N215-003

「――なかなか難しいものですね」

 あれから二週間が経ち、相変わらず客のいない分析所の真ん中で、ストアは大きな溜息を吐いていた。

 正解が見えないまま何かを作るということが、こんなに恐ろしいものだとは思っていなかった。二週間しかもらっていないのだし、まあまずは土台の仮案を作るような気持ちでいいか――と気軽に取り組み始めたはずなのに、悩みに悩んでしまい、依頼人の訪問の時間が迫っている今になっても、自分で納得できていない。

「ほう、ほう。どうやら、わたしの出番のようじゃないか?」

 短い杖をぐるんと回し、背後からキスが現れた。

「…………少し、見て頂けますか?」

「もちろん。わたしを誰だと思っている?」

「一応僕の先輩であり、そして――魔術分析士――ですね」

 あまり認めたくないことだが、魔術の試行が上手くいかないとき、キス・ディオールほど頼りになる相談相手はそういなかった。

 そもそもストアたちが扱う『魔術』は、魔術士一人ひとりがそれぞれ独自に発展させた個人技の塊のようなもので、他人が簡単にアドバイスできるような性質のものではない。にも関わらず『工房』と呼ばれる魔術士の育成機関が存在するのは一見不可解なことではあったが、どの工房においても、形式的な教育は最低限に留まっているものだった。魔術に関する入門書一式を渡され基本的な術式錬成の考え方などを習った後は、自力で魔術を開発していくことを期待される。

 だが、この世でおそらくただ一人キス・ディオールだけは、本来それぞれが個人の中に秘め公開できないはずの魔法の仕組みを、観察し、解剖し、分析しようと努めている。

「まあ――そもそも依頼人からあんなふわっとした情報しかもらっていないのに、取り組み始めた君の勇気を讃えたいと、僕なんかは思うがね」

「まだ初回なので、突然正解を出す必要はないと分かってはいるんです。でも、すでに、根本的に全てが違うような気がしていて」

「その『違うところ』を客に教えてもらうしかないさ。ま、僕はそんな君の気脈の動きでも分析することにするよ」

 ぐるり、とキスの眼球が動き、ストアの術式を捉え始めた。あとは動かして見てもらうしかないので、彼に記憶の玉を預けることになる。

 どうやら完璧主義を患っているらしいストアにとって、自分で未完成だと分かっているものを人に見せるのは苦痛の伴う作業だった。

「ふむ、ふむ。なるほど」

「どうでしょうか?」

「悪くはない。が、まあ、かの紳士もなんとコメントしたものか迷われるだろうな」

 つまり、やっぱり、正解には程遠いということだろう。しかも、「ここが違う」と言えるような明確な違いがあるわけでもない

「生成対象の方に一度でもお会いできれば、もう少し話は楽なんですが。断片の記憶さえ少しもいただけないとなると、こう……ふわっと作るしかなくて」

「だろうね。だがストア、もうちょっと違うことを疑ってみてもいいかもしれないな」

「違うこと、というのは?」

 久しぶりに、キスが多少頼りになる先輩の顔をしているような気がした。

「そもそもその人物というのは――本当にいるのかな、とか」

「いるって仰ってたでしょう?」

「やれやれ、素直な子どもを相手にするのは疲れるものだ!」

 キスは玉を放り出し、ソファの向こうへぴょんと跳ねて行ってしまう。放り出された玉はストアの魔法によって宙にそのまま留まり割れることはなかったものの、一応これから依頼人に見てもらう予定の納品物をこうも簡単に放り出したりしないでほしいものだ。

「待ってください、どうしてそんなことが気になるんですか?」

「依頼人が、その記憶の相手に対して抱いている感情がどのようなものか推測するための材料になるからさ。本物の人間なのか、想像上の人間なのかによってね」

「大切に思ってらっしゃるということは確実だと思いますが、その感情の抱き方が、異なるかもしれないと?」

「最初は、もしかして、空想上の人物なのかな、とも思ったんだけれどね、それにしては話が作り物じみていないというか、なんか、地味だろう?」

「……まあ、たしかにそうですね」

 お聞きした話はどれも、パッとしない、しかしそれ故に堅実であたたかな友情の物語だった。学生時代に偶然隣の席になったこと。教師が若き依頼人へ放った嫌味を、柔らかく話術で押し返してくれたこと。二人で朝まで事業計画について練った後、一度寝て昼になってからスッキリした頭でよくよく調べると法律に抵触するのでそもそも企画倒れしてしまったこと――

