004

 失敗の数を数えている。

 暗闇のなかでひとり。そういったイメージが常にある。

 どこか遠くで水音だけが定期的なリズムをもって響く、光のない空間にストアは座っている。太ももにあたる冷えた鉄の床はどうしたって寂しい。胃のなかで酸味の強いなにかが踊っている。居心地が悪くて、とにかくここではないどこかへ行きたい。

 どこかへ行きたい。帰りたいのかもしれない。

 けれど、故郷の村に戻りたいか、と言われたら、それも違っていた。たった二年でこの魔法の道を放り出すつもりはない。挫折の用意はどこにもない。師匠の冷たい瞳を見たくはなくて、それでも、帰ると一言だけ言えば、いっそ初めて失望してくださるのかもしれない、とも思う。カリトは驚いて止めてくれるだろう。リトとキーラも。それに、いまも村で畑を耕している母と父の、落胆しながらもきっと微笑んでくれるであろう愛情とやさしさ、生ぬるい抱擁が、いっそのこと恐ろしかった。

 キスはどう言うだろう。分析対象がいなくなったと、工房を去るのか、それとも違う子を分析し始めるのか。

 とはいえ、まだ分析は始まって間もない。今ならあまり負担なく止めてもらうことができるな――なんて考えたあと、頭を一振りした。帰るはずがない。自分が、帰れるはずがないのだ。魔法の道に魅せられ、魔力の気脈のほうにも愛されて、この道を突き進んだ。二年前の選択を後悔する日などきっと来ない。ただ才能を持っているという、それだけで入房できて、かつ十年弱の時間をかければ魔術士になれる。

 そしてそれは、十年失敗し続けなければならない、とも言い換えられる。

 魔術士にとって、失敗は友だ。常に寄り添う影と表現してもいい。

 工房に来てからというもの、ストアは、ほとんど失敗しかしてこなかった。

 青の本を与えられてから一年半、書いてある術式や呪文を、ひたすらその通りに試した。しかし成功どころか全く何も起こらないことのほうが多かったし、本当に自分に魔法の気脈があるのだろうかと深刻な心配を抱いたことも一度や二度ではない。しかもその不安は、銀食器にべっとりと付着した指紋のように、二年の月日をかけてもなかなか払拭されなかった。

 恵まれている。

 ストアの腕、髪、一挙一動を見て、数々の魔術士がそう言った。師匠も例外ではない。

 初めて出会ったとき、師匠はどす黒い霧を纏わせていた。まるで世界を全て飲み込んでみせようとするその青黒さに驚いて、ストアは父の背に隠れた。行け、と首を押されて前に立たせられても、どうしても甘えたくて両親のほうを振り返ってしまう。前を向け、と再三窘められて、ようやくストアは生涯の師と対面した。

「はじめまして」

 挨拶をしなければならない、と分かっていた。自分の名前を言って、季節の挨拶をして、相手の名前も聞かなければならない。分かっているのに、彼が纏わせる闇霧が恐ろしかった。畏怖、という感情を、この時初めてストアは知った。

 ひそひそと、虫のざわめきのような声が、うしろからざらつきのある風になってストアの鼓膜に届く。

 ――あれこそが、世界有数の魔術士。

 ストアの目前に立っているのは、大陸中にその名を轟かせる高名な術士だった。たくさんの勲章を得ている立派な方だ、と母に教えられたのは昨夜のこと。

 しかし、そういった情報を一つも与えられていなかったとしても、きっと彼に恐怖と畏敬の感情を覚えただろう。それだけに圧倒的な存在感が、彼にはある。

 ――これが、魔法。魔術士という存在。

 師は挨拶を返さず、代わりにストアの周囲をそれとなく見回し、納得したように頷いた。当時は何をされているのか分からなかったが、恐らくストア自身の気脈を見ていたのだろう。師によると――そして、兄弟子たちや、カリトや、キス・ディオールらによると――ストアの気脈は特徴的だ。淡く、しかし強く発光する、金色こんじきの光。

