あの頃へ

 小説とは虚構である。ならばおおよそそれに意味はないのかもしれない。言いたいことが言える唯一の場所として僕は長い間、小説という手段を使ってきた。世の中にはあまりにも言えないことが数多く存在していたのだった。ここに登場するのはどれも自分の姿を映し出そうとした鏡だった。




冬。私は彼氏と一緒にベッドの中で抱きしめあっていた。心の中にあるのは安心と虚無感。

高校二年生の私、奏と、同じクラスの慶介。慶介はバスケットボール部。私は文芸部に所属しているが、主にやっているのはピアノだった。


ピアノを先生の指導の元ほぼ毎日1時間弾いていた。私のペースで自分なりに美しいと思う弾き方を探していた。


ショパン、ブラームス、ベートーベン、チャイコフスキー、数えればきりがない。

部屋の中にあるのは一台のアップライトピアノだった。これだけも60万円以上した。部屋は郊外の一軒屋の最上階。私は一人っ子。慶介には姉が一人いた。

ベッドの中で抱き合う私たち。




僕は彼女の奏の温もりを肌に感じていた。バスケットボール部ではもう三年生は引退していて、僕は身長177cmあったのでスモールフォワードをやっていた。スモールフォワードとは5人のレギュラーの中でちょうど真ん中の背の人が務めるポジションだ。バスケットボールもそれなりうまかったし、テストでは奏よりずっといい点数を取って、来年の受験では一流の私立大学に行くつもりだ。


「さすがに東大は無理だろうね」


塾の先生は面談の時にそういっていた。親は医者で、内科医だった。僕は幼い時から、それなりに大きな都心に近い一軒家で育った。母親も父親も僕のことを優しくしていた。だけれど、姉はよく僕のことをいじめた。僕は姉に対する憎悪を持っていた。


姉はそれなりの有名私立大学に通っている20歳だった。もう彼氏との性行為も済ませたらしい。姉は僕の憧れでもあったのか、彼女がバスケットボールを始めたので、僕も始めた。幼いころ、小学校のミニバスで僕は姉の姿を見ていた。ドリブルだったり、シュートフォームであったり、姉の体だったり、当時の僕は姉のことを少し女性として見ていた。




僕が性に目覚めたのは13歳の時だ。そう初めて自慰行為をした。別にそれまでだってエロ本とかいろいろなものを見ていないわけじゃない。ただあの日僕はただ気持ちがいいことを知ってしまい。強烈にそのことがばれることに怯えたのだった。家族にばれないように、僕は戸棚などから女性下着の雑誌を見てはトイレや風呂なんかで自慰行為をしていた。パソコンが与えられてからは、もちろんそれまでもエロサイトを見なかったわけではないが、主にパソコンでエロサイトを見ては一人ですることが多かった。


奏の体に初めて触れたとき、ああ結局女も自分の体と大して変わらない。それどころか体温が少し冷たく、裸になって体を見合ったときに僕たちは対となって生まれてきただけなのだとやけに冷めた考えが浮かんだ。それまで性って恥ずかしいけれど、すごく刺激的なものだと思っていたのに。奏と初めてした、高1のそうあの日も冬だった、時僕は興奮して勃起しつつも奏のことをただの一人の人として見ていたのだ。姉の体を見ても変わらないように、彼女の裸も僕にあまり多くの印象を与えなかった。それよりも奏と抱き合っている時に感じた、肉体の感覚のほうが大きい。少し冷たくて思っていたより硬い。


僕たちは交わらない体を交わらせようと試行錯誤していた。その日奏にフェラをしてもらった僕は彼女の膣の中に手を入れていかせた。キスをしながら、二人で夜が明けるのを待ったのだった。


ちょうど奏の両親が旅行に行っている時だった。両親がいないときが僕たちが自由に過ごせる時間だ。二人でスーパーに買い物に行って、鍋をしたりした。


冷蔵庫の中にある奏の父親が買ってきたビールを一本盗んで、二人で飲んだりした。アルコールもしばらくするとなんてことはない。きっと煙草だってセックスだって、と思っているうちに僕はネットでコンドームを注文して、それからしばらく経った高2の夏に初めてセックスをした。




