秋の話

金木犀と香りの話

 九ノ宮の町はいつもと代わらず静かで、それでいて活気に溢れていた。

 湊が九ノ宮の町に帰ってきたのはつい先日の話だ。ひとまず怪我を治すのが最優先だと、僚が戻ってくるまでの間は診療所に通うこととなった。

 馴染みの診療所の医師たちに笑顔で出迎えられると、今まで我慢していたものが押し出されるように涙が溢れた。ちょっとしたことにでも反応してしまう自分の涙腺に疑問はあったが、意味もなく泣いていた頃に比べれば理由がはっきりしているだけまだ気持ちも楽だった。

 元々そこまで酷い怪我ではなかったことが幸いしたのか、完治するまでにそう時間はかからないだろうと言われてホッとした。

 この日は特に何があるというわけでもなく、早々に帰宅を許可された湊は、何やら聞こえた賑やかな声に誘われるように中庭へと出向いていた。

 覗き込むと、中庭のベンチで一人の青年がうたた寝をしており、そこにカラフルな綿毛のようなものが群がっている。どうやら賑やかな声の持ち主はこの綿毛のようだ。

「あれは襲われてるのか……?」

 心なしうなされている青年が気になり近付くと、綿毛たちがいっせいに湊の方を振り向いた。思わず引いてしまう。

「むいむい……?」

「まう……まう?」

 よく見れば綿毛には小さな羽根が生えており、各々がむいむい、まうまうと鳴きながら湊の顔をじっと見つめていた。

 青年の膝の上でぽよんぽよんと跳ねていた綿毛の内の一匹が湊へと向かってくる。それらは怪異の類であるようだが、悪意は感じられない。だからこそ湊の持つ、彼に害を為すあらゆる怪異を遮断するまじないの込められた眼鏡のレンズ越しでも視えているのだろう。仮にそんなものが診療所内にいたとなれば、院長の職務怠慢もいいところだと勤務する医師たちがぼやくはず。

「ふかふかだ……」

 近付いてきた綿毛を抱き上げると思っていよりも大きかったようで、手のひらにちょこんと収まりまうまうと鳴いている。

 まじまじと見ると小さな猫のような耳がついており、まるで金木犀のような甘い香りが漂ってくる。

「良い匂いするなあ、お前」

 ほんのりと淡いオレンジ色をしたそれは良い匂いという言葉が嬉しかったのか、得意げな顔をしてまうっ! と鳴いて見せた。

「かわいいな。けど、何なんだろう……? 見たことない」

「ああ、その子ねこうもりって言うんだって」

「あ、浅葱先生……」

 通りがかったのかはたまたこの場所に用があったのか。声に振り返るとこの診療所に勤務する医師の一人、浅葱奏汰あさぎかなたがねこうもりと呼ばれたそれらを引き連れて歩いていた。

 まうまうと歌うように鳴くねこうもりは楽しそうに奏汰の後ろをついて回り、同じねこうもりを見つけるとそこに向かってぽよんぽよんと跳ねていく。

「俺がいない間に何が起きたんですか?」

「んー……征久さんの友達って人が去年くらいだったかな、連れてきてね。カウンセリング用の式神って言ってたけど実際のところは何なのかよく分からないんだよねえ。でもこうやって楽しそうに跳ね回ってるし、楽しそうに鳴くしでわりと患者さんたちにも町の人にも人気なんだ」

「でもあの人、うなされてますよね」

「あれだけ膝の上やら肩の上やらでむいむいまうまう鳴かれたらうるさいだろうしね。蒼眞そうまくん、そろそろ起きないとねこうもりたちに埋もれちゃうよ」

「うう……浅葱先生……? また俺、寝てましたか」

 奏汰に揺すり起こされた青年は彼に片腕を引っ張ってもらい立ち上がる。それと同時にねこうもりたちが青年から転がり落ちていく。

 むいむいまうまうと鳴きながら地面に転がったねこうもりたちはまるで、ぽよんという効果音がつきそうなほど弾んでいた。

「きみは……」

 蒼眞と呼ばれた青年の背後には黒いモヤが蠢いている。それは時折無数の目玉のようなものが見えたかと思うと、無数の手形のようなものが現れては消えていく。青年自身は平然としているので直接の害はなさそうだが、大きな眼帯に隠れた左目とやけに軽そうな右袖を見るに彼も怪異に襲われた人間であることは察しがついた。

 だが、不思議なこともある。見た目の不気味さとは裏腹に、モヤは青年に害を加えるようなものではないのだ。それどころか、彼を守ろうとしているようにさえ見えるのだ。

「初対面……ですね」

「あれ、会ったことないんだ。この子が坂祝湊くんだよ。そして彼は御苑崎蒼眞みそのざきそうまくん」

 紹介された蒼眞という青年は小さく頭を下げ、湊もまた会釈を返す。会話たる会話は生まれなかったが、それでも互いに似たもの同士なのだなと感じたようで、初対面の人に対する緊張感は生まれなかった。

「蒼眞くん、迹見あとみ先生が探してたよ」

「あー……そういえば呼ばれてた」

「はは、ぐっすりだったもんね。別に急ぎの用ではなかったようだから、ゆっくり行っておいで」

 片足を引きずるようにして中庭を出た蒼眞を見送り、奏汰が肩を竦める。

「お前たち、蒼眞の膝の上はベッドでも枕でもないぞ」

「むい……」

「まう……」

 あからさまにしょんぼりとするねこうもりたちはぽよんぽよんと跳ねながら大きな観葉植物の葉の中へと収まる。どうやらあそこがねこうもりたちの定位置、巣となっているようだ。

「あいつらの幸せそうな顔見てると睡魔に誘われるようでね。手触りもいいし良い匂いもするから大体の人が眠っちゃうんだよね。普段はああして大きな葉っぱの中で固まって寝てるんだけど」

「なるほど、快眠……」

「良かったら一匹持ってく? ずっと湊くんの頭の上にいるし」

 すっかりと忘れていたが、手の中にいたはずのねこうもりが頭上へと移動していたらしい。鳴かずに大人しくしていたことと、軽すぎて体重を感じなかったせいで存在をすっかりと忘れていた――というよりも、個体の見分けがつかないので先程の群れの中に混ざっていたものだと思ったいたのだ。

「まう?」

 頭の上から下ろすとそれは不思議そうに首――どこからどこまでが首なのか分からないが便宜上首と呼んでおく――を傾げていた。

「一緒に来る?」

「まうっ」

 嬉しそうに鳴きながら手の上で跳ねられては悪い気はしない。ちょうど話し相手にも困っていたところだ。会話が成り立とうが成り立たまいが、ただ話を聞いてくれるだけの存在というのもありがたい。

 奏汰から薬を受け取り、また頭の上に戻ったねこうもりと共に帰路を歩く。

 終始、湊の頭の上からキョロキョロと辺りを見渡し、はしゃいでいたねこうもりだったがその内に疲れたのだろう。パーカーのフードに収まり眠ってしまっていた。


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