笑一笑
天水しあ
第1話「拾い物」
「どーした
後ろから、兄・
かわりに声を上げたのは、繁みをザシザシと踏み分けて彼女に近づいて来た柏邑だ。彼は妹の目線を追うと――。
「えっ、何まさか死体!」
昨日都にたどり着いたとき、日はまさに落ちようとしていた。
無事に到着した安堵と長旅の疲れがあいまって、二人はあらかじめ整えられていたそれぞれの寝室であっという間に眠りに落ちた。満月が白々と照らし出していたこの庭を見ることのないまま。
そして今朝、先に目覚めた妹の佳蘭が、朝露が輝く涼やかな庭を散策していて、気づいたのだ。そのまま街路に通じている裏門近くの繁みが、不自然になぎ倒されていることに。
横向きに倒れている人は、格好は男のそれだが、色白で、閉じされた目の睫は長く、柏邑よりも幾分か小柄である。今、都で流行っているという男装の麗人かもしれない。
「お、おまえは下がってろ」
すっかり腰が引けてはいるものの、妹を庇うように柏邑はその前に立ち、足元に転がっていた棒の切れ端で、倒れた者を仰向けるようにその肩を何度か強めに突いた。すると、
「……う……」
青ざめた唇から、低い声が漏れた。眠りについているのかと思しき穏やかな面が、苦痛をうけてわずかに歪む。眉間に深い皺が刻まれるのを見た妹が「生きてる!」と声を上げると、兄は手にした棒を放り出して膝をつき、
「おい、大丈夫かあんた」
何度か強く揺さぶられ、男は何度か瞬きを繰り返す。やがて、ゆっくりと目を開けた。
兄妹がほっと息をついた。そのとき、
「起きてらっしゃいますかねー」
大きな声に、兄妹は揃って振り返った。このやけに間延びした、デカい声。昨日出迎えてくれた母屋の侍女のものに間違いない。
「ちょうどいいところに」
そう言って、柏邑は素早く立ち上がったものの、何故かその場から一歩も動かない。男が
「言わないで、欲しいんですか?」
佳蘭は、学志の自分より僅かに年上に見える男に、少し丁寧な言葉で訊いた。男は佳蘭に目を見上げ、小さく頷く。何度も。
「そういうワケにいかねえだろ。俺たちここに厄介になる身なんだから、何もできねえし」
「兄さんは黙ってて!」
ピシャリとした佳蘭の声に、柏邑はムッとしたように目を見開く。しかし、
『いいね。都では佳蘭の好きなようにさせておあげ。最後なんだから』
旅立つ前、両親からそう言われたことを思い出す。妹の口癖に逆らってはいけない、と。
両親が、目を潤ませているのに気づいてしまい、なんだかいたたまれなくなって、神妙な顔でうつむてしまった。
『だってもう仕方ないじゃないか。郭の旦那になんとかしてもらわないと、ウチの店はもう終わり。家人たちも路頭に迷わせることになるんだから。――確かに旦那はちょっと年上だけどいい人だし、佳蘭を妾じゃなくて正妻にしてくれるって言ってるんだぜ。前妻との間に子どももいないからめんどくさくないし。いくら年が近くても、稼ぎもない無頼人なんかに嫁ぐより、よっぽど佳蘭は幸せだよ』
反論どころか口癖のように言っていた慰めさえ、口にしてはいけない気がして。
「……分かったよ」
柏邑が気まずそうに呟くと、とたんに足の拘束が解かれた。柏邑は渋々、という態で踵を返す。だがその実、妹のワガママを聞き入れるのが、心底イヤなわけでもなかった。
「昨夜は遅いご到着でしたので満足にご挨拶もできず、すみませんねえ。のちほどお食事をお持ちいたしますが、その前にご挨拶をと」
門前、愛想のいい笑みを浮かべて言う母屋の中年の侍女は、恰幅のいい女だった。
「料理が上手そう」それが彼女への兄妹の評価だった。
「留守宅の、こんな立派な離れを私たちのような若輩者に、ひと月もお貸しいただくご主人のご厚意に、深く感謝します」
そう言って、柏邑は深々と頭を下げた。佳蘭もそれに倣う。
開けられた門を挟んで兄妹と侍女は対峙していた。
「いえいえ、こちらこそ主人が不在で申し訳ございません。急な商談が入りまして、どうしてもここを離れなければならなくなりまして――都見物にとお誘いしたのはこちらなのに申し訳ない。よくお仕え申し上げるよう言いつかっておりますので、どうぞなんなりとお申し付けくださいませ。まもなく奥様となられるお方なわけですから」
今度は佳蘭が深々と頭を下げた。
「この離れには竈がございませんので、食事は三度、母屋から運んでまいります」
「いえそんな。お食事をご用意いただいくだけで充分です。こちらから取りに参ります」
「では掃除と洗濯は、私が毎日通い……」
「それも大丈夫です。私がやります!」
侍女の言葉を、佳蘭が再度遮った。
「えっ!」心中で驚きの声をあげながら、柏邑は隣の妹に目をやる。確か「家事はしてもらえるんだって」って嬉々として言ってなかったか、おまえ?
「ですがこちらには家人が大勢おりますし、奥様がそんなことをなさることはまずございませんよ。それに――お嬢様だって昔は家人がいる生活でしたでしょうし、今は多少おやりになられてるにしても、大変かと」
言い澱むふうを装いながらも嘲笑が滲み出るその言葉に、ピクリと自分の身体が反応するのが柏邑には分かった。
だが隣の佳蘭はにっこりと笑い、
「だからこそです。何もできないまま嫁いでは郭の皆様に申し訳が立ちません。せめて家事くらいはこなせるように努めたいのです」
「ご立派なことですわ」
うんうんと侍女は満足そうに何度も頷いた。
結果、母屋で鐘が鳴らされたら食事を取りにいき、掃除洗濯は佳蘭がすることになった。
「何かありましたら、いつでも母屋へどうぞ」
侍女は丁寧なお辞儀を繰り返しながら、兄妹に背を向けた。その姿が、くねる石畳の道を進んでいき、やがて母屋の庭に繋がる竹林の中に消えるのを見るや佳蘭はすかさず門を閉じ、閂をかけると、勢いよく身を翻した。
「おいどうした」追いかけてくる兄の声と足音を振り払うかのように早足で、佳蘭は建物をぐるりと囲う回廊を進んでいく。階段を下り、裏門近くの繁みでようやく足をとめた。
そこに、彼はいた。
仰向けになり、ただ空を眺めていた。濡れた目に、雲ひとつない澄んだ秋空の青が揺れている。その瞳が、ゆっくりと動いた。
その瞳を受けた佳蘭は、裙子の裾を払うと、その場にしゃがむ。小さく笑うと、
「誰にも、言いませんでした、よ?」
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