005
鍋底を叩き続けていた。キスから、アドバイス――火を安定させながら混ぜる、という新しい条件を与えられたので、リストをいちばん最初からやり直しているところだ。ここ数か月の苦労を思うと、ふりだしに戻るようで正直心が痛ましい。しかし、分析してもらった結果を反映できる分、おそらく前回よりも成功に近づくはずだ。
「励んでいるな」
声をかけられて、顔をあげる。師匠だった。気脈はしまっているらしく、いつも漂わせている黒煙はほとんど見えないが、そんなものがなくても、彼の前に立つとどこか萎縮するような思いがする。
「……はい、キスさんに中身を見てもらいました」
「ああ、さっきすれ違った。仲良くやっているか? いや、別段わざわざ仲良くなる必要はないが」
「一度術式を見ていただきました。色変えの魔法を。それで、あとは……今日は鍋の中身を……アドバイスを下さいました」
鍋の中身をもう一度見る。先ほどまで丁寧に力をかけていた大切な薬のはずなのに、いまはなんだかくだらなく見えた。
これまでの課題についても、失敗しても、成功しても、ストアの心はそもそもあまり動かなかった。
自分には魔力があるのだということを信じられていない現状では、失敗するのは当然のことのように感じられた。成功したとしても安堵の想いが多少感じられる程度で、感動するというほどのものでもない。ただ、魔術については、人生を賭ける価値があると信じている。
「君にとって少しでも有益な関係になるよう願っている」
「はい、ありがとうございます」
師匠は鍋を覗きこみ、膨れ上がっては消える泡を見つめた。採点するというよりも鑑賞するような目だった。
「素晴らしい気脈だ」
師匠は常にストアの術をそう褒めてくれたが、褒められるたびにストアの心の中にはひとつずつ鉛のような諦念が溜まっていくのを感じていた。結果がまったく出ていないのに、自分には影すら見えない魔力のことを褒められても、気味が悪いだけだ。信じられない。
ストアはただ、教科書の書き順に沿うように、決められた様式を進行させているに過ぎない。彼自身の意思で、工夫で、アイデアで、行っていることなど一つもないのだから、従って彼だからこそ出来ていることなど、仕上がりがよくなっていることなど、厳密にはないはずなのだ。――それこそ、魔法、才能、という不可思議な言葉の範疇を除いては。
「本の通りにやっているんですけど、出来なくて」
ストアは赤い基礎本に目線を落とす。初級の青い本はすぐに終わったのに、その次のレベルにあたるこの赤本はなかなか難しい。この後、紫、白、黒、桃と、本は続いていく。赤色なんかで立ち止まっている場合ではないのだ。
「赤は簡単な本ではない」
「赤は難しいのですか? つまり、複雑なのでしょうか」
「基礎が最も難しい。お前がもうクリアした青の書、あれは、実のところ基礎ではないのだ。分かりやすく、やりやすい、簡単なものだけを抽出している」
「それが基礎ではないのですか?」
「あぁ、違う。キスに解説してもらいなさい――というのも嫌か」
こんなにも面白そうに笑う師匠を、ストアは初めて見たかもしれなかった。含み笑いで、彼は声を立てる。
ストアはぎゅっとかき混ぜ棒を握った。
「僕の師匠はあなただと思っています」
「勿論そうだ。だが君も、カリトに教えを請うことぐらいあるだろう……あぁ、ないかな」
カリトは、ストアの直の兄弟子にあたる。年は近いが、入門の年次は少し開いていた。今は隣の部屋で同じ課題をしているはずだ。
「あります。よく、教えていただきます。工房の暮らしのこととか」
「お前は優しい。魔術では既に抜いただろう」
どんな顔をしたらいいのか分からず、ストアは目を伏せた。彼の質問はいつも心に痛い。
「カリトも優しいです」
言ったあとで、言わなければ良かった、と思った。優しくなくてもすごい魔術士はいるし、優しくても聖火ひとつ点せないストアの父親のような人もいる。能力と人格は切り離されている。
「言わなければ良かった、というような顔だな。君は正直だ」
