番外編
迷い星の行方
◆前提
これはいつも僕が書いているエッセイや随筆や日記とは一線を介する,単に”彼”から伝え聞いたことをまとめた伝聞録である. であるからして, 真偽のほどは一切において保障できない.
*
星は小さな浅海を求めて、宇宙を抜けて大層圏を突き破る。
こんな惑星に落ちてきたっていいことなんてひとつもないのに、隕石は恋に落ちたようにぐいと落下した。
紅茶にミルクが一滴たれたときのようにぽたんと波が浮きあがって、しかしすぐに静まる。その一瞬を、かのキス・ディオールは決して見逃さなかった。
「おや、おや、おや」
その星が彼の目に留まったのは偶然――いや必然だろうか――ここで答えを決める気はないけれど、何にせよ運命的な事象であったことは否定できない。(いや、世界には必ず起こる出来事つまり必然しかなく、それゆえにすべては運命であるのだと書き手の僕の横からうるさい茶々が入ったが、今は無視をしよう)
そこに落ちていたのは、星砂糖のように綺羅綺羅しい、繊細でか弱い宇宙船だった。キスは何の躊躇もせず、それを海辺からすくいあげた。水面を離れたところで、船は唐突に転変し、色彩をパステルカラーから紅蓮に変えた。おどろおどろしいとすら言える、鮮血をちょうど四時間ほど酸化させたような色だった。不気味に感じながらもキスは粉砂糖、いや今となっては体内にできる胆石にしか見えなかったが、それに手を伸ばしハッチを空けた。
……。
ああ。わかった、一度だけですね。
キスは、勇敢にも! 胆石にしか見えなかった、恐ろしい、内臓のようなそれをしっかりと強くつかみ、そして開いた。その中に何かがいると、彼はすでに知っていて、その運命を信じていたからだ。ああ、なんと素晴らしいキス・ディオールの高潔な精神! これぞ騎士道、魔術における分析手法を多世界次元で初めて構築した功労者、彼ほどの賢者はいないであろう!
……で? これでいい? ああ、そう。よかった。じゃあ、続きを書こう。
こういう書き直しは今回だけ、次からは邪魔をしないでもらいたいものです。いや、冷たくない。僕はそうとうあなたにすでに貢献している。あーいや、そんなことをいうつもりは……ああ、全部自動筆記されてるじゃないですか! 少し黙っていてください! まったく……。
……。
さて、話をバーサイド暦八六四年の夏の海に戻そう。
ともかくもキス・ディオールは、理由や心構えやそのうちに秘める熱い思いなどはさておきとして(いや、だめです。一度だけと言ったはず)、そのシップの中身を見た。それは神秘なる宇宙船の中身であり、夢のような粉細工のうちがわであり、生々しい内臓の裏皮だった。その中に彼は、たった一つの目玉を見た。
「……やあ、初めまして。我が名はキス・ディオール、魔術の分析士をしている。もしもあなたに魔法の才能があるのなら、もしもあなたに神の魔力が与えられているのなら、はたまたあなた自身が神もしくは魔物の眷属だったにしても、均質に統一に平等にあなたは私の分析対象だ。いや、分析対象でないと仲良くしないといいたいわけではないんだが、もし、あなたがそうなら嬉しいと思ってね。しかし何にせよ僕らの出会いに感謝しようじゃないか。ところで君、言葉は通じている?」
本人の前で語るのも少し妙な気分だが、彼、キス・ディオールは基本的に挨拶を欠かさない。礼儀正しいとは決していえな(ここに四文字分程度の落文が見られる)れなりに大人らしいといえるのは事実だ。
キスはひと思いに上記の狂言を吐き終えたあと、五分程度、シップの返答を待った。五分。五分だ! 短い時間の代名詞として語られるがゆえに忘れがちかもしれないが、五分というのは意外と長い。一秒が三百回もある。相手の返答を待つにあたり不適切とも呼べる永遠の時間である。気の利いた人なら
あっちょっとらないでください!