「空想なら、もうちょっと面白い話を思いついても良い。あるいは創作のセンスが絶望的にないか、だ」

「もしそうだったとしたらお可哀相なので、あんまりそういう風に言わないであげてください」

「しかし、名前や容姿については一切語りたがらなかったのも不思議だ。あれほど慕っている相手なら、見た目にも好きなところが一つや二つありそうなものじゃないかね」

 ストアはふと、工房の友人か――あるいはキス・ディオールを他人に説明するとしたら、どんな風に語り出すだろうかと想像してみた。まずは雰囲気と、性格を伝えるだろう。外見の情報から始めることはない。しかしその後その人物について一時間を超えて話を続けるとして、友人たちの、まじめな瞳や癖のある髪の毛や穏やかな笑い方などに一度も触れずにいられるだろうか。まあ、触れなくとも説明はできるかもしれないが――その友人に関する記憶を誰かに作ってもらおうと思うなら、補正が効くにしても、やはり重要なところは伝えておいて似せてもらいたいと思うのが当然の感情ではないだろうか。その友人に、記憶の中でもう一度会うために依頼をしているのならばなおさら。

「そういえば、僕の魔力の『分析』結果をお聞きしても?」

「最高の状態だったよ。練性が非常に高く、とてもよい魔術だ。でも、技術が素晴らしかったからといって、依頼人が満足するとは限らないな――ま、失敗しているように感じるのは君の魔力のせいじゃない、と分かっただけでも上出来じゃないかね」

 ストアは深くため息を吐いた。まあ、キスの言う通りだ。何度かやってみるしかなかった。

「そろそろいらっしゃる時間じゃないのかい?」

 キスが時計を指差す。あと十分。

 時を止められる魔法がもしこの世にあるのなら、ぜひ使ってみたいとストアは思った。



  *



 紳士は、前回と同様、きっちりとしたスーツ・ステッキ・帽子を伴い分析所の扉をノックした。無表情と親しみのなさは二週間前と変わりない。楽しみだとでも言いたげに微笑んでいたらどうしようかと恐れていたストアの予想は外れたようだ。

「実はすこし、自信がありません。こうではないのだ、という情報を少しでも教えて頂いて、また次回までに修正できたらと思っています」

 言い訳を並べている自分が嫌になりかけたものの、言っておかねばフェアでないような気もした。取り出した記憶の玉を紳士は少しの間、静かに見つめていた。

「難しいお願いをしてしまったな、とは思っていたんです」

「今日は、まだご期待に沿えるものではないと思います。擦り合わせして、方向性を決めていければと思っています」

「もちろんそれで構いません。たった一度で、友人に会えるとは思っていない」

 そう言ってはくれたものの、慕わしい友人に会いたいはずの依頼人がこれから受けるであろう落胆について、ストアのほうも覚悟を決めなくてはならなかった。小さく一つ深呼吸してから、玉を紳士へ掲げる。ストアの魔力が気脈を通り玉へとすり抜け、やがて黄金の光が灯った。ここから先は、紳士が一人で行くことになる。


 ――とあるカフェテリアの中。

 ざわめきが波のように、引いては寄せて続いている。セピア色の壁紙に等間隔に掛けられた鏡は、鏡合わせに空間を拡張し、本来狭いはずの店内をぐんと広く見せている。蛇の根城のように細く長いこの店は、片方の壁面が作りつけのソファ席になっており、各所でたくさんの会合が開かれている。客の顔は老若男女さまざまだが、僅かに、若い男が多い。珈琲が安いこの店は、金はなくとも時間のありあまる若者が約束のない待ち合わせをするのに便利な場所だった。

