第二幕

N215-001

 息を吸い込むと太陽の香りが感じられるほど、気持ちのいい真昼だった。

 天頂から注がれる金色こんじきの光が、事務所の摺り硝子を通り抜けて室内に差し込んでいる。この窓には魔術が仕込んであり、木漏れ日に似た小さな光たちはツタの動きにあわせて悠然と泳いでいた。ストアは時たま目を休めるためにその魚群たちをぼんやりと眺めていたが、いくら長い間見つめていても動きに規則性を見つけられない。本当に生きているかのように思われるほど、見事な術式だった。

 まあ、さすがだな、と横目でその術の考案者を見る。実利性はなくとも装飾的に派手な魔法――という分野においては、彼以上の術士にはなかなかお目にかかれるものではなかった。いっそ、工匠に入りなおして工術士になればいいのにと思うほどだ。

「……なんだい?」

 ストアの視線にさすがに気が付いたのか、彼の瞳がぎょろりと動いた。

「いいえ。この光の魚たちは、なかなか見事だなと思いまして。この窓をいくつか作って売ったりする気にはなりませんか?」

「依頼があれば考えるが、『商品』としてそれを用意しておこうという気にはなれないな。きみだって分かってるだろ?」

「ええ、まあ」

 ストアは苦笑いで頷いた。

 この風変りな先輩魔術士の名は、キス・ディオールという。彼と暮らすようになって、すでに三年程が経過していた。

 二人は同じ工房出身だ。同じ環境で同じ師匠について魔術を学んだはずなのに、どうにも体系立たない学びしか身につけられなかったキスの、ある種自由すぎる魔術の奇跡を何度も目にしてきた。凄いと思うこともあるし、逆にこんなに簡単な術式を扱うことができないなんてと呆れることもある。その力にムラがあるというのなら、得意なことだけ突き詰めてみればいいのに、彼はそうもしない。自分の才能をとことん持て余すというか、あんまり有益に使わない人なのだ。

 キスのそういう態度を依然としてもどかしく感じているのは事実だったが、最近では強く促すことも諦めて、気が向いた時に方向転換を勧める程度に留まっていた。ただ試すように。

「ところでいい天気だ――陽魚も元気に泳ごうというものだよ。下の店は、随分稼いでいるようだな」

「そうですね」

 長らく続いていた雨が上がり、十日ぶりの晴天のおかげで階下の花屋は大盛況している。本日何度目ともしれない花屋の来店ベルの音を聞きながら、ストアは背後にある静かなドアをちらりと見た。

「下には人が戻ったようですが……うちは、とても静かですね」

 三年前、ストアはキス・ディオールと共に《魔術分析所》を立ち上げ魔術に関する相談を受け始めた――その事務所がここだった。

 依頼者の殆どは非術士で、個人的な困りごとを魔術で解決してほしいという依頼が大半だ。普段からそう客足の芳しくない店ではあったが、ここ一週間ほどは新規の相談者が一人もいない。金に困っているわけではないが、こうも誰も来ないと不安になってくる。いい加減、猫探しでも杖作りでもなんでもいいから依頼が舞い込んできてくれないものだろうかと、焦りに似た気持ちがストアの中にくすぶっていた。

「まあいいじゃないか。今に、長雨のせいで腐って壊れた犬小屋を直してくれとか、そういうどうでもいい依頼が山ほどくるさ」

「そうでしょうか……そうだといいですが」

 ため息を吐いたところで、客がやってくるわけでもない。昼になったらキスに店を任せて書斎に上がるのもよさそうだ。それでもせめて午前中は店番に付き合おうかと、ストアは読みかけの新聞を再び開く。それを目ざとく見つけて、キスが呻いた。

「また新聞かい?」

「またって……新聞は毎日来るんですよ」

「面白いかい? そんなもの、どうせつまらないことしか書いていないじゃあないか」

「そんなことありませんよ。読んでみると意外と興味深いものです」

「社会情勢とか、株価指数とか、政治家の自慢話とか、そういうのが書いてあるだけだろう?」

 先ほどから、まるで子どもみたいな人だ。ストアは口元を緩めて、キスへ新聞を差し出した。

「面白いじゃあないですか」

「……どれどれ? 昨今の採掘技術の向上に伴う燃料石や宝石の低廉化、タッフ社の時価総額の穏やかなる成長、大臣ゴドリアの特別コラム――わたしの言ったとおり、つまらないものばかり! はあ、どうしてこんなものを読んでいられるのか、まったく不思議でならないね」

「新しい採掘手法には、緑の術士が記述した術式が使われているそうですよ。宝石が低廉化したことで庶民にも手が届きやすくなり、工術士を抱えているタッフ社の株価が上昇して、魔術士と産業の結び付けを支援したゴドリア大臣の評判も上々。かくして大臣はコラムのゲストに呼ばれ、紙面では、幼い頃に見た魔術に感動して魔術士と社会の架け橋になるべく政治家になり出世されたという話が書いてあります」

「ゴドリア? よく叩かれているハゲタカのような政治家じゃあないか。そんな奴らしか僕ら魔術士の味方をしてくれないのかい」

「まあ、僕も悪いイメージしかなかったのは事実なんですが。でも、このコラムを見ると、なかなか好感触な人物です。どうです、いい新聞じゃありませんか」

「どうかな、まこと嘆かわしいね」

 キスが唐突に、ぽーんと新聞を投げる。宙を飛ぶ新聞は彼の魔法によってみるみる丸くなっていき、着地の時にはボールのようになっていた。こらちょっと、と叱る声を控えたのは、来客の気配を感じたからだった。

 ――キス・ディオールの魔術分析所。

 この分析所には、扉にその名が記されている筆頭術士以外にもう一人若年の魔術士がいて、それがストアだった。三年前には新品だった扉も最近ようやく少し汚れて、雰囲気が落ちついてきたところだ。

 そして今、ちょうどその扉がノックされるところだった。


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