夏の話

梅雨の話

「梅雨の時期って嫌よねえ、お客さん減るもの」

 降りしきる雨に打たれる窓枠を指でなぞりながら玖珠川くすかわ あかねは呟く。

 連日降り続く雨により、喫茶店を訪れる客足はほとんどないに等しい。忙しすぎるというのも大変なのだが、客が来ないというのもそれはそれで困りものである。

「まあ、そのおかげで俺もゆっくり出来て良いんだがねえ」

 運ばれてきたホットコーヒーのカップに角砂糖を一つ落とし、嵯峨原さがはら出雲いずもはソファの背にもたれかかる。

「まったく……お客さん来たらあんたにも手伝ってもらうからね?」

「はいはい。お客さんが来ればな」

 かれこれ二時間程こうして二人で会話をしながら客を待っているのだが、やはりこの雨では外を出歩く人は少ないらしい。朝や昼に通勤前の常連たちが訪れたのを最後に、風鈴荘の戸を叩く者は現れる気配がない。特に昼のピークを過ぎたこの時間ではもう店を閉めても良いのではないかと思うほどだ。

 退屈そうに溜め息をついていると、カランと玄関のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ……あら、珍しい人」

「お邪魔するよ」

 現れた男は緋那城ひなしろつかさと言う町の診療所に勤務する医者だ。白衣姿なところを見るに往診の帰りなのだろう。

「昼を食べ損ねてしまってね。何か軽いものでいいからいただけないかな」

「軽いものと言わずガッツリでもいいですよ? 材料はいっぱいありますからね」

「そうしたいのはやまやまなんだけど、これから帰って次の仕事が待っていてね……」

「ああ……お疲れ様です。では軽くサンドイッチでも作りましょうか」

「ああ、あとカフェオレとホットミルクもお願い出来るかな」

 足元からぬうっと這い出てきた黒い影を押し戻しながら僚は困ったように笑う。彼の影に潜む怪異のミズハは食べ物と聞けばどこであろうとこうして這い出てきては宿主にねだるのだ。

 彼自身、ミズハに食べ物を与えることには乗り気ではないのだがこういう時――手っ取り早く空腹感を満たしたい時には重宝しているようだ。というのも、ミズハが得た満腹感は宿主である僚にも共有されるそうだ。

 何度押し戻されてもめげずに顔を上げる影はどこかふてくされたように僚の肩にのしかかる。

「はい、ホットミルクどうぞ」

「ああ、ありがとう。ほらミズハ、ごはん出来るまでこれ飲んでて」

 差し出されたマグカップを小さな手で器用に受け取り影の魔物はホットミルクをすする。

「いつ見てもかわいいですねえ、ミズハちゃん」

「わざとだよ。こういうのあざといって言うんだっけ。こうすれば周りが何かくれるからってかわいこぶって……痛い、痛いって噛むな、叩くな、つつくな!」

 あざといと言ったあたりからぞろぞろと小さな蛇のような影が出てきては、頭突きをしたり腕を噛んだり肩を叩いたりしていた。

 ミズハなりの抗議なのだろう。大元であるホットミルクを飲んでいた影はふてくされたようにマグカップの中へ顔を突っ込んでいた。

「かわいい見た目してても肉食ですもんねえ、ミズハ」

「そういうこと。俺に憑く前は先祖食ってたしロクなもんじゃないよ。俺も実際こいつに気に入られなければ食われてたわけだしな」

 生贄として蛇神に捧げられ死ぬはずだった命が今もこうして生かされている。それを僚が喜んだことはないが、茜や出雲からすれば彼が生きていて、幼馴染を救ってくれたことは感謝してもしきれない。

「はいはい喧嘩はそこまでにしてくださいね。はい、カフェオレとサンドイッチどうぞ。カフェインのとりすぎには注意して下さいね、先生」

 テーブルに並べられた皿を前にミズハがまた手を伸ばそうとする。それを苦笑いではたき落としながら欠片を与えるとミズハは満足そうにきゅうきゅうと鳴いた。そんなミズハの注意がサンドイッチから逸れたのは間もなくしてからのことだった。