師匠は何かをごまかすように咳払いした。とたんに、居心地がぐっと悪くなる。
「でも――分からないんです。僕はカリトと同じで、まだ赤の書です。でもカリトのほうが、ずっと長くこの問題に直面しているから……」
「あぁ、そうだな。でも君のほうが、早く紫に移るだろう」
何故、師匠がそうも力強くそう言うのか分からない。客観的に見ればストアは術書の進みも格下だし、隣で術式を行うさまを見ていても特に明確な違いは感じられない。
「どうしたんだ、君らしくない」
師の声が響く。魔法を知るものにとって、気脈に愛されたものにとって、発声はそれだけで魔法だ。
ストアは頭を振った。最近どうも、いろんなことが上手くいかない。
「特に、この薬は非常に重要なものだ。卒業試験にも関連する」
「試験にも?」
工房によって、魔術士を《卒業》させる基準は異なっている。この工房においては、不定期に出題の変わる卒業試験に合格することが、その条件になる。
「君はきっと、誰よりも早く卒業試験をパスするだろう。キス・ディオールが到達しなかったところだ。受かった後は、彼にじっくりと自慢してやるが良い」
その言葉は、まるで呪いのようだった。卒業試験をパスするまで、こんな不安な思いをずっと持ち続けていかなければならない。手放す手段はただひとつ――卒業試験をパスし、工房を出て行くこと。
「彼は……おそらく、パスできなかったのではなく、しなかったのではないでしょうか?」
「やつの魔術を見たのかね?」
いいえ、とストアは首を振った。魔術、と呼べるほど、術式のそろったものはまだ見ていない。それらしいものといえば、分析されるときにギョロリと回る不思議な眼球ぐらいだ。
「……でも、すごいな、と分かります。錬度は明らかに足りないんですけれど……」
「だが、それを上回る才能を持っている――」
君の言う通りだ、と師は頷いてから、ゆったりとした長裾のローブを引きずり、弟子たちの間をすり抜けていった。そうしてストア以外の誰にも声をかけないまま、部屋をあとにした。
午後には再びキスが現れた。入れ替わり立ち替わり、なんだか師匠が二人に増えたような気分だ。
「そうは、ならないな」
ストアは流れる汗を拭いながら、キスの横顔を仰いだ。
「ならない、とは?」
「ああ、君のこのリストを見ていたんだよ。火を安定させたうえで――僕の言うことを聞いてくれてどうもありがとう――二番目の手順を変えて、すこしユミラの量を増やしたね。いい判断だ。でも、×印が付けられている。つまり失敗したということになるわけだが、実は君がここで失敗するはずはないんだ。多分、一つ前のケースの内容を引きずったんだな。やり直せばうまくいくはずだ」
「えっと、毎回、鍋の中身は全て捨てて、洗っているのですが」
「残滓が残っていたんだろう。中身を捨てるだけではなくて、新たに陣を組んでみなさい。今回のことは全て忘れて、ゼロからやり直してみるのです――」
キスは笑顔を形作る。まるで、笑わなければならないから無理やり笑っているような感触を受ける。
無心で鍋底を叩いていたストアに、キスは言った。「そうはならない」と。
「あの、どうしても反論したいというわけではないのですが」
「言ってみなさい」
「そのケースについては、ぼくもそれなりに自信があったものでした。でも、ユミラの量を増やすと緑色がより濃く出てしまうんです。他の条件を変えてもそうでした。ユミラの量と比例しているんです。だからたぶん――」
「丁寧な君の言葉に口を挟むのを許してくれたまえ。君の時間を節約したいものでね。詠唱によって現在の文様を飛ばし、リセットして、再度構築してみたら、違う結果になるさ。今回の件は、条件や制約が、版が古いところでも継続してそうであった、というだけだ。おそらく同じ条件で、一から構築すれば、結果は大きく転換される」
「確認させてください。それは、ユミラの量を増やしても問題ない、ということですか?」
「そう聞こえなかったなら、僕の伝え方が悪かったんだろうね」
ほんとうだろうか?
