N215-004
紳士が初めて分析所を訪れたあの日の新聞を探し出すのには、少し骨が折れた。
ストックしてあるのはせいぜい一週間分なので、二週間前の新聞となるとすでに捨てていてもおかしくない。結局家の中からは見つからなかったので、再度記憶の玉の中に潜り、そこに転がっていた残滓の中から再現した。新聞には、社会情勢とか、株価指数とか、政治家の自慢話が載っていた。その政治家こそが、紳士の親友だったゴドリア大臣に違いなかった。
「依頼人のハインさんがゴドリア大臣と知り合い――というか、あれほど親しい間柄だったなんて、今でも想像がつきません」
若き日のハインさんのことも、若き日のゴドリア大臣のことも、なんとなく想像はできる。二人とも今よりも活気があって、まだ知らないことも多く、気が合うところも多少あったかもしれない。だが、あれほど親密だったとは未だに信じられないのだ。
一度も親し気な様子を見せることなくストアに好感を抱かせた品格ある静かなハイン氏と、新聞記事で見るだけでもなんとなく嫌悪感を抱いてしまう乱暴者で口の悪いゴドリア大臣。ハイン氏が見た目も中身も紳士であるのに比べ、ゴドリア大臣は着ているものばかり高値で高慢ちきだと評判だ。
「意外かい? 似ていない二人が親しくなることなんて、いくらでもあるだろう?」
「あなたとリュエルさんとか?」
「――嫌なことばかり思い出させてくれるね、君は」
よく考えれば、『友人』というカテゴリには当てはまらないものの、自分とキスだって似たような関係なのかもしれなかった。相性が良いかどうかと、見かけや雰囲気が似ているかどうかとは、全く別の話なのかもしれない。
「しかし、謎が解けて僕としてはスッキリだよ。ハイン氏がゴドリアの名前を言いたくなかった理由も、見た目についてとんと語りたがらなかった訳も分かる。つまり、彼はすでにゴドリアが嫌いだったんだ」
「でも僕らは、ハインさんがゴドリアさんに裏切られた人だとは知らなかったわけです。ゴドリアの昔の友人だから、よい時代の記憶を作ってくれと、そうおっしゃってもよかったのでは?」
「いや、どうかな。特に僕らに対しては、ゴドリアの名は出したくなかったろうさ」
「どうしてですか?」
「一般的なイメージとしてのゴドリアへの悪口を言われても嫌だし、魔術士の擁護者としてのゴドリアへの賞賛の言葉も聞きたくない。ハイン氏としては、ゴドリアに関する評価など一つも聞きたくはなかったはずだ――まぁ実際のところは分からないが、少なくとも僕ならそう思う」
「……まあ、分からなくは、ないです」
「良いじゃないか、結果として、君は仕事をやり遂げたんだ。依頼人の思考を逆流させるという、新しい術式も手に入れることが出来たしね」
「やり遂げた――という実感は、まだありませんが」
記憶の玉が割れたあの日の一週間後、なんと依頼は完了してしまった。
もうハイン氏本人が記憶と話すことは二度とできないと言われたので、とりあえずストアのほうで作り直してみた記憶をお渡ししたのだ。すると、ハイン氏は驚くほど喜び、これほど上質な記憶が作れるとは驚いたとストアを褒めて、約束の報酬の二倍近い金額を払ってくれた。ハインという名は、支払いに使われた小切手のサインで知った。
「……僕、あの後ゴドリア大臣の直近のエピソードを調べて、それを元にあの記憶を作り上げたんです。だから、あれは結局、再現と同じだったかもしれません」
「なるほどね」
「キス、気づいていますか? つまり、ハイン氏が信頼していた二十年前のゴドリア青年は、結局、今のゴドリア大臣と地続きだということです」
ハイン氏には、記憶の対象がゴドリアであることには気付かなかったという風に見せた。魔術士は浮世離れしていて現社会のことにはあまり興味が無いということになっているから、キスやストアのこともそのように思ってくれていたらいいのだが。
「今からでも仲直りすればいいのに、とか思うかい?」
「そうなればそれは一つの奇跡で、その友情を美しいと僕は思います。でも、そうはならないでしょうね」
「ふむ。なかなか現実を見れるようになったようだな」
「冷笑主義の人の横でずっと仕事をしていたせいですね」
せいとはなんだ、とキスが声をあげたが、ストアはこれ以上キス・ディオールに付き合う気にはなれなかった。
――遠い将来。
もしも、ストアがキス・ディオールを嫌いになることがあったとして、和解しがたい離別がそこに発生したとして、何十年か後に、思い出すのはどの日の記憶だろうか。初めて彼と会った日の記憶などは懐かしくてたまらないだろうが、やはりこうして軽い口喧嘩をした昼下がりを一番に思い出す気がする。
