006

 出来てしまった。リトとキーラは完成を祝ってくれた。お祝いに食べるか? と差し出された好物の桃をストアは断った。鍋を片付け、誰もいない大部屋でひとりため息をついた。どうして自分の心はこの工房の色と同じく真っ黒なのだろうと、自分のことを少し不思議に思う。

 部屋へ向かう途中、鍋を干しているカリトを見つけた。工房の弟子たちは同じ黒のローブを纏っているので後ろ姿だけでは判別がつきづらいが、その傍らには一人ひとり唯一無二の気脈がかならず寄り添っている。特に、カリトの大岩と苔たちは遠目にも分かりやすい目印だった。

 自分から「おおい」と声を掛ける気分でもなかったし、またストアは普段からそのようなことをしなかった。だが黙って横を通り過ぎることは、関係上ありえない。どう話しかけたものか、と考えているうちに距離が縮まっていく。

 ごろごろとした岩が、いつも通りカリトの足元に転がっていた。

 魔術士の気脈は生きているので、岩であってもそれらは動くはずだった。しかし今、岩たちは寝静まったようにぴくりとも動かない。元々カリトの気脈はそれほど激しく動くほうではなかったが、今日はことさらに静かだった。岩肌は少し湿っていて、岩のうちの一つが、沸騰するように膨れ上がっている。どの岩にも、子どものような苔が群集している。

 這いつくばる苔には、どこか寂寥をあおるものがあった。

 ストアから声を掛ける前に、岩の中心にいるカリトが鍋を洗う手を止めて顔を上げた。ストアは慌てて口を開く。

「カリト」

「ああ」

「ごめん。邪魔をした?」

「いや。曲がってくる前から、光が見えてたよ」

 では、今日のストアの気脈はずいぶんと機嫌が良いらしい。魔術を成功させた後だからだろうか。無邪気に喜ぶだけの自分の無意識が恥ずかしくなる。

「いつもよりも光ってる?」

「うーん……どうかな、そんな気はするけど」

 カリトが苦笑いしながら、鍋磨きに使う編み藁を手放し、干し場の脇にある椅子へ座る。話をするつもりらしいと理解して、ストアはその隣に腰を下ろした。

「鍋、出来たんだってな」

 ひょっとしたらこの話題を避けられるのではないか、と期待していた自分にストアは気が付いた。苦い思いをかみつぶしながら頷く。

「うん。何かが掴めた感じもしなかったんだけど」

「力の練度が上がったのかもしれないな」

 どうかな、と曖昧に否定したいところだったが、失敗した薬を洗い流したばかりのカリトには何を言っても不正解であるような気がした。

「キスさんにアドバイスを貰ったんだ。惜しかったパターンをもう一回やってみろ、って」

「ふうん。ちょっと怪しい人だなって思ってたけど、アドバイスは結構役に立ったんだな」

「怪しい感じがするのは、認める」

 ストアは微笑んだ。話の方向をキスに向けられたのは嬉しかった。

 シルクハットを被り奇怪な出で立ちをして、毎朝師匠と食事を共にし、大部屋を歩いてまわるキス・ディオールの異様さに皆内心驚いてはいたが、冷静と抑制を美学に選ぶ黒の術士としては噂話ではしゃぐわけにもいかない。だが、他の卒業生とはどうも毛色の違う彼を怪しんでいるのがストアやカリトだけではないことは明らかだった。

「でも、キスさんには助けてもらったよ。術も丁寧に見てくれたし」

「だから浮かないのか?」

「え?」

 ストアの気脈は――光は、強く輝いているのではなかったのだろうか。気脈のほうではなくストアの表情から、カリトは何かを感じ取ったのかもしれない。

 カリトの周囲には、依然として堅靭な岩たちが転がっている。気脈は彼に常に寄り添い、カリトの大らかな寛闊さを表現しているかのようだった。

「お前の力だよ」

 一瞬、ストアは何を言われたのか分からなかった。ぼんやりとカリトの顔を見ているうちに、どこか暖かさを感じ始めた。

「兄弟子に指導してもらったり、助言をもらったりするのなんて、みんなやってることだ。お前はその、気脈が凄いからさ、逆に今まであんまり口出ししてくる奴も少なかっただろ。全然気にするようなことじゃない」