「名乗りをもらえるか」

 師匠はストアを見下ろし、そう言った。長身の彼の瞳がただただ恐ろしくて、ストアはすぐに口を開く。

「はい。ストアです」

「……ストア」

 師匠が名前を呼んだ瞬間、彼の周囲にある霧がぐんにゃりと蛇のように動いた。

 まるで霧自身が生きているかのように。

「私の工房に来るといい」

「あなたの?」

「そう。私の名前を教えよう。しかし、決して、生涯、呼んではならない。守れるか?」

「……はい、守れます。他にはどんな規律があるのでしょう?」

 その質問に答えず、彼は静かにその高背に届く杖を振り、霧で名前を書いてみせた。

「読めるか?」

 幸運にして、ストアはバーサイドの子供としては珍しく、字が読めた。父が少し文学を嗜んでいたために。

「……はい、読めます」

 両親が後ろで、困ったように声を上げるのが聞こえた。……たぶん、見えなかったのだ。気脈は、魔術の才能がある者同士でしか、見ることはできない。だから師が彼の霧を用いて文字を書けば、それはストアにしか読むことは出来ない。

「生涯呼ぶな。しかし、他にはどんな規律も無い」

「……魔術を行うにあたって、守らなければならないこととか、ないのでしょうか?」

「術に、正しいやり方など無い。君が責任を持つのは、魔法を行使できるかどうか、それだけだ。私の工房では起床時間も就寝時間も設けないし、何万回失敗したって問題ない。規律は制限を生み、制限は術式の成功を阻む。広い世界のなから選択することが重要だ。どんなに間違っても成功するかもしれないし、どんなに正しくても失敗するかもしれない。そういう世界に君は行くのだ。いや――そんな顔をするな。君は酷く恵まれている」

 師はようやく、そういえば身長差があるのだった、と気付いたように膝を折った。顔がぐんと近づいて、彼の周囲を纏う冷気の風が近づく。思わず拳を握った。

「君はかならず、偉大な魔法使いになれる」

 いつのまにか触れていた、師のその指の感触が、ストアの意識を大きく現実に引き戻した。頬を覆う、少し皺のある手のひらの体温。酷く冷たい霧に包まれているのに、彼の肉には血が通っている。どこか非現実的に感じていた現状について、これは夢ではない、と確信を持てたのだ。ひょっとすると師は、何か魔法を使ったのかもしれない。

 そうして――ストアは、生涯の師と出会った。導かれるままに彼の工房に入り、もう二年が経つ。



 師匠が柔らかな態度を見せることはほとんどないと、工房に来てから知った。

 師は人を褒めない。どれほど優秀な兄弟子たちにも、賛辞の言葉を送ることはない。ただ、次へ進め、と号令をかけるだけだ。まるで指揮者のようだと思う。腕を振るわれるとおりに動く、楽器のような気分。

 しかし楽器になれるならば良い方で、そもそも道具であることすら諦められてしまうこともある。そうなったとしてもたいていは工房をきちんと卒業するが、稀に転房するものもいるし、村へ帰ってしまうものもいる。

 厳しい世界ではある、と思う。

 しかし師は理不尽なことは決して言わないし、工房の仲間たちも皆気安い。親元を離れて過ごすストアの、兄代わりになってくれた。一つもまともに術式を完成させたことはないが、誰もがストアの才能を褒め称える。何度も思う――二年かけて、何一つ完成させたことはないというのに――。

 鍋を叩く。

 この薬だってそうだ。術式に書かれている通り、何百回と鍋底を叩いてきた。鈍い金属音を響かせ、叩き方を幾度とも変えては、失敗してきた。終了の鐘がなったら中身を排水に流して、大きなたわしで隅々まで洗う。今日の痕跡を明日に残してしまうと、公平な条件でなくなってしまう。毎日リセットすることで、より正しい術式に繋がるのだ。

 しかし、毎日毎日同じことを繰り返していれば、さすがに嫌にもなる。

 鍋を叩く最中、何を考えればいいのかは、人によって違うという。計算をしているのが一番だという者もいれば、物語を頭のなかで再生するのがよいという人もいる。術式の書かれた本を延々と黙読しているべきだと語る者がいれば、ただ無心になった叩くのが良いのだという人もいた。