……(五分間、筆記停止期間あり)……。
ここに一文だけ僕の意に染まぬことを書く。彼は辛抱強いがゆえに、その五分間を有意義に棒に振った。
てかこんな風に遊んでいるからぜんぜん話が進まないんですよ。まだ隕石落ちてきて目玉と向かい合っただけないんですけど。ねえ、聞いてます僕の話? まったく都合のいい人だな。
さて。
キス・ディオールはそのとき(と書いても覚えておられないかもしれないので復習すると、ふと落ちてきた宇宙船のハッチを開けてその中にある巨大な眼球と見詰め合ったとき)、ひとつの偉大なる賢言を思い出した。
いわく――お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ。
しかし、彼の直面した「深淵」においては、その諌言も少し甘く聞こえたかもしれない。その瞳はどう見てもどす黒く闇に染まってはいたが、形は明らかな眼球の形状をとっていた。「覗かれている」ことを、忘れるはずなどない。
その闇の中にはほわりと小さな青炎が漂い、そして眼球それそのものがなぜか脈打っていた。どくどくと太い眼球は船の内側に張り付いて、乗り物のように見えたそれはあくまでも深海貝の殻に過ぎなかったのだと分かる。機械の中に眼球が根ざしているのではない。これはひとつの、こういう形態の、こういう遺伝子の、こういう生態の、生き物なのだ。
キスは彼女(いや、彼かもしれない)に、口付けするかどうかすこし考えた。気色悪いことを考えるものだと僕なんかは思うが、まあ、でもそう考えたらしい。
しかし逡巡のあと彼は、そうしなかった。(そう聞いて僕はほっとした)
この生き物が、理性があるのか知能があるのか感情があるのか記憶があるのか心臓があるのか脊椎があるのか、そういった一切合切のことはまったく分からないが、すくなくとも分からない以上、無礼になるべきことはするべきではないと考えたのだ。そういう点、彼はやはり礼儀を重んじているとは言うべきなのかもしれない。
そして、彼は代わりにこう言った。
「――あなたを分析しよう」
そういうと、言葉が通じたのか通じなかったのか、それとも彼(もしくは彼女)にとって「アナタヲブンセキシヨウ」という音の響きはキスの意図したものとは別の文脈を握っていたのか、それは永遠の謎とも呼べるけれど、とりあえずその生命と呼べそうな眼球は、うなずくように体を震わせた。
許諾を得られたものと感じ、キスは早速右の眼球に魔力を集中させた。彼の気脈は全身に張り巡らされており、どの部位をとっても超一流の品質を保つが、とりわけ素晴らしいのは眼窩付近の脈だ。目のような臓器に近い場所には気脈は造られづらいものだが、キス・ディオールの場合なぜか全身における気脈の四割が眼球付近に集中している。(もちろん、彼はそもそも全体における脈の本数が多いのだけれど)
そうして彼は分析を始めようとした。分析にあたり、キスの眼球は一度膨れ上がり、出目金のように一度大きくせりあがる。彼は深淵を覗いた。その分析のまなこで。
「いでっ」
え? 何が起こったんです?
いや、ちょっと気になって続きかけませんよそんなの。え、どういうことです?
ん? どこから書き直せばいいんですか? ああ、三行前……ここですね。
そうして彼は分析を始めようとした。分析にあたり、キスの眼球は通常通り、普通の人間のサイズで、普通に深淵を覗いた。
いや、なんでです。そのときも分析の目は持っていたのでしょう?
え?
そうなんですか!?!
いや、そういうことは筆記を始める前に言っておいていただかないと。びっくりするじゃないですか。いや、すみません。ああびっくりした。
じゃあここは書き直します。
そうして彼は分析を始めようとした。分析にあたり、キスの眼球は通常通り、普通の人間のサイズで、普通に深淵を覗いた。そう、普通に。
――その次の瞬間、圧倒的に普通ではないことが起こった。
その眼球はぴったりと神経にいたるまで機体と癒着していたかのように思われたのに、唐突にすべての糸を断ち切って、キスの眼球へ、そして眼球を押し込んで眼窩の中へいたるまで、ぐいと隕石のように墜落した。
いや、それめっちゃ痛かったですよね、たぶん……よく生きてますね……麻酔とかちゃんとしました? ああ、ですよねえ……急ですもんね、そりゃそうでしょうね。ていうかなんなら拷問レベルだと思いますよ。そりゃまあ僕たち魔術士は、それなりに痛みには強いですけれど……いや、できたら経験したくないことのひとつですね。たとえ魔術士にはどんな体験だって不可欠で重要といわれても、そんな、目をえぐられるような、むしろ押しつぶされるようなのは、ちょっと……。そんな英雄譚の話なら最初からもうちょっとテイスト変えて書きましたよ。宇宙船と出会った話っていうからちょっとアストロミーな童話調に、素敵ないい話始まるっぽくやっちゃったじゃないですか。まあいいですけど。分かりました。今度リライトしておきます。