 ストアの背後にあるはずの、光が眩しかったのかもしれない。カリトは少し目を細めていた。

「紫に進めて、良かったじゃないか。なんて顔してるんだ?」

 ストアは無言で首を振ったが、そこに込めた意味を自分でも分かっているわけではなかった。



 ――呪文を唱えるとき、自分だけを呪っていることを忘れるな。

 青の本の、序文。

 ストアは今日まで、この文を『魔術の答えは自分だけが知っているもの』だと魔術士の卵へ伝えるための警句だと考えていた。

 呪文のほうに力があるのではなくて、その呪文を口にして耳にする自分のほうに力がある。だから、自分が最も想像力を掻き立てられる呪文を使わなくてはならないし、自分にさえ伝われば他の誰に分かってもらえなくても構わない。

 しかし、術士の持つイメージが見えるキス・ディオールにとって、呪文とは、魔力とは、その術式とは、あくまでも可視化できるもので、算術における数式のようなものに他にならないのではないだろうか。

 その彼にとって、イメージの具現化に苦しむ一人の弟子の混乱の糸を紐解くのは、驚くほど容易いことなのかもしれない。

 翌日の午後、キスはなぜか不機嫌だった。

 いつもと同じく、黒の工房お馴染みの灰色の曇り空の下、紅茶と砂糖菓子を食べながら簡単な魔術を彼にいくつか見せる。分析を終えた後、キスは思い出したように祝辞を述べた。

「ご進級おめでとう。と、言われても君は嬉しくないだろうが」

 ストアはわずかな驚きをその胸に覚えたが、一体何に対してそう感じたのかは分からなかった。ぼんやり思案を続けているうちに、キスは唐突に眼球を取り出し紅茶の中にぼちゃりと漬けた。まったく体に悪いことをしてくれるものだ……。

「はい、紫に進みました。ありがとうございます」

「君なら、すぐ次の本にも行けるだろう。進級のたびにそうして不満げな顔をするつもりかね?」

 ふとストアは、キス・ディオールが一体何に気が付いているのか――ということに気が付いた。彼は、ストアの感じているものが不安ではなく不満であることを見抜いているのだ。

「あの……あなたにも、こういう経験がありますか? つまり、僕のような?」

「いや? 僕は成功しても失敗してもとにかくなんでも嬉しいほうだからね。別に君と同じだから君の気持ちが分かった、というわけじゃないよ」

 まるで、ストアの気持ちを完全に理解しているとでも言いたげな口ぶりだ。しかし――正直なところ、魔術の気脈を持つ者にとって、あたかも心の中を覗き込まれるような経験というのはそう珍しいことではなかった。

 工房に入ってからというもの――ストアを包んでいる光の明滅の加減によって、機嫌や具合を尋ねられることがとても多い。といってもストアの気脈はどちらかというと寡黙なほうで、同年に入学したリトやキーラの気脈と比較すると感情までは読み取りづらいようだ。工房に来たばかりの頃は、自分自身ですら把握できていないその日のコンディションが周囲の弟子たちには丸見えになっていることに、なかなか慣れなかった。

「兄弟子には、いつもより眩く見えているようでした」

「たしかに、黄金の色彩もより強いかもしれないな」

「気脈を見ることで、僕の気持ちが分かったんですか?」

 これも一つの分析の結果ということだろうか、と思ってそう聞けば、キスはぱちんとウインクをしてみせた。

「多分、僕は君を上手く分析できていると思うよ。我ながら自分の《目》には自信がある――でも、見えるものだけ見ていても学びが少ないからね。君に一つ聞きたい」

 なんでしょうか、とストアが聞き返す前に、キスは唇を歪ませ笑った。

「自分には不相応だと思うような高い身分を与えられた人間の持つ選択肢は二つだ。自己評価を改めて傲慢になるか、あるいは己の立場に怯えて不安を抱えるか。しかし君はこのどちらでもない。見るからに謙虚だし、かといって不安はさほど大きくない。このバランス感覚が素晴らしいんだ。でも僅かながらの不満があるね。なにが気に入らないのか、僕に言ってみないかい」