ふとストアは、キスが依頼人に対して不可思議なことを言っていたのを思い出した。
「そういえば、知りませんでした。どうしても戻りたい過去があるとか?」
「ああ、あれね」
「嘘ですか?」
「まさか。営業用の下らない嘘なんて吐かないさ。本当のことだよ」
「いつ頃のことなんです?」
「君にとっての今だよ。杖をもらって自立したけど見習い時期――一番楽しいものだろう?」
キスが、工房を卒業したあと一体何をしていたのかは、以前師匠に聞いても分からなかった。しばらくその辺で遊んでいたのだろうという回答しか得られず、では『遊んでいた』だけでどうしてこうも魔術に関する知識に長けているのか、その理由も判然としない。
「君にもあるかい? 戻りたい過去」
「どうでしょうか……まだ、ありません。工房にいた頃を懐かしく思う時はありますし、一日だけでも戻れたらきっと楽しいだろうなとは思いますが、でも、ハインさんの寂しさは、もっと深刻なものでしょう?」
記憶玉が割れた日、ハイン氏が言っていたことをストアは思い出していた。もう裏切りのことなんてどうでもいいのだ――と、彼は言った。
「正直なところ、もう裏切りそのもののことなんてどうだっていいのです」
依頼人は、もはや記憶玉のことも、キスのことも、ストアのことも見てはいなかった。
「ただ――ある意味だね、彼は、わたしの一番の友人を奪っていったのです。なにを言っているんだと思われるかもしれませんが、いわば彼はわたしの友人の仇のようなものなのです」
それから紳士はゆっくりと顔を上げ、そのままストアに視線を合わせたかのように思えた。眼球は確実にこちらを見ているはずなのに、どうにも視線が合うような合わないような不思議さがある。彼が見ているのは過去だった。
「もしもあなたに友人や後輩や――関係性の名前はどうだっていいが、とにかくこの人に忠誠と誠実を捧げてもいいと思うような、そんな相手が――そんな相手を見つけることができたなら、どうかその人を裏切らないであげてほしいのです」
「裏切らない、ですか」
「ええ。時にはとても難しいかもしれませんが。わたしも、彼を裏切らずにいるのは、正直難しかった。でも出来る限り努力しました」
ストアは、彼に返せる言葉を持っていなかった。キス・ディオールも静かにしていた。分析所の中には静寂だけがあった。
「わたしはあの男を好きでいたかった」
その静寂の中に唯一響く声は、どこか震えていた。ストアは目を伏せた。
「ほんとうに好きだったんです。ずっとずっと、あのまま好きでいたかった」
紳士の遠い目に、掛けられる言葉は一つもなかった。
「結局ゴドリア大臣は――裏切りのチャンスを逃さなかった、ということでしょうか。ずっと虎視眈々と、ハインさんを欺く機会を狙っていたとか?」
「どうだろうね? 降って沸いた一回の機会に、たまたま魔が差したのかもしれない。もしくはそれ以前に九十九回裏切ることのできる機会があったのに、ゴドリアが耐えていたとしても――ハイン紳士は気づくことはなかったろうね」
そうだろうか。キスの言うような可能性もあるのだろうか? あまりに楽観が過ぎるようにも思う。
これ以上考え続けても、なんだか心労が溜まっていくだけのような気もした。話を切り上げようかと、立ち上がりながら杖を振ってお茶を片付ける。キスの作った陽魚が床の上を泳いでいくのが見えた。そろそろ午後の時間が始まるから、書架に上がって本でも読もう。
「まあ、勉強にはなりましたよ。人間の切なさを学ぶことが出来ました。あるいは愚かさを」
そう言ってまとめにかかる。このまま部屋を退出して、キスに店を任せるつもりだった。
ストアが動きを止めたのは、キス・ディオールが唇をゆがめて笑っていたからだった。何か言いたいことでもあるらしい。こちらを小馬鹿にしたような、あるいは愚かさを懐かしんでいるような、不思議な笑顔だ。不快に思っていいはずなのに、ストアはいつも、こういう時のキスに文句の一つも言えやしない。
ストアは、さっき自分が言ったばかりの言葉をもう一度反芻した。人間の切なさ。あるいは愚かさ。
――あれほどの誠実な親愛を、棒に振ったゴドリア大臣の愚かさ。
ストアが何かを言う隙もなく、キスは言った。
「違うよ。君は今回、人間の抱く愛情の永続性に触れたんだ」
<了>
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