002
名前を呼ぶことは、それそのものが一つの魔法だ。
名を知っている、ということは、相手を支配することに繋がる。
だからストアは、師匠に呼ばれたら無視できない。彼に名前を呼ばれたら誰だってそうだろう。
――キス・ディオール。
忘れないように脳裏にその名を刻み込みながら、ストアは深くため息をついた。
結局、混ぜていた鍋の中身は焦げ付いてしまった。術の様式にそれほど自信があったわけではないが、失敗の要因はきっとあの時間停止のせいだ、とストアは信じていた。あの後鍋の前に戻ってから突然、全く上手くいかなくなったのだ。
時間というのは物質の動きだと、ストアは思っている。極端にいえば粒子が一つもない無の空間には、「時間」なんてものは存在しないんじゃないだろうか? あったとしても、観測不能なのではないだろうか。
となると『時を止める』とはどういうことなのだろう。物質の『動きを止める』ということなのか、物質の実体を一度『なくしてしまう』ということなのか。
そんな思考をめぐらせていると、唐突に、背後から美しい声が響く。
「やあやあ、おはよう。良い朝だね。ご機嫌よう」
……。
「おはようございます、キスさん」
挨拶を返すときは、出来るだけ名前も一緒に呼ぶこと。
「賢明で健全で善良たる君の、昨晩の睡眠の結果はどうだったかな? 少しでも休めたなら、少しでも昨日の疲れを取れたなら、少しでも人生の足しになるような夢を見ることができたなら、これ以上の喜びはないのだが」
「はい、よく休めました。ご心配ありがとうございます」
「子供にとって睡眠は非常に重要だ。さて、朝餉を取りたいな」
キスはどこから取り出してきたのか、右手に細いステッキを持っていた。それをくるりと回しながら、ドアのほうへ向かい、ストアの部屋を出て行く。
数秒前からずっと疑問に思っていることを、彼に聞く。
「あの、ここ僕の部屋なんですけど、どこから入ってきたんですか?」
「――魔術さ。君のお得意だろう?」
自室。究極的にパーソナルなはずのその場所に、見知らぬ男が朝っぱらから侵入していたことに若干の恐怖を感じつつ、ストアはキスの後ろに続いた。
「君はこれからブレイクファーストティーとジャム付きのスコーン、そして暖かい茸のポタージュスープを楽しんだ後、何をする予定なんだい?」
「朝食のあとは、すぐに昨日の修行の続きです。あと、工房では冷えたシチューと固いパンしか出ません」
「なるほど……それは、大変に、大幅に、期待外れだな。後で爺に文句を言ってやろう」
爺。まさか、師匠のことを言っているのだろうか?
「キスさんは、師匠とはどこで知り合ったのですか?」
「そうだね――僕は彼の魔術を知りたかったし、彼のほうも僕を知りたかった――という、関係かな」
「師匠の魔術も、研究したことがありますか?」
「『研究』。ふむ。難しい言葉だ――その問いに対しては、答えられないな。でも、『集計』と『分析』は、残念ながら本格的にしたことはない」
「なるほど」
本格的に、という言葉尻が気になりながらも、ストアは深く頷く。
彼の分析能力について、当然だがまだ把握できていない。
筋肉の量や体格を確認すれば、筋力や体力は分かる。また、人体に沿って透けて見える、薄い魔膜を見つめれば、キスに魔法の才能があることは分かる。だがしかし『分析』の力とは、どうやって推し量ればよいのだろう? ――彼こそ、ストアの体を見て、分析する価値があることをどうやって知るというのか。
「分析というのは、具体的に何をするんですか? ――とでも聞きたげな顔だね」
キスはこちらを見ないまま、にやりと笑って見せた。得意げな大人の顔だ。
「はい、ちょうどそのことを、考えていました」
「そうだね。具体的には――まあ、まず君の役に立ちたい。私は毎日、午前中はゆっくりティータイムをとるのだよ。朝は頭を動かしちゃいけないんだ。なので、今日の午後に一度、君の術式について見せてもらえるかな」
「はい、分かりました。分析にあたって、見る術はこういったものがいい、とかありますか?」
基礎的なものを見せるのがよいのか、今出来るもののなかで難易度が一番高いものをやればよいのか。
「そんなに何でも出来るのかい?」
キスはぐるりと頭をまわして振り返って、笑った。化粧の乗った頬が小さくひび割れる。
「まあ、意地悪するのはやめようか、これから長い付き合いとなることだしね。一番君が自信のあるものを見せなさい」
