N215-002

 開いた扉の先にいたのは、いかにも紳士然とした老年の男だった。

 ハットバンドのついた黒の帽子に、足腰はまだ弱っていないようなのに握られたステッキ。ほんの少し青の光を帯びたスーツに、磨き上げたばかりの革靴。職業は外見からは予測できないが、ひょっとすると裕福な資産家のようにも見える。魔力を全く感じないから、少なくとも魔術士ではないようだ。

 いらっしゃいませ、とストアが彼を招き入れるのと同時に、背後でキスが杖を振った。瞬間、階下から聞こえていた賑やかな喧噪が、波を引くように静まっていく。

「ようこそ。わたしが看板にあるキス・ディオールで、そこにいる彼はストア。うちは花屋ではなく魔術分析所ですが、お間違えにはなっていないようですね」

 紳士は頷き、礼儀として帽子を取った。キスがまた杖を振れば、帽子とステッキは紳士の手をすり抜け意思を持って踊り出し、自ら掛け棒のほうへ走っていく。依頼人はほんの少しの間、イルゼナ材の家具で囲まれた分析所のなかを見渡していたが、やがて品定めは終わったという風にキスとストアに視線を戻した。

 ストアは紳士にソファを勧め、自分はお茶の準備に取り掛かることにした。久しぶりの来客だからか、依頼を聞くのはキスがやってくれるらしい。お湯を沸かす準備をしながら、ストアは背後の会話に耳を傾けた。

 キスはまず、依頼内容の確認を始めた。

「ご依頼を伺えますか」

 ここでは、依頼内容を聞くまでは、依頼人の身分や名前は一切聞かないことにしていた。内容によっては断ることもあるし、依頼人の情報を知らないほうが好都合なこともある。

「――とある男の記憶を作って欲しいのです」

 紳士の声は、ストアの想像よりも明瞭に、そして静かに響いた。若い頃からずっとこの声だったのだろうと思えるような、艶のある声だった。

 記憶作り。依頼人のこの願いは、珍しいものではなかった。

「実在の記憶ですか?」

「そうですが。ああ……なるほど、架空の記憶を作りたい人もいらっしゃるのかな」

「実在にせよ架空にせよ、それなりに実績はある。お話詳しく伺いましょうか」

 ストアは二人に背を向けたままで、ひそかに胸が高鳴るのを感じた。久々に、やりがいのありそうな依頼だ。

 魔術分析所とは名ばかりのこのなんでも相談所で働くようになってからというもの、相談事の三割は落とし物、三割は恋愛相談で、残る四割のみがまともな依頼だ。記憶作りは、この四割の中に含まれている。

 記憶作りはその特性から魔術士の専売特許で、魔術以外での実現方法が現状見つかっていない。とはいえこれを専門にしている術士に頼むとどうしても高額になりやすいので、当分析所にたびたび依頼が持ち込まれる。キスの出鱈目デタラメな魔術が上手く作用して、想定以上に依頼者に喜んでもらえることもある。ストアもこの仕事を担当することがあったが、なかなか面白くてはまってしまい、一時は他の工房からの紹介案件も含め積極的に受けていた依頼の一つだった。

「ここでは、記憶作りが可能だと聞きました。ただ、値段がわからなくて……わたしはそれなりに裕福だということになっているのですが、実際に手元にある使える金額はそう多くはなく、お二人に満足いく金額がお支払いできるかどうか分かりません」

「値段は、作る記憶によりますね。作るというか、再現で済むなら、もっと安く済ませることもできる」

「『再現』というと?」

「いちどあなたの記憶をお借りして、その記憶の通りにただ再現する――という感じです。わたしは、そんなつまらないことは苦手だが、そこにいる魔術士が割合そういう作業が得意でしてね。ご期待に沿えるかと思いますよ」

「……そちらの方も魔術士なのですか」

 紳士はストアを見てわずかに目を見開いたが、その後すぐにそういえば魔術士の子どもはとても早熟であったと思いだしたようだった。術士ではない者の身で十三といえば、店番などの仕事をこなすことはあってもまだまだ一人前とはみなされない。しかし、魔術士なら杖を持っていればいくつであっても成人扱いになる。

「ストア。茶なんてこれでいいから、こっちに来なさい」

 キスが杖を振り、ソファ前のテーブルに一式のティーセットをガシャンと音を立てて出した。ティーカップからは湯気まで出ている。せっかく手作りで用意してたのに、と機嫌を悪くしそうになったが、依頼人の前なのでこの怒りは一旦横に置いておく。

 ストアは向かいのソファに座り、会話の続きを引き取ることにした。

「記憶自体をお借りするか、あるいはお話を聞かせていただいて、そこから再現することもできます。まずは、記憶の概要をお聞かせいただけますか」

 ええ、と紳士は遠い記憶を思い出すように視線を遠く窓へ向けた。その様子は、今まで『記憶作り』を依頼してきた数多の依頼人らと殆ど同じだった。決して安くはない金銭に代えてでも手に入れたい記憶のオリジナルを、脳裏に映して懐かしんでいるのだ。