 カランと二度目の玄関のベルが鳴り、視線を向けるとそこには男女二人。これまた彼らがよく知る人物。

「よう、奇遇だな」

 にこやかに手を振る青年――緋那城ひなしろ悠吏ゆうりを前に僚は小さく舌打ちを漏らす。

「お店に来るの久し振りね、お姉ちゃん」

 悠吏の隣で二人のやりとりを眺めていたのは玖珠川くすかわ茉莉まつり。この風鈴荘のオーナーの娘にして、茜の姉だ。

「最近九ノ宮にいなかったり出先でごはん食べる事多かったからねえ」

「ですねえ。でもやっぱりここが一番落ち着くんだよね。こうして従兄弟と一緒になる時もあるし」

 悠吏が隣に座ると露骨に眉間に皺を寄せ、少し距離をとろうとするがミズハに邪魔をされ、僚は黙々と食事を再開する。

「二人のご注文は?」

「じゃあ私は今日のオススメパスタ」

「じゃあ味噌カツ定食二つで」

「はいはーい。味噌カツちょっと時間かかるけど大丈夫かしら」

「もちろん。署に帰っても今日はやる事ないしね」

 曰く、捜査に出ていたらしいのだが想定していたよりもあっけなく終わり、帰って報告書を仕上げるだけらしい。それならば先に腹ごしらえでもしようとこうして風鈴荘に立ち寄ったようだ。

「そういや出雲、この間はお手柄だったそうじゃないか。皆神みながみさんが褒めてたぞ」

「副所長が? いつのだろう……怒られた記憶しかないんだけど……」

「なんだっけ、例の廃村に忍び込んだ子供助けてきたやつ」

 それはまだ一月にも満たない前の話だ。九ノ宮には幼い頃から誰もが絶対に近付いてはならないと口を尖らせる廃村がある。有名な心霊スポットでもあるが故に県外からもスリルを求めて肝試しに来る若者は多い。

 先日の一件もそうだったのだが、彼ら黒十字探偵事務所の面々が見事に彼らを救出したのだ。怪異対策室が到着するよりも早く、驚異のスピードで救助出来たことに驚きながらもよくやったと誰もが褒めていた。

「あれは……俺がやらなきゃって思ったらつい体が動いてたんですよね。怪異対策室の皆がいたら俺なんて何にも出来なかった。それに親父にも怒られたし……」

「どうだろうね。室長も出雲くんが一人で乗り込んだって聞いた時ものすごい眉間に皺寄せてたけどそれは出雲くんを心配してたからなんだと思うよ」

「これ言ったら室長に怒られるかもしれないけどさ、きみが無事だったって聞いた時。室長めちゃくちゃ安堵してたし、成長したなってぼそっと漏らしてたぞ」

「そうねえ。他にも……っと、これ以上はやめておこうかな。ともかくきみはもっと自分のした事に胸を張っていいと思うよ。それだけの事をきみはしたのだからね」

「ほんとですか? 良かった……これでまた一歩親父に近付けたかな」

 怪異対策室を取りまとめる父の背中をいつも追い続けてきた。一日でも早く父のような退魔師になりたいと思っていた。だから誰かが怪異の危険に晒されていると聞いた時、助けを呼ぶよりも早く体が動いていた。

 父に褒めてもらおうなどとその時は全く考えていなくて、周りからよくやったと言われた時にもしかしたら父にも、などと少しは期待したのだ。だから何故一人で行ったのだとこっぴどく叱られた時にまだ認めてくれないのかと悔しくなった。けれども裏で父がそんな風に思ってくれてたのだと思うと、どこか嬉しい気持ちがある。

「親父に褒められたいからこの仕事してるわけじゃないんだけれども……へへ、やっぱり憧れの人に褒めてもらえると嬉しいな」

「そっか。出雲くんの目標は室長だったね」

「はい。いつか親父みたいな立派な退魔師になって親父を安心させてあげたい。俺は退魔師の力が封印されて産まれて、親父には色々と迷惑をかけてしまったから。俺は親父みたいになりたかった。刑事になって、親父の跡を継ぎたかった。それはもう叶わないけど、親父に背中を任せられるような退魔師になれたらな……って、俺は何を……」