それは、必ず出来るものをしてみろということか、それとも一番難易度が高いものをやれということか、確認しようとして、やめた。
彼はおそらく僕を試している。この出題こそが、そもそも何かしらの試練のようにさえ思えた。
朝ごはんはストアの予言どおり冷えたシチューと固いパンが出た。最近シチューの具がより一層、少ない。
「仕方ないさ、物理士との戦争が始まったんだ」
「物理士? 物理屋、だって聞いたぜ」
士、と付けるのは、ある程度格式の高い職業であると認識している印だ。弁護士、司法書士、税理士、弁理士、行政書士、海事代理士、そして、魔術士。仕事内容は全く異なるこれらの職業は、士業とまとめられることもある。
そういえば、彼の職業にも「士」が付いているな、と思う。分析士。
凝固しかけたシチューから目を離し、上座にあたる法院の奥を見れば、師匠とキスが向かい合わせに座って朝食を取っていた。ぐんと遠くにいるからよく見えないが、出されているメニューはどうやら同じもののようだ。キスはうんざりとした表情でスプーンを口に運んでいる。
「士、と呼ぶか、呼ばないかというのは、そんなに重要なことなのかな?」
ストアはふと、思ったことを口にしてみた。彼の両親は農家だった。士、と呼ばれることも、先生、と呼ばれることも、旦那様と呼ばれることも、生涯きっと無い。
「お前は呼ばれたいと思わないのか? 魔術士、ストア大先生! ……って」
「師匠、って呼ばれるのもいいものだよな」
けらけらと、弟子仲間たちが笑い出す。
――呼ばれたいものかな?
それよりは単純に、目の前のシチューの具がもう少し増えてくれることを望みたかった。別に今だって飢えているわけではないし、農家にいた頃のあの豊富に野菜を食べられる環境のほうが珍しいのだ、と分かってはいても、緑のブロッコリーが恋しい。都会の近くにあるこの工房で出てくる野菜は、いつも少ししなびて光がない。
「お前食べ終わるの早いな」
と、兄弟子のカリトが、空になったストアの皿をさらう。一緒に持って行ってくれるつもりなのだろう、と察して、ストアは手を伸ばした。
「やります」
「いいよ。それより、裾汚れてるから洗ってこい」
エプロンのように垂れる前裾を持ち上げて覗くと、確かにクリーム色の染みが見えた。
丸い木椅子から立ち上がり、裾を持ったまま洗面所へと急ぐ。工房の中には百人以上の弟子がいるから、共有の施設は早めに行かないと使えないことも多いのだ。
食堂と化している大広間を出る前に、ステンドグラス脇に佇むキスを確認すると、彼は何か憂いたような表情で空を見上げていた。工房から見上げる空は、諸事情によりインク壺をひっくり返したように青黒い。朝も夜もあまり変わらない色をしているから、面白みもないのだが、あれが好きなのだろうか。変わった人だ。
じっと彼を見つめていると、師匠のほうから声掛けがあった。
「ストア」
「はい、お師匠様」
師匠ほどの魔術士に名前を呼ばれたら、かならず返事を返さなければならない。返事をする、返礼を欠かさない、これは見えない借りを作らないための魔術士の重要な心構えの一つ。
「午後にキスと、初めての講義をすると聞いたよ」
師匠の声は、遠くても何故かよく通る。大きい声というわけでも、特徴的だというわけでもない。たとえ二十四ベレル(註:一ベレルは、その人の杖一本分)遠くから声を掛けられたとしても、まるで耳元で囁かれたように聞こえるのだ。
周りの弟子たちが不思議そうにストアを見た。師匠が大広間でストアに声をかけるのは決して珍しいことではないが、師匠の隣にいる例の男がやたらと目をひいたのだろう。彼は無神経そうに紅茶をすすっていたが、なんだか居心地悪そうにも見えた。
師匠のもとへ小走りで駆けつけ、その近くに寄る。彼の声は、届けたい人のもとへ届くのだ。ストアが近くに寄れば、音量はまったく変わったようには聞こえないのに、何故か声はその反響範囲を狭める。本当に、魔法のようだ。
「はい。何か一つ魔術をするようにと、宿題をもらっています」
「何をやるのだ?」
答えようとして、ふとキスのほうを見る。彼が何かをすごく、話したそうに見えた。
キスはストアの沈黙を受け、乾いた唇をそっと開き小さく呟いた。
「講義じゃない」
「授業じゃない、と言いたいのか」
「分析だ、と明示してくれないかな」
