007
紫に進んでからというもの、工房規定の時間割は殆ど意味をなさなくなった。合同クラスも少ないので、特に予定がない日は朝食から昼食まで一人で本を読み、実験が必要な場合は午後に回す。上手くいった場合はそのまま夜まで修行を続けるが、途中で失敗した場合には日没前にキスのところへ向かうようにしていた。
今日の製薬は比較的上手くいっている。だから、キスのところには行けない一日になりそうだ。
ストアの修行の日々が失敗続きなのは事実だが、このように上手くいく日だってたまにはあるのだ。今までかけていた時間が報われたような気がして、小さな成功一つ一つに満ち足りた想いを感じていた。背後を通っていく兄弟子たちの視線もどこか優しいような気がしたし、昼過ぎに水場でカリトとすれ違い「頑張れよ」と声を掛けてもらえたのも嬉しかった。出来ない日の方が多いが、出来る日だってある。出来る日は、出来る自分を目いっぱい楽しんだほうがいい。
そう思い、機嫌よく鍋底を叩いていたせいで、師匠が随分近くに来るまでその存在に気が付かなかった。背後から薄ぼんやりした闇が近付いてきて、鍋の中身のコントラストが上がったのを見て、ストアは急いで振り向いた。
「師匠」
「励んでいるようだな」
師匠のほうも機嫌が良いらしい。
カップから沸く湯気のような、あるいは入道雲のような、もこもことした闇が四方に広がっていた。
「はい、今日はかなり上手くいっています」
「ふむ。少し見ても構わないか」
師匠はストアの返事を待たず、かき混ぜ棒を手に持って鍋薬の様子を見始めた。少し誇らしいような気持ちで師匠の反応を待ったが、特に何のアドバイスもないまま師匠は棒を手放した。
「あの、どうでしょうか」
「悪くない。引き続き励みなさい」
「現状の手順では少し、複雑さが足りないように思っています」
「どうかな、君がそう感じるなら、もう少し手間をかけてみてもいいだろう」
それはストアが期待していたような指導の言葉ではなかった。黒の工房の師は、弟子に対して具体的なアドバイスはしないものだ。話は聞いてくれるが、教師のように公式や解決策を教えてくれるわけじゃない。魔力の錬成については、多少、イメージを具現化するためのキーになるような本を薦めてくれることもあるが、魔力錬成のやり方そのものを教えてくれることもない。
思い悩むストアの表情に気が付いたのか、師匠はそのまま鍋から離れなかった。
「少し詰まっているようだな」
「はい、今までと違う筋肉を使っているような感じです。本を読みこんでも分からないことが多くて。とはいえ読むだけじゃなくて、もう少し手を動かさないと、と思っているんですが……」
師匠は声をあげて笑い、そして再び、いつもの言葉を口にした。
「やり方は自分の気脈と相談して決めるべきだ。好きにしなさい」
「はい。でも、自分がどうしたいのか、自分でもよく分かりません」
「君は理論派だ。そうは見えないだろうが、キスもそうでね」
「師匠は、どちらなのですか」
「私はどちらかというと感覚でやっていくほうだな。手探りに、気脈の声を聞き、その思いに叶うやり方を見つけていくほうが、上手くいくような気がしている。でも、数式を解くようにして術式を組み立てて大成した術士も知っているからね、こればっかりは術士によるとしか言いようがない。だからこそ君達にこう言うのさ。『正しいやり方なんてない』とね」
「……はい、それは、たしかにそうなのだろうと思います」
工房に集った弟子たちの、気脈の豊富さを見るだけでも分かる。千差万別な気脈の育ち方はそれぞれ異なっていて当然だ。
カリトの大岩、リトの手、キーラの小人たち、そしてストアの淡光。植物や動物のような気脈を持つ者もいれば、無機物が周囲に浮いていることもある。気脈が単体の者もいれば、たとえば花瓶と鳥のように複数個持つ者もいる。空想の世界がそのまま現実になったかのような気脈を持つ者の前にいると、ストアはいつも気後れするような気持ちがした。周囲の人間には皆何かが必ず寄り添っているのに、自分の傍らには何もない――光に覆われているらしい、自分の姿を見ることは生涯出来ない。