「ほんとうか、という顔をしているな。まあいいさ。明日にでも試せばいい。節約したいとさっきは言ったが――君には時間が、それこそ無限にあるのだからね」
キスはウインク一つを残して出ていった。時間にして五分も滞在していなかっただろう。
最初からやれば成功する。ほんとうだろうか?
不思議に思いながらも、言われたとおりにやってみよう、という気になった。鍋の中身を捨てて、もう一度、最初の構築から始めるとなると、一日仕事だ。けれど、試してみるのが自然なように思えた。泥をかき集め、もう一度素材を揃えて、一度書いた文様を消してもう一度描く――そんな地道な作業を進めていく。初回よりも効率的にできたとは思うけれど、まったく同じことをもう一度同じ手順で撫でてやるというのは、精神的に少し響くものがあった。
途中までは、いつもと同じだった。鍋の中身の色が少しずつ濃くなる。煙が立ち上がってきて、汗が落ちる。そうして鍋底を叩く手が重たくなってくる頃に、異臭が漂い始めて台無しになるのが常だったが――
かき混ぜ棒は依然として重たかった。しかし、鍋の中身はいつまでたっても黒煙を噴出さず、ある程度の透明度を保ったままだ。どうせすぐに煙を吐くはずだ。ぽすんと、あの気の抜けたような音が鳴って、すべてを捨てなくてはならなくなる。そのはずだ。
ストアは少しずつ焦り始めていた。今までのケースのなかでも、未踏の手順にまで来てしまった。砂時計をひっくり返す。もう一回、この砂が落ち切るまで混ぜ続ければ、終わってしまう。終わるということは、完成するということ。
砂時計は少しも待ってはくれなかった。最後の一粒が落ち、ストアは鍋の中身をすくう。かき混ぜ棒を離し、スプーンを手に取ったとき、周囲の兄弟子がそれに気づいて手を止めた。息を吐く。誰か一人が外へ駆け出していくのが見えた。
冷や汗は出ていたが、頭のほうは冷静だった。いつか成功する日が来たら、もっともっと興奮するだろうと思っていた。一杯の薬は、赤の書に書かれた通りの色をしていた。ストアの想像通りの色だ。
鍋の下で燃え続けていた火を、一本の蝋燭に分ける。そして灯った小さな炎を薬へ近づけた。
薬から立ち上がる青い煙と、蝋燭の炎とがぶつかって――青い煙、そして薬のほうが消えた。炎によって祓われる水薬。ここ何カ月、夢にまで見るほどに、何度も何度もイメージを重ねてきた、その夢が、現実になっている。
歓声を上げたのは周囲の方が先だった。部屋の中の誰もが手を止めていた。
「完成している!」
兄弟子の声が遠くから、しかし耳元で叫ばれたようにしっかりと、聞こえた。
信じられない気持ちだった。あれほど自分を――そして皆を苦しめ続けている――鍋薬が、完成している。
遠くから焼き音が聞こえた。誰かが呼んだのだろう、師匠の足音がする。ドアの方を見れなかった。
「ふむ」
と、静寂に割り込むように声が響く。誰の声なのか、振り向くまでもない。
「ストア」
ストアの脳裏に、先週読んだ『時空パトローラーの戦歴Ⅱ』の中に出てきた大量の軍人たちの姿が浮かぶ。さまざまな時空のパトロールを行う主人公・キリは、音楽が攻撃になり得る時空で、戦争に巻き込まれるのだ。兵士たちは剣の代わりに楽器を持ち、タクトを振る指揮官によって統制されている。
「紫の本へ進みなさい」
号令はかけられた。
周囲が肩を叩き喜んでくれるなか、ストアは扉の入り口にキス・ディオールが立っているのを認めた。彼も笑ってはいなかったが、大きな手で拍手を続けていた。
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