「気に入らないことなんてありません」

 ストアの感情が気脈によって伝わってしまうとしても、どうやらその思考までは紐解けないらしい。正直なところ、自分でもよく理解できていないことを聞かれても答えられるはずがなかった。

「うん、やはり僕の分析は当たっているね。君は謙虚で、安定している」

「……あの、一点だけいいでしょうか」

「勿論いいとも。君は小心者ではないし、打っても響かぬ置物でもない。その安定した情緒に見合う自尊心があり、僕に馬鹿にされたように感じるとちゃんと反論ができる」

 ごちゃごちゃ煩い人だ。でも、キス・ディオールの言う通りだった。ストアは何故か、以前から心の中にあった引っかかりを、彼へ開示しようという気分になっていた。

「僕、これまで、ほんとうは何一つ完成させたことがないんです。課題が全て終わらなくても、もう十分だから先へ進めと、そればかりで」

「爺はもう年なんだから、弟子一人ひとり、全部が全部満点を取るまでは待ってられないさ。大体もう出来るだろうなというところで、次に進めと言うのは時短のためだ。君の場合は特に丁寧に面倒を見られていただろうから、完成まで至ることがあまりなかったのかもしれないね。でも、別に何一つ魔法が使えないってわけじゃないだろ?」

「そりゃあ、昔習って、いいところまで行った魔法を今試してみたら出来た、ということもあります。色変えの魔法や飛翔術もその一つです」

「どうせ後で出来るなら、次に進んでも構わないじゃないか。それだけ期待が大きいということだ」

 周囲に期待されていることは、十分すぎるぐらい分かっている。

 しかし他者から受け取った『期待』を、そのまま何かに変換することが、ストアにはどうしても出来なかった。たとえば自分の自信や熱意に変えることができたならどれほどよかったろう。

 受け取ったまま、横に置いておくか、抱え続けているしかない――そういうイメージが常にある。かといって、突然誰からも期待の言葉や視線を向けられなくなることがあったとしたら、それはそれでやはり冷静ではいられないだろうという気もした。

「出来たかどうか、が君にとってそんなに大事かな? 最終的には、君は出来る。それを、君の師匠も兄弟子たちも外の術士も皆一様に信じている。信じられないのは君だけだ――これが嘘か虚飾だと思うかい?」

「思いません。それに、貰う『期待』が足りないから信じられない、というわけではないんです」

「だろうね。君はそこまで分かっているんだ。でも、『完成』に酷く執着する」

「完成に憧れるのが、そんなにおかしなことでしょうか?」

 だんだん、ストアは苛立ちを感じ始めていた。

 師匠やカリトに対して、ここまで強く反論したことはなかった。キス・ディオールはもちろんストアの敵ではなく、虐めてくるわけでも脅してくるわけでもない。でも、ストアを多少苛立たせてでも話を進めようとするところがあって、その強引さ、無遠慮さが気に入らないのだと――そう理解した上で、上手く理性でコントロールすることができなかった。

「たとえば――卒業試験だけは、『完成』が必要でしょう?」

「ほう?」

「卒業試験だけは、確実な完成を求められるはずです。もうすぐ出来るだろうから仮で卒業させてしまえ、というような判断は起こらないはずです」

「あー、試験、試験ね。そんなものもあったね」

 キス・ディオールは煩い蠅を払いのけでもするかのように顔を顰めて右手を振った。

「で、君は卒業したいのかな」

「全ての工房の弟子たちは、卒業を目標に毎日魔術の鍛錬を続けています」

「そんなことを聞かれているわけじゃないって、分かっているくせに」

 ストアは口を噤んだ。さすがに言い過ぎた――と理解していた。

 一瞬遅れて後悔が胸を襲い、悪いことをしたと思ったが、キスは気を悪くした様子もない。

「そもそも、君は昨日ひとつ課題を『完成』させたところじゃないか。あれは勘違いか何かかい? ――いや、言わなくていい。あれは君にとって『完成』ではない、ということだね。まぁ、言いたいことは分からなくもないよ」

 たしかに、そうだ。昨日ストアは、たしかに兄弟子たちに先んじて薬を一つ完成させた。それによって、紫の本へ進んだ。その成功体験を何故棚にあげていられるのか、と聞かれると、上手く返すことができない。

