第2話「男の素性」

「はあ……」

 柏邑はくゆうは庭に下りる階段の半ばに座っていた。秋分を過ぎ、朝晩涼しくなったとはいえ、日中はまだまだ暑さの残る日々。庭のあちこちから湧き上るように聞こえる蜩の甲高い声が絶え間なく響く中、扇子をゆるゆるとあおぎながら、もう何度目かのため息をついた。


 あれから五日――男は結局ここにいる。


 どうせ家出人かなにかだろうから、少し話を聞いた上で丁重に家まで送ればコトは済むと思ってたのに! 

 というのも。

 上物の衣装に、品のある顔立ち。絶対どこかの御曹司だ。言うとおり助けてやって恩を売ればきっと――そう思ったからこそ他言しないでやったのに!

 だのにあの男ときたら、自分の住まいはおろか名まで忘れているありさまで、連れて行く先がないのだ。まるで表情がないし、こちらからの問いかけにもロクな反応を示さないところをみると、よっぽどな目に遭ったんだなと多少気の毒には思うが、まさか結婚間際の妹と正体不明の男を一つ屋根の下に置いておけるわけがない! 

 ところが俺には冷たいくせに、困った人は見過ごせない佳蘭からんが、『私が面倒見るし、自分の立場だってちゃんと分かってるんだから、兄さんは黙ってて!』


「こんなはずじゃなかったのになあ」

 柏邑が目を向けた先では、妹と件の男の姿があった。

 二人は共に日よけの大きな笠を被り、黙々と庭の草むしりをしている。俺が男に無体なことを言い出さないかを見張るためか、男の側を離れようとしないのだ、やれやれ。

 池の畔や木陰やらでひがな一日ぼんやりと座っていたかと思ったら、昨日辺りから足下の草を抜き出し、いまや庭の草取りに興じている。そのくせ明らかに「草むしりなんかしたことがない」というおぼつかない手つきなうえ、雑草とそれ以外の区別もつかず、あの、花に興味もないはずの佳蘭いもうとにあれこれ指導をされてる始末。 

 風が少し強くなり、バサバサと布が翻る音がする。そちらを見やれば、今朝がた佳蘭が洗った三人分の衣装が青空の下ではためいている。どれもきちんと汚れをこすり落とし、皺を念入りに伸ばして干してあった。母親が知ったら泣いて感激しそうな変貌ぶりだ。いつもは「水で濯げばいいんでしょ」「竿にひっかけておけばいいんでしょ」と言わんばかりだったのに――とはいえ、最近まで自分でやったことなんかなかったんだから、仕方ないんだけど。


 カアーンカアーンカアーン。


 間延びした甲高い鐘の音が三度響いた。昼食の支度が整った合図だ。

「もうそんな時間かよ」

 呟きながら柏邑は立ち上がり、尻の埃を払うと、寛げていた襟を整える。そして慌てて立ち上がろうとする佳蘭を手で制し、

「すぐ戻る。おまえらは手を洗って待ってろ」

 あんな枯れた男。どう転んでも間違いなんか起こりそうにないやな――そんなことを思いながら回廊をゆるゆると進み門口を目指していると、「ふわあ」思わず大あくびが出た。

 なにかあってはと同じ部屋に寝ているので、どうにも落ち着かない。眠れないのかヤツが寝返りを打つたび聞こえる衣擦れの音がうっとおしく、こっちが眠れない。しかも入口を塞ぐためとはいえ、ヤツが床台ベッドで俺は硬い床に寝るハメに! 綺麗な姉ちゃんのためならまだしも、なんだって野郎のために!


