第3話「妹の涙」

「最近、食が進むようになったよね? やっぱり毎日の庭仕事がいいのかな?」

 井戸端で食器を洗いながら、佳蘭からんの声はどこか弾んでいる。それを受け取って拭きながら、「うんまあ、そうかな」と柏邑はくゆうは頷く。

「じゃあ今度は俺の分から取れよ。こんだけちゃんと三食出てくると、腹減る暇もない」

 食事は用意されている二人分を三人分にしているのだが、佳蘭が自分の分の大半を彼に分けていた。もともと多めに用意されてはいるものの、さすがに充分とはいえないはず。しかし彼女は「痩せないといけないからちょうどいいわ」と笑うのだ。

 それに気づいているのかいないのか――件の男は昼食が終わるとそそくさと庭に行った。

 最初は片づけを手伝わせてみたのだが、皿を割られかけたのに懲りて以来、頼まない。 

 そんな男はというと、最近は庭だけでなく離れの掃き掃除や拭き掃除にも熱心である。それに付き合う佳蘭に指導され、かなりあやしかった手つきも、そこそこ見れるまでになった。

 男子が掃除? と思わなくもないが、確かに食は太くなったし、単純作業で気が紛れているからか、マシな反応を返すようになったし、夜も静かに寝ているのでよしとする。

「さてと、終わった」

「ああ、じゃあ後は俺が拭いておくから」

 柏邑が言うと、返事もそこそこで、佳蘭はパタパタと井戸端から離れていく。

「ま、そうだよな」

 男に言うのはどうかとも思うけど、美しい男だと思う。

 見目もそうだし、立ち居振る舞いも。鄙ではまず見ることのない雅さがある。  きっとあれだ、珍しい旅芸人に村の女たちがキャーキャー群がってたのと同じこと、だよな。正直、旅芸人はそんなに色男でもなかったが、あの男ならまあ分からなくもない。で、あの危なっかしさ。ほっとけないんだろう。


『自分の立場はちゃんと分かってる』


 そうだよな。佳蘭は馬鹿じゃないんだから。

 バタバタバタバタっ。

 慌しい足音が、柏邑の思考を遮った。顔を上げると、血相を変えて戻って来る妹の姿。

 最後の一皿を拭きながら、柏邑が立ち上がる。すると佳蘭は泣きそうな声で、叫んだ。

「あの人がいないの!」

「は?」

 庭に急げば、確かに男の姿はなかった。閂を外された裏門が、少しだけ開いている。

「なんで?」

「さあ。おおかた記憶が戻ったんじゃねえの。結構なことじゃん。俺たちもあと半月しかここにいられないし、ちょうどよかった」

 言いつつ柏邑は自分がいらだってることに気づいていた。いつまで記憶喪失装ってんだよと思ってたけどさ、だからって――目の端に映る、妹の姿を見るといっそう腹が立つ。外から湧きあがる、子どもの嬉しそうな声が聞こえてきたからなおさらだ。「わあい」と一斉に声をあげ、彼らが走り出す足音がうっとおしくなった柏邑は、「うるさいな」口中で呟いて門に手を延ばしたその時、いきなりギイっと扉が外から開いた。


「あ」


 入ってきたのは、件の男、だった。

 その姿を見たとたん、柏邑はカッとなり、

「おまえ、なに勝手に出てってるんだよ! 内緒で匿ってる俺たちの立場も分かれ!」

「……すみません。庭に飛んできた球を、子どもが気づかず探していたようでしたので」 

 いきなり怒鳴られたことに戸惑いを隠せない様子の男は、ようやくそれだけを言って、心底すまなそうに深々と頭を下げた。柏邑は気まずさからぐっとつまったものの、

「そういうことなら、いいんだけどさ。でもこっちだって心配するだろうが。なあ?」

 そう言って妹を振り返った柏邑は、動けなくなった。佳蘭が泣いていたからだ。裙子を両手でギュッと握り、顔を真っ赤にしてポロポロと涙をこぼしていた。子どもみたいに。

 そして柏邑と同様に動けずにいる男をそのまま、佳蘭は泣きながら走り去っていった。

 

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