第4話「兄の懇願」

 佳蘭からんは自分の寝室に篭もってしまい、男二人は気まずく庭に残された。揃って固く閉じられた佳蘭の寝室に目を向けていたものの、柏邑はくゆうが裏門に立てかけてあった竹箒を手に取り、「おまえもなんかやれよ」と声をかけると、男は素直に頷き、確かな足取りで菊の群生地に向かう。置いてあった竹篭を腕にかけると、黙々と黒斑の出た葉をむしり出した。


 やがて庭に茜色がそっと忍び込んでくる。しかし二人は黙々と手を動かし続けていた。


 カアーンカアーンカアーン。


 そこへかん高い鐘の音。草むしりをしていた柏邑は慌てて立ち上がり、

「しまった、着替えねえと!」

 手足はもちろん、衣もすっかり泥だらけだ。こんな姿で母屋にいくわけにはいかない。


「すっかり遅くなっちまった」

 気はせくが、急いで器を割ったりしたら洒落にならない。柏邑は気持ちとは裏腹に、いつも以上に慎重な足取りで手押車を押した。

 竹林を越え、見えてきた厨房からは相変わらずけたたましい笑い声。よかった、遅くなってることは気にされてないようだ。柏邑がほっと安堵の息をついた、そのとき。

「しかし驚いたよねえ、郭の旦那には。あんな小娘を後添いに迎えようだなんて、もっと分別のあるお方だと思っていたけど」

「ちょいと、もう鐘は鳴らしたんだよ」

「まだ車の音は聞こえてこないだろ。――若さ以外とりたてて見るところもない娘だけどねえ。腰も細くて、あれで子どもが産めるんだか。まあ、だいぶ強かそうではあるけど」

「そりゃ借金のカタに親ぐらいの男に嫁ぐ女だよ。しおらしいわけないじゃないか! 親も親だよ、金欲しさに娘を売るようなもんじゃないか。ああいやだ、ああはなりたくないね」

 かさりと音がした。柏邑は慌てて振り返る。

「兄さん、一枚忘れてたわよ」

 笑顔の佳蘭が、皿を一枚手に立っていた。


 パンパンパンっと小気味のいい音。佳蘭が洗濯物を干しているんだろう。だいぶ手際のいい音になったようだ。何にもできないヤツだったのに……そう思うと、どうにか沈めた怒りが、また腹の底からふつふつと湧いてくる。と同時に、突き上げてくるやりきれない思いが、目頭を熱くするのも感じた。

 階段に腰を下ろし、柏邑は立てた膝に顔の半ばを埋めて庭を見ていた。そこでは男が昨日の続きとばかりに菊の葉をむしっている。

 喚きたいが、そうもいかず、柏邑は全てを振り切るように何度も首を振り、顔を膝頭に埋めた。「ちくしょう……」何度も呟きながら。

 いきなりザッと砂を踏む音がした。顔をあげると、眦を上げた妹が仁王立ちしていた。

「色々言われるのは当然よ。強かだなんて嬉しい言葉だわ。しおらしくない、大いに結構! 大店の奥様が慎ましいだけで務まるものですか! 言いたい人には言わせればいいわよ。――まあ見ててよ、今度ここに来るときには、子どもをわんさか連れてきて、せいぜい子守をさせてやるわ」


「ハッ」


 佳蘭の後ろからの声に、兄妹が揃って庭に目を向けると、そこには男が立っていた。男は唖然とする兄妹の前でひとしきり笑って、一言。

「佳蘭さんは、面白い方ですね」


 「洗濯が途中だから」佳蘭はたちまち頬を染め、慌ててその場から去っていった。パンパンと衣を叩く音に、妙に力が入っていた。

 男は、そちらを見ながらやけに穏やかな顔をしていた。半月前の死人みたいな無表情からしたら、とてつもない大進歩だ。

 いいかもしれない――柏邑の胸に、突如そんな言葉が浮かんだ。


「おまえ――西市にある絹屋の若様だろ?」


 こちらを振り向いた男は、一転、感情の見えない表情をしていた。しかしやがてうつむき、諦観の滲む笑みを口元に薄く浮かべる。それが答えのようなものだった。

 柏邑はにわかに立ち上がった。階段を駆け下りて男の両腕を掴むと、

「おまえんち、金持ちなんだろ? だったらおまえが佳蘭をもらってくんない? 半月一緒に暮らして、気楽に過ごせただろ? ちょっと小生意気だけど、おせっかいだけど、色気足りてないけど、悪いヤツじゃないし――」

 柏邑が言葉を重ねれば重ねるほど、男の表情が雲っていく。やがて男は切なげな目を柏邑に向け、しかしはっきりと首を振った。

「……僕の正体をご存知なら、きっと何があったかもご存知なんでしょう? 『彼女』が突然いなくなって、まだひと月です。食事どころか、息をするのさえ苦しくて、もう自分は生きられないと思いました。だから家を出て、死に場所を探してるうちここに迷い込んで……。そんな僕が、結婚どうのだなんて、考えられません。『彼女』に合わせる顔もない」

「そうだけどさ、でも、人助けだと思って」

「それに、僕には佳蘭さんを救うだけの力はないんです。店はきっと弟が継ぐことになります。醜聞を晒した僕を、父は許さないでしょうから。だから無理なんです。それに」

 遠慮がちだった男が、きっぱりと言った。

「何より、佳蘭さんに失礼だと思います」


 翌朝。


「何もかもを思い出したから帰ります」

男はいきなりそう言うと、丁重に礼を言って、離れから出て行った。

 「勘違いかもしれないし」と佳蘭は言い続けていたが、昼過ぎに裏門が叩かれ、「若様がお世話になりました」と現れた店の者が、口止め料を含めてだろう、高価な男女の衣装一式とずしりと重い銭包を押し付けて去っていくと、佳蘭はその場にしゃがみこんで声をあげて泣いた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る