 途中から語る言葉につい熱がこもってしまった。にまにまとしながら微笑む彼女ら二人の刑事の視線に気付いた時には遅かった。照れくささと恥ずかしさが相まって顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かる。

「い、今の、話は親父には内緒でお願いします! 恥ずかしいから!」

 一刻も早くこの場から逃げ出したくて、コーヒーを一気に飲み干し上着を手に風鈴荘を飛び出す。その背中で茜がお代くらい置いてけと叫んでいたのが聞こえた気がしたがそれどころではなかった。

「もー出雲ったら本当にもー」

「いやあ、あれはヒーローに憧れる少年の目でしたねえ茉莉さん」

「そうねえ。あんなキラキラした目見せられたらねえ、当事者さんはどう思いますこと? 室長、聞いてたでしょう?」

 大袈裟な咳払いの後に白髪混じりの黒髪をガリガリと掻きながらその男、嵯峨原さがはら恭樹やすきは顔を覗かせる。いつからいたのか、と問われれば最初からいたのだが、煙草が吸いたいと外で煙草を吸い終えこっそりと入ってきた。だがどうやら話に夢中の部下たちの間に割り込むことも出来ずに離れた席で一人新聞を読んでいたらしい。丁度観葉植物に隠れる位置だったので慌てた出雲も最後まで気付くことなく飛び出して行ったようだ。

「どうです室長? 出雲くんの事もうちょい素直に褒めてあげたらどうですよ」

「む……あいつは褒めたら調子に乗るから駄目だ」

「またまたあ。あれは調子に乗るどころかやる気出すタイプですよ。今日はアレですけど、今度褒めてやってくださいよ。僕がその場用意しますから」

「ったく……余計な世話を焼かんでいい。そんな事より悠吏お前は人の事言える立場か」

「んな事ないッスよ。ねえ僚くん? ……僚くん?」

 助け舟を求めて僚を見やると彼はいつの間にそうしていたのか、カウンターに突っ伏し寝息を立てている。道理で静かだな、とは思ったもののあれだけ騒いでいた中よく眠れたものだと悠吏は感心する。しかし、それよりも彼はまだ仕事の最中なのでは? と思い出し彼を起こそうと揺する。

「あーもう、また寝不足かこいつは? ごめんね茜ちゃん。味噌カツゆっくり作っててよ。ちょっとこいつ、診療所まで送り届けてくるからさ」

「あら、そうなんです? じゃあ悠吏さんの分はゆっくり作って待ってますね」

「ありがとう。あ、こいつが食べた分ちゃんと僕のとまとめて払うから安心してよ」

「ふふ、ありがとうございます。雨まだ強いのでお気をつけてくださいね」

 よほど深い眠りに落ちているのか、揺すっても声をかててもまったく起きる様子も見せない僚を背負い悠吏は風鈴荘を後にする。両手が塞がっているために茉莉に玄関を開けてもらい、まだ雨音で話し声もかき消されてしまうような大雨の中に消えていった。

「で、お父さん的にはどうなんです室長?」

「何がだ」

 ワイワイと騒いでいたムードメーカー二人がいなくなり、一気に静まり返った店内で茉莉は問う。

「ふん……まだまだ俺の足元にも及ばんひよっこに言う事は何もあるまい。だが、親としては俺が前線を引く前に超えて欲しいものだな。この話も出雲には話すなよ? 調子に乗るからな」

 煙草を吸ってくると再度外へ出た恭樹の背を見送り、茉莉と茜は顔を合わせ、同時に吹き出した。

「親子だねえ」

「親子だよねえ。はい、お姉ちゃんお先にどうぞ。本日のパスタはイカとほうれん草のクリームパスタですよ」

「おーさすが妹。私の好みを心得ているねえ」

「ふふ、伊達にお姉ちゃんの妹やってないですよーっと」

 大袈裟に胸を張ってみせる茜の手を握り茉莉もまた大袈裟に微笑む。

 土砂降りに憂鬱な雰囲気を醸して出していた風鈴荘だが、今日も常連客の笑顔は絶えそうにない。

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