ひらり。と優雅に両の手を、まるでマジックするみたいにひっくり返して見せる。
「では早速今日から始めるのだな。良いことだ。ストア、励みなさい」
「はい、ありがとうございます」
一礼してから、顔をあげてキスのほうを見る。さっき会ったときとは打って変わって、非常に機嫌を損ねているようだ。
おかしなひとだ。師匠に会いにくる大人はみな、食事を一緒に出来るのが至上の喜びだとでもいう風に相貌を崩しているのが普通なのに。
その時、大広間全体を振るわせるような震えと共に重々しく鐘の音が響いた。朝食の時間が終わる合図だ。
はっと、前裾を持ち上げて染みを見る。落とさなくては。
キスが横目で汚れを認め、おおよそ感情のなさそうな声で呟いた。
「汚したのか」
「はい。失礼します」
早くしなければ、洗面所が混んでしまう。
すぐに扉のほうへ小走りで向かうと、皿を片付け終わったのだろう、戻ってきたカリトと目が合った。
「お前、まだここにいたのか」
カリトとは工房に来て以来、直付きの兄弟子として親しくしていた。
親しい、といっても友人というよりは、文字通り兄弟のような形だ。
「リトとキーラが、お前のおやつが余ってるって心配してたぞ。いらなかったのか?」
ストアは首を振った。貧しいなか、兄弟弟子が余らせたお菓子を、黙って食べずに心配してくれる友人たちがありがたかった。
「食べます」
ならはやく行ってこい、と背中を叩かれる。それは父や母が、遊びに行ってこい、と背中を押してくれたときの優しさに似ていた。故郷を思い出す暖かさだと思う。
魔術習得の面はともかく、少なくとも人間関係の面では、ストアの工房暮らしは非常に上手くいっていた。
何度も何度も、心を無にして鍋底を叩く。
自分の魔力というのは、不思議なことに目に見えない。他人のものであれば、なんとなく気脈のようなものを把握することができるし、術士本人の力量もなんとなく理解できる。しかし、何故か自分のものとなると影すら分からない。
だからこそ、自己判断が難しい。
工房にきた当初、周りの弟子がきらきらとした金粉やねっとりとした粘質のオーラを纏うのを見て、あ、自分には才能はないんだな、と思ったものだった。
しかしその認識に反して周囲の対応は優しく、そして丁重だった。明らかに感じる期待が大きい。不思議に思って兄弟子のカリトに聞くと、自分の魔力というのは自分では見えないのだ、と教えられた。
「でも、お前は良い気脈に恵まれてるよ、たぶん。なんとなく重たい感じがするっていうか……とにかく他のやつとは違うし、動きも大きい気がする」
自分自身に、成長の実感は一切ない。しかし、教えてもらえる魔術のほうはというと、少しずつ格式が高くなってきていた。
とはいえ、どちらかというと魔法のことよりも、集団生活の中で学ぶ緩衝能力のほうが向上してきている。
鍋底を叩く。
強く叩けば良いのか、優しく叩けば良いのか、それすら分からない。
力任せにやるほうがいいのか、いっそのこと空想にふけってみたほうがいいのか、何も正解が見えなかった。師匠に方針を聞いても、人によって違うから、それを自分で見つけ出すしかないのだ、としか言われない。
もちろん魔術にも、ある程度共通で使える型と呼べるものはあるのだが、それは極々一部の基礎的なところに留まっている。どうやら、『自分なりのやり方』とやらを見つけられるかどうかが、術士最大の腕の見せ所であるらしい。
「ストア」
カリトはいつも、唐突に名前だけでストアを呼ぶ。
顔を上げると同時に、白い布タオルを頬に当てられた。
「お前、水飲んでないだろ。汗だくになってる」
カリトの鍋を見ると、もう諦めてしまったのか火が消えていた。今、ストアとカリトは同じ術式を学んでいる。彼は兄弟子だったが、術式のほうだけは追いついてしまっていた。逆に、魔力そのものの練成を行うほうについては、全くカリトに及ばない。
カリトはいつも諦めが早い。駄目だ、と判断するや否や、すぐにやめてしまう。
とはいえ、だからいけないのだ、とは言えなかった。それで良いのか悪いのか、それは自分にしか分からない。やり方は自分で、自分のものを、見つけるしかないのだ。師匠も、そういうトライ&エラーの取り組みが大切なのだ、とよく言っている。
逆にストアは愚直に教本の通り、何度も術式を繰り返すほうだった。これも、良いとも、悪いとも、誰からも意見されたことはない。
――でも、キスは何か言ってくれるんだろうか?
