ep.2 狂い始めた心

「大丈夫ですか?」

「康介……」

「いいじゃねぇか、コイツはお前さんのこと本当に好きみたいだぜ?」

(あんたに何がわかるのよ……)

「ククッ、わからねーな。俺様は楽しさを求めてるんだからなぁ」


 しっかりと私を抱きしめてくれた手が熱くて、私は唇を引き結ぶ。視線を上げると、ホッとした表情の康介がいた。


(こうして見ると、普通の人なんだけど……)

 でも、やっぱり、あの時の彼が頭から離れない。



 赤い液体が滴るカッターを持つ康介の姿が――。



「――っ!」


 全身が震えて、力強く康介の腕を振り払う。

 肩を上下に動かして、荒くなった呼吸を落ち着けようとする。心臓が激しく脈打ち、苦しくなってきた。奥歯を噛み締めて、康介を睨み付ける。

 縄張りに現れた敵に対する威嚇。拒絶。


(あの時の康介とは違うんだ……)


 自分に言い訊かせて、殺気立つ心を宥める。深呼吸を繰り返して、胸を掴む。白いワンピースがくしゃくしゃになるのも構わない。


(違う……)


 首を横に振って、嫌な光景を追い払う。でも、あの時の表情、笑い声、息遣いが脳裏から離れない。


「どうしました?」

「え?」

「顔色が悪いので」

「あ、いや……」


 ゆっくりと手が伸びてきて、ビクリと身体が震える。


「足でも捻ったのか?」

「黒羽先輩」


 何も答えることの出来ない私を見兼ねて、黒羽が言葉を繋ぐ。


「お前さん、怯え過ぎじゃねぇか?」


 小声で私に話しかけてくる。


「コイツはお前さんを助けてくれたんだぜ?」

「だって……」


 声を荒げようとしたその時、黒羽は自分の唇に人差し指を当てた。片目を閉じて、口角を上げる。


「誰のせいだと思ってんの……」

「ククッ、俺様のせいとでも言いたいのか?」

「当たり前よ!」

「どうかしましたか? やっぱり、足を捻ってましたか?」

「え?」


 心配そうに私の顔を覗き込む康介は、あの時とは全然違う人に見える。



 凌太の首を切りつけて、笑っている彼とは違う――。



(もしかして……)


 恵香けいかと同じパターンなのかな? 今回の康介はあの時とは違って……。


「そいつは楽観視し過ぎだなぁ」

「え?」

「あのメスはああなる前に変わったんだ。あのニンゲンが動いたからな」

「凌太が動いたから?」


 それって、私が恵香と出逢う前に凌太が別れたから?


「さぁて、お前さんはどうする? あのニンゲンは自分の【運命】を変えたんだ」


 凌太は自らの力で恵香から離れる運命を選んだ。今度は私の番? 私にも出来るのかな? ううん、違う。



 やらなきゃいけないんだ!



 唇を引き結んで、真っすぐに前を見る。康介の金髪が揺れて、優しく微笑んでくれた。ドキリとしたけど、深く息を吸い込んだ。草の匂いが胸いっぱいに広がっていく。


「あのね……」

「不思議なんですよね……」

「え? 何が?」


 出鼻を挫かれて、目を丸くする。


「白さんと初めて逢った気がしないんですよ」

「え……」


 風が強く吹いて、銀色の髪を撫でた。康介は真っすぐに私を見つめて、黄色い瞳に映す。そこにいるのは、不安そうな顔をした私がいた。


「前にどこかで逢ったことあります?」


 同じだ。凌太と同じことを言っている。



【また逢えた】



 あの言葉にどれだけ救われたか。今までのことがムダじゃなかったって思えたのに、それなのにどうして――。



 私を覚えていてくれたことに、こんなにも嬉しくなるんだろ……。



「なぁに、お前さんは何も間違ってねーさ」


 ただ、と付け足して、黒羽がニヤリと笑う。

 康介が手を伸ばしてきても、今度は怖いと感じない。それどころか、もっと触れて欲しいと思っている私がいた。


(どうしちゃったんだろ、私……)

「疲れちまったのさ、心がな」


 そっと優しく手を取ってくれる彼の手が、初めて温かいと思った。今までは凌太以外の人に触れてもらっても嬉しくなかったはずなのに、どうして?

 目の奥が熱くなって、涙が頰を伝う。


「そりゃ何度も好きなニンゲンの死を見ちまえば、お前さんじゃなくっても心が疲れる」


 いや、と意味ありげに止める。

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