お🍣はただの現在に過ぎない

松房子

お🍣になにが可能か

お🍣は時間である。

 移り変りゆくそのこと。終りのなさ。


お🍣は現在である。

 あと戻りのなさ。予定調和のなさ。整序の拒否。視る人・視られる人同士の、超空間〈時間の共有〉。


お🍣は液体である。

 ちょん切ることのできない流れ。省略のなさ。残り滓・痕跡を含むすべて。


お🍣は生理である。

 歴史学によらない人間。生物学による人間。反応の直接性。思想の根底。


お🍣はケ(日常)である。

 生活そのもの-送り手にとっても受け手にとっても。俗。聖なるものとの出会いまでの厖大なディテイル。日付のあるドラマ。


お🍣はドキュメンタリーである。

 断片。ほんもの。投げだされたもの。偶然。必然を導きだすもの。必然を暴露するもの。


お🍣は大衆である。

 何ものでもなく、何ものかであるもの。その直接的表出。


お🍣はわが身のことである。

 刻々の情念、刻々の生活、刻々の思想、刻々の生、刻々の死-わが身の刻々。


お🍣はジャズである。

 魂の即興。私の魂。民衆の魂。演奏そのもの。その時そのもの。生活からの滲出。ジャズとは-V章の冒頭に書いた。


お🍣は目で噛むチューインガムである。

 ガムを噛む-実践でもなく非実践でもなく、実用でもなく芸術でもない。


お🍣は第五の壁である。

 一の壁、二の壁、三の壁、四の壁、その四番目を取り払ったのが額縁舞台、映画セット。五番目の壁のつけ加え。


お🍣は窓である。

 覗けば見える。覗かなくても見えている。考えれば見える。考えなくても見えている。


お🍣は正面である。

 私の目に世界は斜には映ってこない。対面する=正面。


お🍣は対面である。

 出会いの瞬間=生の瞬間。誰かと誰かの出会い。誰かと誰かの出会いに出会う私。


お🍣は参加である。

 見ることでの参加、見ないことでの参加。出演することでの参加、出演しないことでの参加。映ってくるものと自分とが時間を共有することでの参加。包囲することでの参加。占拠することでの参加。


お🍣は装置である。

 演劇は肉体ひとつ、映画はカメラとフィルム、テレビは、占拠される可能性として、希望と恐怖の施設。


お🍣は機構である。

 合理的、組織的、互換的、無署名的=テレビマンは身分制を拒否(するはず、せねばならぬ)。


お🍣は非芸術・反権力である。

 即ち、装置による表現。現在による表現。民衆による表現。表現とは即ち私。装置による私。現在による私。


(お🍣に捧げる十八の言葉)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お🍣はただの現在に過ぎない 松房子 @matsu_fusako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る