「えーっ。家出ぇ!」

 離れを出て、竹林を抜けると、遠くの厨房からけたたましい女たちの話し声。「どこそこの誰それが浮気してる」だの「なんとか家の子どものデキがどーたら」だのと、おばさんたちの噂話好きは、都も鄙も、同じらしい。

 毎日毎日、よくもまあそんなに話すことがあるもんだと感心するが、やっかいになっている身、盛り上がってる話の腰を折らないよう、姿を見せるときには、細心の注意が必要だ。

「そうなのよ。若様は病気で臥せってるって言ってるけど、実は――って話」

「若様って、あの西市にある絹屋の長男?」

「びっくりだよねえ。何度か店に行ったことあるんだけどさ、物腰の柔らかい、小柄だけどなかなかいい男で。娘ががっかりしてるよ」

「ちょっと顔が女らしいんだよね。色白だし」

「こんにちは」

 厨房の入り口に立った柏邑の声に、おしゃべりに夢中だった女たちが揃って飛び上がった。何度見ても面白いが、顔に出すようなヘマはしない。

 いつもの侍女が慌てて進み出てきた。

「あらいけない。おしゃべりに夢中で……」

 だろうね。この「手押車」結構うるさいんのに、それでも気づかないって言うんだから。

「あら、お兄様お一人ですか?」

「はい。妹は茶の支度をしています」

 侍女と話していると、薄暗い厨房の奥から若い女がガラガラと手押車を押してきた。三つの段が設けられ、それぞれの段に「主食」「スープ」「おかず」がたっぷり入った器がところせましと並べられ、湯気が立ち上っている。

「ありがとうございます。毎日楽しみです」

 本心だった。やることがない日々唯一の楽しみは食事だ。しかもこの侍女、予想どおりに料理がうまいのだ。

 それと交換で、先の食事で使った食器を乗せた手押車を侍女に渡す。これが「決まり」だった。柏邑は見送りに出てきた侍女に礼を言いかけ、ふと思い出したようにさりげなく、

「みなさんのお話が聞こえてきて気になったんですが……どなたかご病気、なんですか?」

「――ああ。都一の繁華街にある大店の若様がね。まあ恋煩いってトコでしょうねえ。田舎から奉公に出てきた娘と恋仲になったけど、当然引き裂かれてね――まるでお芝居よねえ。結局ひと月くらい前に娘は年季途中で返されて、以来若様は病床についてしまわれたと――」

「それはお気の毒に。若様っておいくつでいらっしゃるんですか?」

「成人を迎えられたばかりだというから、あなたさまと同じくらいですかねえ」

「そうなんですか……」

 しみじみと頷きつつ、柏邑は確信していた。


 間違いない、これはあの男のことだ!


 道理で「記憶がない」と言いながら、手がかりを探しに外出しようと誘っても頑なに拒否するわけだ。ヤツは家に帰りたくないんだ。

 ほどなく辞去の挨拶をし、柏邑は来た道を戻る。がたがたと揺れる手押車に気をつけながら竹林を抜けていくと、やがて朱塗り鮮やかな離れの門が見えてくる。 

「離れ」とはいえ、充分な広さを持った寝室二つと正房、それに整えられた内庭を有し、周囲を突き固められた土壁に囲まれた、独立した立派な住居である。だからこそ、人を匿ってもばれずにいるのだが……。

 門を開け、手押車をそこで止める。段は車から引き抜くと、そのままお盆として持ち運べる造りになっている。門を閉めた柏邑は「主食」のお盆を手に中に入っていく。さあて、どうしてくれよう――思いながら、回廊を進んでいくと、男と妹が揃って階段付近にいる。

「おい、持って……」

 来たから運べ――と言う声は、喉で消えた。

 佳蘭が、階段半ばに腰を下ろした男の足を、水の入った桶に浸し、せっせと洗っている。

 男が何か言う。多分「すみません」――ヤツが唯一、まともに口にする台詞――だ。

 佳蘭は何度も首を振り、男の足を洗っている。真剣な面持ちで。顔がほんのり赤らめて。

 母親に言いつけられ、「足くらい自分で洗ってよ!」と渋々自分や父親の足を洗っていた妹の姿からは、余りにもかけ離れていた。

 柏邑の胸はなんだか痛んだ。それだけ二人の姿が絵になっていたのだ。 

 郭の旦那は人格者で裕福だ。子どもの頃から兄妹揃ってかわいがってもらった。前妻にも同様に。親とも仲良しで、伯父さんみたいなもんだと思ってたし、事実そう呼んでいた。

 だのにもうすぐその呼び名は「郎君あなた」になる――初めて、柏邑は佳蘭を不憫だと思った。


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