私が彼に初めて抱かれたときのことを鮮明に覚えている。いつも夜寝る前は彼とした一番最近のセックスのことを思い出す。それくらい私は彼を愛していたし、彼もたぶん私のことが好きなんだと思う。


彼と私は二人で抱き合いながら、お互いの目をじっと眺めていた。そして時折彼が行う仕草が私の胸をときめかせた。そして緊張の中に少し恥ずかしさがあった。もし恥ずかしさがなければなんでもできてしまう。おおよそ恥ずかしさとは抑圧なのだろう。


「ねぇ?」


「何?」


「好き?」


「うん」




 ぽんぽん弾けるように僕たちは会話をする。彼女の恥ずかしがる姿が僕は好きだった。


「変なの」僕は一人ごとを言う。


「何が?」彼女は僕の目を見てそう聞く。


 彼女の体に腕を抱きしめる。性欲。彼女のことを好きな証もしれない。たまらなく彼女の体は性的刺激に満ちていた。僕は家にいる時、ベッドの上で彼女の凌辱されている妄想をして射精する。キスをして、ぎこちなく僕たちは服を脱ぐ。この瞬間が一番僕は興奮した。緊張感は恥辱かな。もしかしたら違うかもしれない。心の中に湧き立つのは静かな暖かさで、相変わらず僕の性器は勃起し続けていた。




 私は部屋の隅に置かれた歴史の教科書を彼の頭越しに見ていた。世界地図がべろんと教科書の背表紙を覆っている。ふと私はため息をつく。なんで同じ地球の上で、この地図の上で争いをしているのだろうか。まばゆい国旗。国の建物。着飾った人々。


 彼の方を眺めると、彼は私の胸を優しく包んでいた。北海道と沖縄、沖縄と韓国。この二つの距離について考えていた。虐げられた過去はプライドに染み付く。虐げてきた過去も。それもプライドとなる。すべては植民地、戦争のせいだろうか。人々の争いによって集団によってまたその系統によって、様々なものは区切られたまま。


「ねぇ、イタリアとエチオピアの戦争を知っている?」


「さぁ?」


 彼はどうやらそれどころじゃないらしい。


「アフリカでヨーロッパに勝ったのなんてそれくらいだよ。あとは植民地」


「まぁね」


 彼は私の話を少しうっとうしそうにしながら、私の胸をもんでいる。実はね私は彼の気を少しそらしかった。ねぇ、今歴史のことなんかどうでもいいよね。




 歴史なんて退屈だと思われていそうな僕だったが、実は僕も歴史には興味があった。真珠湾攻撃、東京大空襲、原爆、沖縄侵攻、敗戦。今生き残っている人なんて少ない。そうつまり、同族意識はプライドとなる。家族であったり、友達であったり、そして敵とは遠くにいるのだろうか。時に日本だって江戸までは国内で争いをしていたのだ。


「なんでまた今になって?」僕は彼女にそういう。


「別に」今度は彼女は気をそらす。


「NBAってかっこいいよね」


「そう?」


「黒人はスポーツができるから」


「ああなりたいの?」


「身体能力だけね」


 僕は彼女の唇にキスをする。そう全ては自尊心のような気もする。


 欲求の対極に不安があるならば、僕がこうして彼女を抱いているのも不安だからだろうか。彼女の温もりを求めているのは僕が不安だからだ。一人が寂しい。




 私が彼を求めてきたのもきっと不安のせい。彼はなんとなく何を考えているかわからなくて、それでどこかへ行ってしまう不安が付きまとう。そんなに性行為だってしたくなかった。だけど彼が誘ってきたらちょっと最初は嫌だったんだけれど、誘惑に負けてしまう。