 視点の人物は、その喧噪の一番奥に座っている。机の上には少し温度の冷めた飲みかけの珈琲がある。その隣に、既に読み終えてしまった新聞を置く。伸ばした手は若々しく、皺など一つも刻まれてはいない。そろそろ出ようかと考え始めた頃、きみがやってくる。入り口から遠いはずのこの席を目ざとく見つけ、知り合いに話しかけられながら、なんとかここまで辿り着く。

「――やあ、二杯目を頼んでくれるよね」

「すでに四杯目だよ」

「それは随分お待たせした」

 少し皮肉っぽく笑いながら、友人は向かいの席に座る。椅子をギィと鳴かせながら、上半身を視点の人物の方へ大きく傾ける。まるでこれから秘密話が始まるかのように。

「それで、首尾は?」

「悪くはない。でも、やっぱりマダムは説得できなかった。君を待つ間ずっと考えていたけど、妙案も浮かばぬままだ」

「君が全部ひとりでやっちゃあ俺が面白くないからね。さ、相談してみせなよ、必ず最高の打開策ウルトラCを思いついてやる」

 そこから先は、ひたすらお互いの考えを述べあい、意見の中で気の利いているところを反映し合い、どちらの考えだったのか分からなくなるまで議論を重ねる数時間が始まる。途中、注文もせず居座っているのをウェイターに見つかってしまった友人は、急いで一番安い珈琲を頼む。視点人物も、同じものを頼む。

 語り合ううちに少しずつ日が傾き、やがて橙の夕陽の光が店内を包み込んだところで、追憶は終了する。


「――ここまでです」

 舞台づくりと人物づくりに力をかけすぎて、記憶の長さが十分ではなかったことをストアは反省しなければならなかった。意見を数多く貰いたいと思っていたのに、これでは依頼人も何も言いようがないかもしれない。

 依頼人は未だ夢の中にいるかのようにぼうっとしていた。記憶玉に慣れていない非術士が、追憶を終えた後によく見せる表情だった。

 やがて紳士は、夢から覚めたばかりのように目を瞬かせた。

「ああ――すみません。あの場所は、カフェ・リトリロですね?」

「はい。あなたがご友人とよくお会いになった待ち合わせ場所の一つです。図書館にもよく行かれていたとのことでしたが、記憶を何度も楽しむことを考えると、カフェのほうがより汎用性が高いような気がして」

「とてもいい。場所は全く悪くなかった、とても懐かしい気持ちにさせられました」

 ストアは紳士の言葉を心の中で反芻した。

 ――場所は、悪くなかった。

 では、やはり友人本人は、本物とは違っていたということだろう。

「友人ご本人は――その、どうご意見を頂いたものか、お答えいただくのも難しいかもしれないんですが」

「いえ、実は、友人も悪くはなかったんです」

「……そう、でしたか?」

 意外な反応に、ストアはつい目を見開いた。大切な友人だと聞いていたからこそ、あれが違う、これが違うと、色々と気になるところがあって当然だと思っていた。たとえば、ストアがキスの説明を誰かに口先だけで行って、彼を再現してもらったとしても、たった一回では二割も彼の性質をとらえることは難しいはずだ。

 紳士は、薄く薄く微笑んだ。

「これが老いというものなのかな。似た面影に、ああも屈託なく親し気に話しかけられると、もうあれこそが友人そのものだったような気がして。確実に、違いはあるんです。ただ、あの記憶を何度も見ていたら、いつかあれこそが友人だったと思えるようになるのかもしれない」

「それは」

 いけない、とストアは言おうとした。だが、何がいけないというのか。慕わしい友人に二度と会えない中で、代替出来る記憶の中の存在が大きくなり、もう二度とたどり着けない過去を上書きしていくことの、何が問題だというのだろうか。

 ストアが理屈を見つけられないでいるうちに、紳士は再び口を開いた。

「これで良いのかもしれない。ああいう奴だったと、あいつを知らないあなたの手で上書きしてもらうことが、もしかしたら一番の葬式になるかもしれない」

 ――葬式に。

 物騒な物言いに面食らったものの、依頼人自身にこれで良いと言われてしまうと反論できない。ストアの作った記憶と、彼の本当の友人とは、結局どれほど似ていたのだろうか。意外にも、ちょっとした違いには目を瞑れるぐらいに、本物に迫れていたということだろうか。