 今のところ、言われたことは全て試してみた。しかし特に鍋の様子が変わらないので、現在ストアは『とくに何も意識せず、ぼーっと考え事をする』のを試してみているところだ。もちろん、これが正しいのかそれとも誤っているのかは、誰にも分からないことなのだから、誰に止められるはずもない。正解は自分だけで見つける必要があるのだ――いや、たった一人だけ、口を出せるものがいるとすれば。

「あぁ、鍋薬だね!」

 唐突に、影が覆いかぶさってきた。すらりと伸びる影の持ち主はキス・ディオールで、彼は微笑みながら無遠慮に鍋に手を入れる。――危ない!

「あの!」

 急いで止めようとしたが、キスは反対の手でそれを制した。そして、手首までしっかりと熱湯の中に沈める。

 ――熱くないんだろうか?

 さっき火の勢いを落としたところとはいえ、いまだ鍋の中身はぐつぐつと泡を浮かべている。鍋底から浮上した泡が、湯気を纏ったキスの指にはりつく。ぶわり。

「炎は自前かな? つまり、君が魔法で出している?」

「……。はい」

「うん、綺麗に燃えている。しかし、なんでもかんでも自分でやろうとすると疲弊してしまうよ。火はマッチを使うといい――古きよき方法だ。温度も安定する」

「……火が、うまくたっていないのですか」

「ああ、誤解するな。君の魔力が駄目だとは言わない。君が本気を出せばIHクッキングヒーターと同じぐらい均質的な熱を生み出すこともできるだろう――しかし、君は炎に対してそういったイメージを持っていないみたいだな。それがよくない」

「あい……えっと……つまり、熱が均等に伝わっていないのが問題だと?」

 途中、彼が何を言っているのか分からなかったが、聞こえた断片的な単語を繋ぎあわせ、なんとかそう聞き返す。

「ああ、その通りだ。やりかたの問題だな」

 そう言って、キスはさっと手を湯から引き上げる。そのまま高級そうなブラウスで手を拭こうとするのであわてて布を探したが、手ごろなものが見つからなかった。彼の指をもう一度確認すると、少しも火照っていない。

「……ほんとうに、熱くはないですか?」

「君は『魔法』というものを知らないのか?」

 キスはそう言って笑って、ぱちんと指を鳴らした。突然、上空からすとんと一つ、マッチ箱が落ちる。赤い地色に銀の判押しが美しい装丁だった。

「それを使いなさい。意匠の国のもので、出来がいいと評判だ」

「ありがとうございます」

 そう礼を言って頭を下げ、二秒待ってから顔を上げると、キスはもういなかった。口笛のようなものを吹きながら、たくさんいる弟子たちの間をすり抜けて、ちょうどホールを出て行く。集中を乱されたらしい兄弟子が一人、鍋を小さく爆発させていた。

 鍋に向かう。

 火を安定させなくてはだめだ、と言われたばかりではあったが、目前の鍋もあきらめる気にはなれなかった。ストアは、考えうるかぎり全ての方法を、順番に塗りつぶすように試していくスタイルをとっている。魔術のことを、芸術だと呼ぶ人もいれば演奏だと呼ぶ人もいるけれど、ストアは数学だと思っていた。決められた方程式のxに、順番に値を代入していく。正解するまで、何度も。何度でも。

 だから、どんなやり方があるか条件を洗い出し、列挙したら、それを消化するように一つ一つ丁寧に試す。中途半端に術式を残してしまったら、どうにも気持ちが悪い。

 正解が見えない世界のなか、ストアにとっては”総当り”することが、もっとも確実で適切なアプローチだった。もちろんこれは人によって違う。カリトは、何度も何度も反復するやり方を試している。そちらのほうが効率が良いのかもしれないし、悪いのかもしれない。

 そうぼんやりと考えながら、鍋を叩く。最初は薬の特性について呟きながら鍋を叩くやり方がもっともいいはずだと仮説を立てていたが、なかなか結果が出なかった。仮説なんて立てても当たらないことが当たり前だが、それでもそうせずにはいられない。

 ――なにかしらの理論に則ってやっていると、思い込みたいのだ。

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