それこそが分析というものなのかもしれない。
だとしたら期待が持てる、と思いながら、ストアも鍋底を叩くのをやめた。
いつまでも兄弟子に額を拭われているのも可笑しな話だし、何より、この鍋は多分成功しない。恐る恐る、泡の吹き出る紫の粘液をすくって日の光に当てると、焼けるような音がして煙と化した。失敗だ。これは、カリトでなくとも諦める。
「……駄目でした」
「ああ、俺もだよ。午後また頑張ろう」
午後。そう聞いて、キスとの約束を思い出した。
彼の前で、何かを行わなくては――そう、自分が一番自信のある、魔術を。
「カリト。一番自信がある術って、なんですか?」
「急にどうした?」
彼は訝しむような表情を見せながらも、すぐに気を取り直してストアのために考えてくれた。
そうだな、と一呼吸を置く。
「色変えの呪文……かな。あれはイメージの練成が難しいし細かい術だけど、その分出来たときは満足できる」
「たしかに、カリトが染めると綺麗な色になるね」
色変えの呪文は、すでに色が付いているものに対して、その色彩を変更する呪文だ。したがって、白や黒のものには使えない。
だけど少しでも色がついていれば、その色彩だけを変更することができる。たとえば少し灰掛かった石や、青々とした草木などに、色変えの呪文を適応すれば、思いもよらず美しいオブジェに仕上がることもある。
とはいえ、単純に呪文をかけるだけだと、奇天烈な色になってしまって素敵じゃない。そのため、ある程度の単純な美術的センスが必要だった。また、表面だけとはいえ物質を均一に変更する必要があるから、使用する魔力の練成度も高く求められる。
カリトの家は確か、石細工の工房だったはずだ。そのまま家を継いでも良かっただろうに、長男の彼は魔術士になることを選んだ。
「カリトはいいな、魔術以外にも色々出来て」
ストアがそう言えば、おそらく細工や工芸のことだと気付いたのか、カリトが微笑んでポケットを探った。
「美味しい野菜をずっと食べられたお前のこと、羨ましいよ。ほら、やる」
差し出されたのは、小石で出来たロッキングチェアのミニチュアだった。繊細な作りというわけではないのに、どこかカッコいい。等身大の大きさで、家にあったらいいのに、と思える。ただただ品がいい。
「カリトが作ったの?」
「ああ、術は使わず、お手製でな」
魔術士を目指す者としてそれでいいのかどうか、という点について少し謎が残るけれど、カリトは嬉しそうにしているから、たぶん、これでいいのだろう。ストアも、窓際のポットで人知れず毎朝水やりしているハニーバジルの花が咲いたら、きっと同じような顔でカリトに見せる。
ぼんやりとした気持ちで、つい先ほど手放したばかりの鍋を見る。水中を漂っていたはずの紫煙のような粒子の細かい粉塵は鍋底に落ちて蓄積し、泥のように渦巻いている。暗雲を見ているようだ。
今日も、出来なかった。もう何日目になるだろう? と、思ってみるけれど、カリトはもうこんなことを、数ヶ月続けている。そもそも、魔術というのは地味で陰気な作業の積立と繰り返しなのだ。
少なくとも今のストアの力では、こいつとは長い付き合いになりそうだ。ハイタッチする気持ちで鍋の縁を叩いたが、軽く乾いたくだらない音が響いただけだった。
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