魔力を作っているのは、術士なのだろうか、気脈なのだろうか。時たまそんなことを考えそうになる。
「気脈の理解と、魔力の錬成が、まだまだ出来ていないのだと思います」
「自身の気脈を理解することで、飛躍的に術式の構成能力を上げる者は確かに存在する。しかし、たしか落葉の気脈を持つ者だったが――自身に降る葉の数を誤解したままに、杖を得て高名な魔術士として大成した者もいる。気脈の把握は、気が進まないなら、必ずしなければならない宿題ではない。カリトもそのあたりは鷹揚だろう?」
「カリトはそれでもいいんです。錬成が上手ですから」
「魔力練成においては、たしかにカリトに一日の長を認めるが。しかし、そもそも気脈に流れる絶対量としては、明らかに君のほうが大きい」
「あの」
「なんだ」
「そう見える、というだけではないでしょうか」
記憶する限り、それがストアにとって初めての師への口答えだった。反抗、と呼ぶにも乏しいその返答のなかにひそむ、凝縮された黒いタール状の感情を、師は幾分か汲み取った。
「ああ――そうか。それが君の悩みの種というわけなのか」
「愚かだと言われることは分かっています」
「いや。私は誰かを愚かだと思ったことはない。ただ皆、総じて私より均一に劣っているだけだ。しかしストア、君の気脈はどう見ても私に匹敵する。これ以上なく恵まれた鉱脈だ」
「そんなはずはありません」
「しかし私はそう思うし、期待している。君は私の感情までをも支配はできないだろう」
「当然、その通りです」
「君は愚かではない。賢いとも思わないが、少なくとも純真たる光の気脈と、それを宿すにふさわしい精神を持ちえている。力というのは、それにふさわしい器にしか入らないものだ。溢れることはない。気脈は主人を間違えない。そういうものなのだよ、ストア」
「しかし――」
「出来ない、と思うことに挑戦するぐらいがちょうどいい」
それは今のストアにとって、あまりに非情な言葉にも思えた。そもそも、出来ないことしかないような気がしているのに。
「はい」
ストアは目を伏せた。
岩造りの工房の廊下は、夕暮れにあらわれてぼんやりと橙に輝いている。鍋の洗い水か、それとも誰かの気脈だろうか。長い廊下は均一にどっぷりと濡れていて、床岩のひとつひとつが黒曜石のように黒かった。常に曇天の下にある黒の工房においても、夕暮れの時間だけは西日が入って少し明るくなる。黒岩のひとつひとつが橙の光に包まれているこの時間帯が、ストアは好きだった。
やがて、寮室へと続く洗濯用の廊下にさしかかる。当番の時には仲間たちの服を籠いっぱいに入れて、ここへ持ってきて洗うのだ。ストアが浮遊魔法を使うと、浮いている物体の周囲がすべて光に包まれるとかで、隣の洗い場の子が眩しがって目を細めるのが常だった。
この廊下においては、洗い場へ籠を押し上げやすいよう、片面の壁が斜めに傾いている。平衡感覚を失いそうになる奇妙な黒い廊下を、橙の光と共に進んでいく――その最中、一つの影がストアの足元に躍り出た。
「……おっと! ごめん!」
飛び出してきたのはキーラだった。いや、キーラ自身、というわけではない。その気脈たちだ。
キーラの気脈は、愛らしい複数人の小人だった。おもちゃのように可愛らしい七匹の小人が、今も彼の足元にまとわりついている。その小人の群れのなかに、ストアは変わったものを見た。
「キーラ、気脈が変わったんだね」
七人のうちの一人――赤い帽子をかぶった気脈。以前は羊を真似たようなもこもこした服を着ていたはずだが、今は軽い羽織のようなもので済ませている。ただの衣替えだろうか。
キーラも苦笑した。
「どうやらそうらしい。良いことなのかどうか、分からないけど。そういやストア、紫の教室はどう?」
