じがたいほど美しかった。
しばしそれを呆然と見ていた少年であったが。
気付かれていない。開けた地形であるにもかかわらず、女は少年に勘付いていなかった。護符の働きであろうか。
少年は覚悟を決めた。気付かれていないのであれば、横を駆け抜ける。
彼には分からなかったが、眼前の首なし女は天を見上げていたのである。星々が瞬き、月光が降り注ぐ空を。護符は彼女の知覚をいささかも妨げてはいなかった。
だから、間近へ迫った足音に気付いた首なし女は、驚いて少年の方を向いた。
―――目が合った。
首がないのにどうしてそう確信できるのかは少年にも理解不能だったが、とにかくそいつは、駆け抜けようとした少年の方へ体を向けていた。かと思うと跪き、何かを拾い上げる。
生首だった。
「……ぁ……ぅ……」
美しい顔である。浮かんでいるのは戸惑いの表情。何かを語りかけようという口の動きが見て取れた。だがその唇からは、声が漏れ出てこない。
少年は、後ずさった。
首なし女―――もはやそう呼ぶのが適当かどうかは謎だが―――は、一歩踏み込む。
少年は、更に下がろうとしてバランスを崩した。無様に倒れる体。その表情は恐怖で、もうこれ以上は不可能なまでに引きつっていた。顔面の筋繊維が引きちぎれんばかりに。
その様子を見て、女は泣き出しそうになった。
恐怖に満ちていた少年のうちに小さな罪悪感が芽生える。ひょっとして自分は、とんでもない勘違いをしていたのでは?
そんな彼の肩が、軽く叩かれた。
心臓が止まる。一瞬、本気でそう思えたほどの驚愕が、少年を襲った。
恐るべき勢いで振り返った少年の背後に位置していたのは、知っている人物だった。
ローブにフードの魔法使い。ここ数日、村へ出入りしている男。護符を少年に与えたのは彼である。
―――助かった。
少年は思う。この男は力ある魔法使いだ。彼なら、すぐそこにいる首なし女も、そしてあの悪霊も退けてくれるに違いない!
そんな彼へ、魔法使いは告げた。
「あー……見られちまったか。どうすっかねえ」
「?」
「ああ、彼女な。俺の連れなんだ」
「……」
少年は、ゆっくり、まるで油をさしていない蝶番のようなぎこちなさで、元々向いていた方向へ向き直った。
困った表情の生首を抱え、女が立っている。
もう一回振り返り、魔法使いの顔を再確認。
「……あいつと、仲間?」
「そうなるな」
もう駄目だ。殺される。
少年は、失禁した。
◇
「すまんすまん。まさかそこまで驚くとは思わなくてな」
死霊術師の男は、苦笑しながら詫びた。少年を助け起こし、眼前の女騎士が、己の被造物であること、悪しき存在ではないことを説明する。
少年はまだ表情を引きつらせていたが、それでもなんとか納得したようだった。
「彼女も不幸な身の上でな。闇の軍勢と戦って死んだのを、簡単に言うと魔法で蘇らせた。見かけはこんなだが心はちゃんと人間だから安心していいぞ」
「は……はぁ」
「で。こんな時間に何してた?」
「あ……っ。そうだ。助けてください。悪霊が!」
我に返った少年は事情を話した。
友人と一緒に森へ出かけたこと。道に迷い、夜になったこと。悪霊に友人が殺されたこと。結界が破れ、悪霊が自由になったこと。
「確認だ。そいつは確かに村へ向かったんだな」
「はい。あいつの後を追いかけたら、ここまでこれたんです。たぶん下の道から向かってます。急がないとあいつが先に村についてるかも」
「……仕方がない」
死霊術師は覚悟を決めると、女騎士へ顔を向けた。
「相手は相当に厄介そうだ。俺一人じゃ無理かもしれん。お前さんの姿を人前にさらすことになるが、手伝いを頼む」
「……ぉ……!」
女騎士は、表情を引き締めた。
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