とりあえず続きを書きましょう。
――お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ。
その言葉を座右の銘とするのを、今後はやめようと、キス・ディオールはかたく心に誓った。
覗く、とかいう領域の話ではない。やつらは魔かもしれないのだ。悪かもしれないのだ。襲ってくるかもしれないし殺されるかもしれない。そんな当然のことを忘れてはならない。なんでもかんでも分析してはならない。手を出すものはある程度選別しなくては。
「いでっ」
という程度の叫びで済んだというのが、全貌を聞いたあとだともはやいっそのこと狂気に思うが、とりあえずキス・ディオールは痛みに喘ぎそう言った。
生き物は、キスの眼窩のなかに押し入った。
既存の、従来の、持ち前の、キス・ディオールの天然ものの眼球を押しのけ、その生物は眼窩のなかに鎮座した。宇宙船の中から、キスの瞳の中へ。それはあまりに唐突でそして自然な引越しだった。ヤドカリはその家となる貝を決めるとき、相当に吟味を重ねると聞く。さまざまな貝を手にし、被ってはやめ、手にとってはやめ、たくさんの試行錯誤の果てに、ようやくしっくりくる家を探し当てるのだそうだ。それと比較して、この宇宙生物のなんと思い切りがよくて杜撰なことか。僕には到底理解できないが、キス・ディオールの眼窩は、宇宙をさまよい引っ越し先を探していた彼・もしくは彼女にとって運命的なマイホームのように映ったのだろうか。もう一度言うが僕には到底理解できない。あいてっ。
「なっ、なんだい?」
彼がもう一度話すことができたのは、瞳の居場所をひとつ奪われてからじつに三時間(恒例の注釈になるが、この世界においては一日は二十四時間ではなく、また正確には単位も「時間」ではない。しかし読解の簡易さを優先しここでは「時間」の単位に揃えることとする)ほどの時間が経ってしまっていた。
キス・ディオールはあまりに突然のことに理性と冷静さをほんの少し奪われ、沈静魔法や抑痛魔法をかけるのに大幅に遅れをとった。というか彼はそもそも医業系の術式をそう知らなかった。彼が好きなのはいつも、大岩を動かす魔法とか、空を緑に染め上げる魔法とか、海を渡る魔法とか、紅茶を甘くする魔法とかだ。あの繊細な気脈を使えば医術士にも簡単になれるだろうに。
しかし彼もこのときばかりは自分の不明を悔いたであろう。震える手で、混乱する頭のなか、記憶を必死に探り、痛みを抑えられる魔法を探した。そして青の本に載っていた、初歩の医術を思い出した。本来は激痛を抑止できるような力はもたない術式だが、式というのは解かれる術者によって大きく効力を発揮する。ついでに言えば、魔術士にとって「思い」「願い」「イメージ」というのは、術式の結果に大きな影響を及ぼす。つまるところ、キス・ディオールが知っていたのはヘボくてチチンプイプイ痛みよ飛んで行けレベルのおまじないに等しい式だったが、彼の強い思いによって式は成就し、眼窩の痛みはなんとかひいた。
そうして彼はようやく理性を取り戻した。正気になった彼はひとまず、一体化しつつある眼球に対して、問いかけた。
「なっ、なんだい?」
無論、答えはなかった。当然だ。眼球がしゃべるわけもない。
いつの間にか、苦しみの三時間の間に宇宙船も消えてしまっていた。行方は分からない。宙に飛んでいってしまったのかもしれないし、海に帰ったのかもしれない。ただその場で溶けてしまったのかもしれない。痛みにもがき苦しみ三時間ほどの記憶をほとんど「痛い」の感情に支配されていたキス・ディオールには、知るべくもない。
そして彼は、眼窩に入り込んだ眼球を追い出す魔法を知らなかった。知っていそうな魔術士にも心あたりはなかったし、そもそも彼の四割の気脈を占める部位に三時間存在し続けていられるような存在を容易に動かせる術者はおそらくいないだろう、と確信めいた感覚でそう思えた。
それに、どうやら彼の新しい眼球は、すでに神経と一体化してしまっているようだ。直後は当然、右目の視力が失われていたはずなのに、いつの頃からか、両目の視野は復活していた。立体視も問題なく可能だった。
「……しかしさすがに問題ない、とはいえないな。おい、君を分析するぞ。かまわないね?」
とんだ無礼を先に相手からはたらかれてはいるが、だからといってキス・ディオール本体は分析対象に対する礼儀を欠かさなかった。分析してもよいかどうかを確認して、承諾を得てから、分析する。それが彼の流儀だ。