「とある友人の記憶です。もう何十年も――あなたが生まれるよりもずっとずっと前に、一時ではありますが、親しかった友人です。とてもとても仲が良くて、お互い以外に必要なものなど一つもないと思っていました」

 まるで恋人に宛てるような情熱的な言葉だ。それほどの感情を他人に持てることがあるだろうかと、ストアは少し依頼人のことを羨ましくも思った。

「どうしてもこのエピソードを記憶に、というものがあるわけじゃあない。彼と語りつくした一夜でも構わないし、共に乗り越えた商談の後の昼餉の記憶でも構いません。とにかくあの懐かしさを、失わないうちに手元に置いておきたいのです」

 ストアは頷く。紳士の言いたいことは、とてもよく分かった。

 記憶を作って欲しいと頼んでくる以上、その友人はおそらく故人か、あるいは連絡がつかないなど、もう会うことができないような相手なのだろう。記憶の中の友人は、日が経つにつれて薄れ朧気になっていく。切り取って保存しておきたい『一瞬』があるわけではなくて、ただ今でも彼と出会えるような記憶が欲しいだけなのだ。若い頃の友人は作っておくに越したことはないと、先日キスが雄弁をふるっていたのが思い出される。

「では、いくつかの記憶を混ぜてお作りするのはどうでしょうか。そうすれば、まるで新しくそのご友人にお会いしたかのような感覚も楽しめるかもしれません」

「ああ、それはいい。そんな器用なことが可能なのですか」

 紳士はここに来て初めて、頬をわずかに緩ませた。目尻に上がり皺が寄って、とても人好きのする顔に見える。

「その人のことが大体つかめるぐらいの分量の記憶をいただければ、可能だと思います」

「なるほど。しかし、記憶をそのままお渡しするのは、出来かねますな」

「ではご友人のお写真や、お名前は」

「見た目の説明はすこし口頭でしても構いませんが――名前とか、身分とか、そういったものを記憶に込めて頂く必要はありません。むしろないほうが良いと言っても良い。ただ――彼の人格というか、そこにまるで存在しているかのような感じ、そんな空気が欲しいのです」

 少し話が難解になってきた。ストアは頭の中で、依頼の内容をまとめることにした。

 ――若い頃の、旧友の記憶を作って欲しい。記憶の素材は提供できないが、あたかもそこにいるかのような存在感が欲しい。名前は合っていなくても構わない――

「では……記憶の創作、に近いかもしれませんね」

 ちらとキスを見る。創作ならキス、再現ならストア――なんとなく二人の間で慣習になっていた住み分けだった。しかしキスの表情は芳しくない。

「でも原典があるんだろう? じゃあわたしの仕事じゃないな、君に譲るよ」

 依頼人の前でなんてこと言うんだこの人は、と思いながら、ストアはこの仕事を担当する決心を固めた。

「では、僕のほうで一旦作ってみます。作ったものを確認いただきながら、少しずつ修正して合格を目指すようなやり方で、どうでしょうか。金額については回数ごとに加算にすれば、ある程度そちらでコントロール頂けると思います」

「我ながら無茶なことを言ったと思いましたが……やってみていただけるんですね」

 ストアは内心苦笑した。この方は、この分析所に持ち込まれる他の数多の無理難題をご存じないのだ。

「実は、難易度はそう高くない気がしています。記憶は、再生する人によって補完がなされますから。容姿は固めずにぼんやり作っておけば、細かいところは勝手にオリジナルに近づいていくでしょう。だから、写真が無いのは多分問題ないと思うのですけれど……」

「けれど?」

「どういう方か、という……そうですね、雰囲気のようなものは、情報をいただきたいと思います。さすがにゼロから適当に合わせていくのは、広大な闇の中でお互いを探すようなものなので」

 ふむ、と紳士は顎に手を当て、首を傾げた。どんな情報を差し出したものかと、思案しているのだろうか。

 やがて紳士は咳払いを一つしてから、この分析所に足を踏み入れて以来初めて、笑ってみせた。

「では、長い話に一つ付き合っていただけますかな」

 この依頼人の、無口ながらどこか上品で穏やかな気質を、ストアは気に入り始めていた。決して人好きのする人ではないのだが、勝手に好きになってしまったようだ。キスも、ストアが彼を気に入ったことに気が付いたのか、この依頼は完全に任せてくれるようだった。

 紳士はその前置き通り、深い友情を示せるような話を一時間以上かけて語った後、感情の感じられない無表情に戻ってから、帽子とステッキを引き取って帰っていった。次の来訪は二週間後になる。

 静音の魔術を解除すれば、階下から賑やかなベルの音が再び鳴り響くようになっていた。喧騒とは対照的な静寂を抱いた分析所の中で、ストアは一人、高揚した気持ちでこの新しい仕事に取り掛かることにした。

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