「ああ、注文がゼロというわけではありません。一つだけ、とても細かいことですが、私が最初に手に持っていた新聞が、昔のものではありませんでした。たぶんごく最近のものでしょう」

「ああ――すみません、手元のもので代用してしまったのかも。後で、記憶を塗り替えておきます」

「うん。それ以外は、変えて欲しいと思うところはありません。というか、どこを変えて貰いたいとも言えないような気がしています」

 紳士は、少しだけ首を傾げるようにしてから、何かを丸呑みする時みたいに目を固く瞑って、はあと一つ溜息を吐いた。記憶に瑕疵があるのは明らかだった。

 つまり――ストアも紳士も、記憶の出来に不満があるのは同じなのだ。

 だが、紳士はこの状態で良いと言っている。彼の寂しさは、この記憶玉によって埋めることができるものなのだろうか?

 なんだか手ごたえのないまま話がまとまりかけたその時、三人目の声が分析所に響いた。

「では――記憶と、会話してみてはどうだろう?」

 お節介な第三者の名は、当然ながら、キス・ディオールだった。

 彼は短い杖を回し、無礼にもシルクハットを被ったままで、とんがり靴を天に向け笑っている。

「キス?」

「依頼人。あなたは、記憶の見た目や名前を気になさらない。ということは――あなたはその方の姿をただ見たいとか、ただその人が生きているような感覚を得たいとか、そういうことではなくて、本当はそのご友人とまた歓談なさりたいのではないですか。ただ作られた記憶を再生するだけではなくて、ご自分の言葉でお話されたいのでは」

 キスの言葉に、ストアはどこかはっとする思いを抱いた。依頼人が記憶を作ろうとする動機を、ストアはここに至るまで確認していなかったのだ。

 そもそも、なぜ紳士は記憶を作りたいのか――?

 ただ慕わしいからだ、と簡単に処理していたが、そもそも最初に確認するべき重要事項だった。記憶を見て、どうしたいのか。どうなりたいから、分析所の扉を叩いたのか。やられたという気持ちを抱きつつ、キスの論述を見守る。

 紳士は苦笑を浮かべ、少し疲れたような瞳でキスを見た。

「……ええ、まあ。実際にもう一度あの日に戻って友人と話ができたら、どれほどいいだろう、と思うことばかりです」

「でしょう。何を隠そう、実はわたしも毎日そう思っています。あの頃に戻れたら、と」

 ストアは目を見開きキスを見た。彼の言葉に、心底驚いたのだ。

 キスの言う『あの頃』が、一体いつのことなのか全く予測がつかなかったし、彼にそうした戻るべきベル・エポックが存在するということ自体が信じられなかった――いつでも今が一番だ、なんて嘯きそうな人なのに。

「だから、あの記憶と会話してみてはいかがですか――とお聞きしたんです」

 紳士は考え込むように視線を一度伏せたが、すぐに決断し、強く頷いた。是非やってほしい、ということだろう。

 キスは振り返ってストアを手招いた。

「――やり方を教えよう。ぼくの考えた最強の解決方法だ」

 記憶と人間を会話させるなんて、やったこともなければ、聞いたこともない。即席で自動人形を作るようなものだ。ストアの、型にはまった形式的な術式では到底実現できないような気がしていた。

 しかも、その難しい術を、すぐにこの場で依頼人の前で、完成させなくてはならない。

「まあ、大丈夫さ。魔力の錬成が上手い術士なら誰にだってできるし、君はぼくが知る限り最高級の練度を持つ魔術士だ」

 依頼人の前で期待を持たせる余計なことを、と言いたい気持ちと、これが突破口になりえるかもしれないと思う期待とが混ざりあう。ストアは、キスの言葉の続きを待った。

「やり方はこうだ――記憶の再生を行いながら、玉と杖を接続して、彼に『記憶』と話をしてもらう。そうすれば、彼の思考が玉の方に逆流するはずだ。記憶の内容がおそらく変質する」