「では、『完成』のために、一つ君に重要なアドバイスをしてあげようか」

 ストアは返事をしなかった。これ以上冷たくする気もなかったが、今日中にキス・ディオールに使えるだけの親切さは、既に使い切ったような気がしていたのだ。

「君は完成させようとするといつも、魔術の導線が硬くなる。それで気脈が痩せてしまうんだ。集中しているつもりなのだろうが、緊張している」

 言いながらキス・ディオールは、手品師のようにくるりと両手を回す。

 その手の中には、以前ストアが術をかけた紙の鳥が座っていた。

「――君がお遊びで作ったと称するこの小さなおもちゃのほうが、君が何時間も心血を注いだあの下らぬつまらぬ鍋薬なんかよりも、何十倍も素晴らしい」

「……それをどこで?」

 鳥を作ってから、何日経っているだろう。もうとっくに、どこかで魔力が途絶えて動かなくなっているものだとばかり思っていた。空へ飛ばしたはずなのに、どうして彼がこの鳥を?

「呼べば戻ってきた。言葉をかければまっすぐその通りに解釈する――黒の術士のいいところで、そしてわるいところだ」

 キスのつぶやきに、ストアは明確な反応を示すことを躊躇った。

 黒の術士が、頭でっかちなのに素直すぎ、偏屈なのに病弱だと、世間から思われていることは知っていたが、同じ工房出身の彼に言われるのはどうにも違和感が先に来る。

「だから君は、僕に鍋について否定されたとき、あんなにもすぐに適応できたのさ。つまり、君は自分についてまわる成功というやつを信じてない」

「……僕は、課題を完成させたことがありませんでした」

「完成させたことがない? 何度でも言うが、そんなの大したことじゃない」

「どうしてですか?」

「君の光を見れば分かる」

 ストアは目を伏せた。誰もがストアの持つ気脈を信じているらしかった。一目見ればすぐに分かると噂のその光を、いつかこの瞳に映してみたいものだ。

「君は勘違いしているようだけど、『努力』というのは才能である――つまり、誰にでも出来ることじゃないんだ。勇敢なる賢逸なる優秀な貴殿は、『魔術』の才能は明らかにピカイチだ。それは誰もが保障するだろう」

 ストアは再び返事をする気を失った。キス・ディオールが、そもそも一切の返事を求めてはいないということに気が付いていた。

「でも、『魔術士』になりたいなら――魔術を仕事にしたいと思うなら、それだけじゃあだめなのさ。君は無論、勿論、掛け値なしに、真面目でコツコツ頑張る、素直で堅実で愚直で、ついでに素直な素晴らしい少年だが、でもそれでも、それはただの君の『性質』でしかありえない。それは、君の、才能ではないんだ」

 才能ではない。性質でしかない。

 ――もしかして、とストアは一つの結論に至る。今キスに言われたことを、歪まず正確に理解しなければならない。

「つまり、僕に足りないのは、『才能』だってことですか?」

「――そう、素直で堅実で愚直で、ついでに素直な君らしいことだ。理解が早い」

 なるほど。

 君に才能はない、と言われたのは、たぶん初めてだった。

「ああ、ああ、ああ――勘違いしないでくれたまえ! 僕が言いたいのは――君はいま、『才能』を獲得しようとしているんだ。それは、もともと『努力』が得意な人間がゼロから『魔術』という才能を手にしようとするのと全く同じくらい、辛く遠く悲しい道のりかもしれないが、それでも――別に私は、不可能だと言いたいんじゃないのだよ」

「なるほど……」

「分かってないようだね」

 たしかに、キスの言うことの全ては分からない。そもそも彼の言葉の一つ一つに、重みがきちんとあるのかどうかも怪しい。でも、ストアは彼の言うことを何故か受け入れ始めていた。

 僕にないのは才能だ。その言葉が、どうしてかしっくりくる。

 そして、ストアはこうも思った。もし僕に才能がないのだとしたら、やはり何かを成し遂げることはできないだろう。つまり、卒業試験をクリアできるかどうかが、ストアの気脈が見た目通りの本物であるかどうかの判定基準になりえるだろう、と。

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