どんな顔をしていいか分からなくて、ストアはあいまいに微笑んだ。
「すごいよなあ。赤の鍋薬、誰より早く終わらせちゃったんだもんなあ」
「誰より早く、というわけじゃないと思うけど」
「俺はね、今、青の終盤。リトは一足先に赤に進んでるけど、ウィドセンも実はまだなんだ。どっちが先に赤に行けたものか、賭けてるやつもいるらしい」
「まさか。誰もそんなことしないよ」
できれば話題を本の事から変えたかったが、何故か脳みそがぷるんと固まったみたいに鈍く、ストアは新しい話題を見つけることができなかった。キーラに悪意がないことはよく分かっていたし、嫌な気持ちになるようなことを言われているわけでもない。――だからこそ、話題を変えることが難しかった。ほんの少し別の方向に話を向けようとしてみても、キーラの目下の興味はウィドセンとどちらが先に赤に進めるかというその一点にしかないようで、話題は結局ここに戻ってきてしまう。
道を急いでいることにして切り抜けてしまおうか、とストアが考え始めた頃、足元に無数の手の影が落ちた。それはどれも右手の形をしている。振り返るよりも先に、誰が来たのかストアには分かっていた。
「キーラ!」
影と声の主はリトだった。
少し前まで、一緒に赤の教室で鍋底を叩いていた仲間の一人だった。リトは今教室から出てきたところなのだろう、両手で赤の本を抱きしめており、背後には浮遊魔法によって鍋や棒がぷかぷかと浮かんでいる。その鍋底を支えているのが、リトの気脈である無数の右手たちだった。少し奇抜に思える気脈の印象に反して本人の性格はいつも穏やかで、同年の弟子たちの中ではかなり落ち着いている方だった。
リトとキーラは必ず朝食を一緒に摂る。ストアやカリトもその近くに座ることが多く、年も同い年なので、比較的仲は良いほうだった。このままお喋りが続くかもしれないと、ストアは胃の中に石を一つころんと落とされたみたいな気持ち悪さを覚える。
しかし、リトはいつもの穏やかな瞳のままキーラの右腕を掴み、一歩後ずさった。
「ごめん、ストア。君は忙しいのに」
言って、リトはキーラの手をもう一度強く引く。ストアは首を振った。
「忙しくなんてないよ」
リトは微笑んだ。まるで全てを了解しているかのようなその表情に、ストアはなぜか居心地の悪さを覚えた。その後ろから、彼の気脈である白い手が伸びる。青白い、女とも男とも分からない細い指が、子どもを呼ぶように優しくストアを手招いている。
「うん、それならよかった」
「えっ、忙しいんじゃないの? 紫の課題って、すっげーむずかしいんだろ?」
巨大な手がもう一本現れて、次は小人の目を覆うのが見えた。もう喋らないようにと、リトはキーラに言いたいのだろう。
とはいえ、気脈の動きはリトにとって無自覚のものだし、キーラの方はというと手は見えていても小人の方が見えないから、なにをされているのか分かっていない。
「えっ、リト、お前なんかしてない? ストア、どう? なんだか変な感じがするんだ」
「心の中を覗かせるようなこと言うなよ。なんだっていいだろ。さ、行くよキーラ」
リトはキーラの手を引いて、来た道を戻っていく。
なぜリトがキーラを連れて行こうという気になったのか、ストアには分からなかった。それだけ、ストアが困っているように見えたのかもしれない。今、自分の気脈はどんなふうに光っているんだろうと、それだけが気になっていた。
遠ざかっていく小人たちは戸惑った様子で、左右に大きく揺れながら列を作っている。見ているうちに、宙から腕が一本ずつ現れて、小人の手を引き始めた。小人たちは与えられた腕にぶらさがるような形で手を繋ぎ、角を曲がっていく。
その様子は、まるで小人のおもちゃが引率されているようにも見えたし、あるいは一人では眠れない子どもがおもちゃに連れ添ってもらっているようにも見えた。
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