 そんなに上手くいくだろうか――とは思ったものの、今思いつける瑕疵もない。おそらく理屈としては《できる》術式なのだろう。

「逆流の想像はするべきですか?」

「するべきだが、君ではない何か別のものに記憶を変えられていると思ってはならない。ご存じの通り、気脈は君の言うことしか聞かないからね」

「自分で記憶を変えているような気持ちで、でも他人の思考の逆流を受け入れろと?」

「まあ、そうだ。難しいことを言っているとは思うよ。でも、君になら出来る。まるでガラスを作るようなものだよ。型は目の前にいるのだから、君の魔法を押し当てればそれでいい」

 そのやり方なら、最初にストアが想像していた難易度よりもずっと低い。あくまでも、他人の感情の質感を上手く受容して、魔力と気脈に言うことを聞かせることが出来るなら。

 そこが出来てしまえば、形成自体は難しくはないはずだ。キスの言う通り、一瞬で記憶生成が叶う気がする。あとは、ストア自身の抵抗感の問題だった。

 ――この世界における『魔力』とは、《自分の想像》を形にする力だ。

 他人の想像力を間借りして、力だけを提供する。それは魔術に対する一種の冒涜ではないだろうか、とストアは内心苦笑した。けれど依頼人の頼みを叶えることだけを考えるなら、やり方の理屈は通っている。

「やってみましょう」

「君ならそう言ってくれると信じていた」

 魔術士二人が術式の相談をしているこの間、紳士は静かに待っていてくれていた。改めて向き直り、彼に玉を渡す。

「初めての試みなんです。でも、やってみる価値はあると思っています」

 紳士の頷きを確認してから、ストアは杖を手にした。杖の長さは既にキスの杖の二倍ほどまでに成長している。複雑な術式を使うときにはいつも、杖の柄にある蔦の意匠が、起き上がってストアの手の甲に絡みついてくる。

 ――上手くいきますように。

 気脈はいつでも魔術士自身の味方だ。だから、ストアが頼めばきっと言うことを聞いてくれるだろう。そう願いながら、玉による追憶を待つ。キスの分析の瞳を通して見れば、きっと今のストアと杖は黄金に発光しているのだろう。ストアの魔術はいつも、そのようにして実行されていると聞く。


 ――とあるカフェテリアの中。カフェ・リトリロの中。

 狭い室内の両脇に、絵画と鏡が交互に掛けられている。照明のせいか、室内はセピア色に輝いている。光の乱反射がどこか眩しい。手元には新聞と珈琲。いや違う、新聞は一度消しておこう。飲み終える寸前の珈琲が、まるで言い訳みたいに机上に残されている。

 長い長い影が、店内に落ちる。影の持ち主は舌打ちの雨をもろともせずに一直線に僕のほうへ向かってくる。なぜあんなやつと友人ぶっているんだ、と周囲にはよく言われる。誰を敵にすることもない僕と違って、こいつはとにかく鼻につく見た目をしていて、サロンに現れても自分の話ばかりする。

 僕を相手にするときだけ、彼の話量はどうしてか釣り合う天秤のように落ち着く。少しは認めてくれているということだろうか。嫌われがちの彼のことが、僕は可愛くて仕方が無かった。

 彼の、酒に焼けた声が響く。

「嫌がらせだな、こんな奥の席に座って。街中随分探したよ」

 ――彼にこう聞かれたら。僕は、なんと答えただろうか。

『嫌がらせなんかじゃないよ』『よく来たね』『僕を探すのは楽しかった?』

 いや違う、当時の僕は、もっとスマートにあいつに返事をしたはずだ。ほんの一握りの教訓も込めて。

「きみが知り合いを増やせばいいんだ。僕が何処にいるか、数人に聞けば分かるようになるよ。伝言を預かってくれる相手も、多いほうが良いだろう?」

 ――どうやら、この返事は間違っていなかったらしい。彼の頬が緩み、皮肉めいた笑みが浮かぶ。

「本物の伝書鳩を手懐けるほうがまだマシだな」

 乱暴に椅子に腰を下ろす彼に、次はウェイトレスの舌打ちが飛んできた。

 ――そうしたら、僕はこう言うのだ。

「もうちょっと礼儀よく。愛想よくすれば、最低限の尊重を受けられる」

「きみは俺の母親なのか?」

 ――苛立ちを隠そうともしないその強い瞳が僕に向けられる。とても、とても懐かしかった。

「母鳥の様に、きみに言うことを聞かせられたらね。そういう魔法があればいいのに」

 魔法というキーワードを出したのは、彼がそれを好きだと知っていたからだった。案の定、親友は目をからすのように光らせ、椅子をギィと鳴かせながら引き、上半身を僕の方へ大きく傾ける。まるでこれから秘密話が始まるかのように。