つぶされたとはいえ、自前の眼球はきっと奥にいるはずだ。そう思い、ぐっと目玉に力を入れ込む。すると気脈を通じて熱がぐっと右目に集約され、分析術特有のセピアの色が稼動した。――よし、いける。大丈夫だ。
いつもどおり、分析を始める。自分の眼球のすぐ前に、分析対象の生き物がいるのだ。きっとこれまで以上にさまざまなデータを収集できるに違いない――と、そう思ったのだが。
「……あれ?」
次に襲ってきたのは、ごろん、と眼球が飛び出すような感覚だった。
いや、ような、ではない。実際にキス・ディオールの眼球(いや、まだこのときは自意識としては『突然入り込んできた訪問者の眼球』だが)は、八割ほどの表面を外気に晒していた。急速に水分が奪われる。ドライアイにお気をつけを。そんな広告文面を、思い出している場合ではないのに想起した。
「……分析、できるかな……」
そのあと三ヶ月ぐらい、眼球の出し入れをコントロールするのが大変でしたとさ。ちゃんちゃん。
*
いやいやいやいやいや。
「と、いうことは貴方は、眼球が三つあるわけですか?」
呆れたものだ。
不法侵入なのだから追い返せばいいだろうに、どうしてそう人のいいことをしてしまうのだろう。
……まあ、押し入った眼球をそのままとどめて許してやることを『やさしい行為』とは表現しづらいけれど。
「しかしまあ、貴方がいるとなかなか書けませんね」
「自動筆記ペンなんて使うからだよ。まあしかし、君の新しい試みを、正式なチャレンジを、勇敢なる無謀さを、僕は評価したいとは思うがね」
生で聞くキス・ディオールの声はやはり中低音で美しい。
手元の原稿を再度手に取って、読み返すが、やはりこの声だけはどうしても埋め込めない。
キスの持つ麗しい声(と、本人に告げる気は絶対にないが)は、どんな筆力をもってしても表現しきれないだろうな、とストアは思う。
「しかし、あれじゃあ小説になりませんよ。リライトしないと売れないな」
「何が小説足りえるか、というのを君が決めてしまうなんてどうも愚かしいことだとは思わないかね? いつも言っているが、魔術士というのは、主人公でありながら書き手であり、世界に対する大いなる指揮者であり、そして術式を生み出す数学者でもある」
「つまり? 簡潔に言うと?」
「簡潔? 君はつまらない大人になったものだな! 子供というのはどうも育てたとおりには育たないものだ……ああ、僕はこう言いたいのだよ。小説が何かを、舞台が何かを、人生が何かを、そういったことは君が決めるべきことじゃない。それは読者が決めることだ」
「今のところ、この物語の読者は僕しかいませんよ。それに、人生の読者というのは? 自分自身ではないということですか?」
「自分は自分さ。自分以外に、自分の人生を読んでいる人がいるとしたら、その人のためにこそ自分の人生はあるとは思えないかね?」
「思えませんね。……あなたはそう思えるからこそ、分析士なんてやっていられるのかな」
彼が才能を持ちながら他人の分析なんかに甘んじる理由を、ストアは生涯理解することはできないだろう。
十歳で彼に出会ってから、もうずいぶんと長い時間彼と暮らしているが、やはり分からないことは多い。
彼の本当を、彼の本心を、彼の真心を、おそらくストアは理解できていないのだろう、と思う。
「まあ、とりあえず、その眼球がこの星のものではない未確認生命体だってことは分かりました。今世紀最大の驚きですよ」
「今世紀始まってまだ数年じゃないか、大げさだな」
キス・ディオールはそんな風に笑いながら、右手でティーカップを持ち、左手でシルクハットのつばをつかむ。
そうして、眼球をぐっと三割ほど、突き出して分析の状態をとって見せた。
「いま、僕を分析したら何が見えますか?」
「言っていいのかい? そうだなあ、キス・ディオールに対する深い親愛の情と、尊敬の念と、羨望のまなざし……」
「言っていて恥ずかしくなってこないんですか?」
「君のほうこそ、聞いていて恥ずかしくならないのが不思議だな」
「本当にそう思います? 分析が足りないですね」
馬鹿にしないでくれ。
こっちはあなたに十年以上、心をすべて見透かされながら子供から大人になったのだ、と言いたかったがしかし、それすらも何か決定的な愛情を示してしまうような気がしてストアは、キス・ディオールに何もいえなかった。
テーブルに香り立つ紅茶カップを少しずつ冷ましながら、バーサイド暦九〇三年の、寒い二月の夜が更ける。
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