「魔法はいい。魔法使いたちが、どうやって不思議な力を身に着けるのか知ってるか」

「さあね。どうやるの?」

「専用の教育機関があるのさ。普通の人間が丸一日かかることを、彼らは杖を一振りして終わりにする。大陸中で、こんなにも魔術士をたくさん抱えている国はわが国だけだ。もう少し産業に活かしたいと考える人間が、俺だけなのは不可解だね」

 僕は笑う。どうしても笑みがこぼれてしまう。

 ――何十年経っても、僕の心の中で、きみは仲間のままだった。何があろうと。どんなことがあろうと。だからこの夢の中で言うべきことは、一つだった。

「きみだけじゃないよ。きみが考えることは、僕も一緒に考える」

 ――そう。本当に心の底から、そう思っていたのだ。

 あたたかな春の日だった。長らく続いた寒冷期が終わって、鳥の声や道端の花が賑やかしくなっている。どこの喫茶店もサロンも人であふれかえり、こんなところで安い珈琲一つで粘る僕たちは歓迎されない。相談が続く、議論が続く。二人でなら社会のなにもかもを変えられると、信じていた。

 ――その記憶が、たしかに、再現されている。

 そう確信した直後、光で満ちたサロンの中、親友の顔が、奇妙に歪んだ。一音ずつ、彼の口が大きく広がって波打っていく。

「ち、がう」

 ――それは何か大いなる罪への、言い訳のように聞こえた。

 視界が揺れている。水の中のような、不自然な波打ちがあちらこちらに現れている。僕は笑う。どうしても笑みがこぼれてしまう。笑っていたいのに、それを一度引っ込める。どうしてもきみに聞きたいことが、何十年も聞きたかったことが、一つあったんだった。

 僕は口を開く。

「きみは、どうして裏切ったんだ?」

 親友は答えない。答えを持っていない。依頼者が知らないことは、記憶のなかの彼では答えられない。ただ無表情に戻って、僕を見つめ続けている。結局何十年経っても、返事が返ってくることはなかった。


 ――記憶の玉が、音を立てて割れた。

 ストアは一瞬、気脈の乱れによる暴走だろうかと焦ったが、どうもそうではないらしい。玉は割れたまま追憶を続けており、ただ、その持ち手である紳士のほうが玉を拒否している。紳士は今にも破片を取りこぼしそうになっていた。顔面は蒼白で、今までに見たどの瞬間よりも感情に溢れていた。紳士の表情は、ストアの目から見て、怒りとも哀しみとも悔しさとも名付けようがなかった。

「あの――」

「できない」

 その声は年相応の老人のもので、先ほどの記憶の中で響いていた、艶のある声とは程遠かった。

「すまない。わたしには、できない」

 蹲る彼を見ながら、ストアには、この『友人』が一体誰なのか想像がつき始めていた。

 あとで昔の新聞をいくつか調べる必要はある。ただ、魔術士を用いた産業振興による成功者と言えば、まず思いつくのは一人しかいない。悪名高い元実業家で、今は政治家になっている。

 その政治家の悪評の大部分は、若い頃に行った強引な事業買収や分離合併によるものだった。当時の社員には随分恨まれ、今も彼を許しはしないと公言する人も多い。実業家としては、契約に書いていないことなら、どれほど道義に反することも断行したと聞いていて、口の悪さも含めとにかくイメージの悪い人だった。有名人にも関わらず、親しい友人はとても少ないと聞く。

 記憶の中の若き親友が、あのゴドリア大臣であろうことは、殆ど疑いようがなかった。

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