「好き?」確認するように私は下着姿で彼にそう聞く。


 胸が隆起してお尻のあたりが曲線を描く私の体と固く引き締まって細い彼の肉体。バスケットボールをやっているせいか少し筋肉質。筋肉が好きなのももしかしたらそれは強い雄を選ぶという雌の本能かもしれない。


 彼にもっと強く抱きしめてほしいけれど、言えない。恥ずかしさがつきまとう。それで私はじっと彼にされるがままになっていた。


「好きだよ……」彼はいつも通りそういうけど感情がこもってない。


 どこか空虚な目をしていた。それが気にくわない。ちょっとぐずりたく、彼に甘えたい。でもできないから、私は少し見栄を張って、いかにもこんなことは何でもないように彼にキスをした。




 僕たちは長い時間をかけてセックスをした。彼女は激しく息をしていた。毛布をいつの間にか剥ぎとって、僕は裸の彼女の体を見つめていた。こうしていると僕はその行為に夢中になって現実を忘れかける。目の前の裸の彼女の肉体と僕はつながっていた。小さな性器だけが僕たちをつなげる唯一のものだった。


 射精を終え、僕は彼女を抱きしめる。徐々にお互いこの行為にも慣れてきたせいか、何かしらの愛情を感じるようになる。


「好きになった」


「は?」


「いや、冗談だよ」


 彼女は僕の目をじっと見つめていた。僕は薄く笑っていた。キスをしてごまかす。気持ちいいっていったい何なんだろうと思う。でも性欲がとにかくそれだけのものじゃないことくらいには気付いている。あらゆるものに性欲は関わっているような気すらする。情動とはなんだろう。こうしたいことだろうか。そうつまり僕が異性と関わりたいと思う根源は性欲だ。おそらく恥ずかしいと思うことすべてが性欲のなせるわざなんじゃないかと思う。性欲が支配しないものとはいったい何だろう。


 言葉が好きなのは人が言葉を使い始めたからだろう。言葉の羅列と組み合わせが脳内を駆け回る。こうしている間にも。




 彼と私は違うもの。感情を伝えたいのに。この感情も陶酔だろう。女は陶酔しやすい。甘いロマンスや、実は英雄主義なんかに憧れてしまい夢想する。恋愛に溺れたいのは彼のことが好きだから。


 ピアノを弾いているのは、昔から。だけれど今は彼に勝ちたくて認めてもらいたくて弾いている。コンサートホールを埋め尽くす観客。彼がその中で白いドレスをまとった私を見る。私が奏でるのは美しい旋律。一音で涙が出るような。


「ふざけんなよ」


「何が?」


 私は彼の頬をつねる。こうするのが好き。女はどうしてもこれがやりたい。彼を攻撃して怒らせて、で、私のことを叱ってほしい。彼はウェットっていうかもしれない。でもこれも私の情動。それであまりに彼を求めているのは私の陶酔。怒ったところ、恥ずかしいところ、落ち込んでいる姿が見たい。裸体のまま、私は下着をつけ始める。本当にプライドを彼は譲らない。それで私は強がって、彼に背を向ける。


「何?」少し怒った声で彼が言う。


 私は無視をして「下手くそ」と言う。


 彼はやれやれといった感じで自分も下着を身につける。そして私がじっとしているとベッドから這い出てシャワーを浴びにいってしまう。


 私はベッドの中で少しだけ泣く。彼が階段のところで私のことを気にしているのを知っている。


―何にも知らないと思った?


 心の中で彼に声をかける。


―ねぇ、戻ってきてよ。それで私に謝って。


 彼がゆっくりと階段を降りていく。ちょっといらっとしながら、でもそれを我慢する。


―勝手に人の家のシャワーを使うんじゃねえ。


 私は彼の汗で濡れた枕と私の汗で濡れたシーツと毛布の中でさっきの行為を思い出し、丸まりながら彼が帰ってくるまでオナニーをしていた。




 僕はシャワーを浴びていた。ペニスは勃起していた。それで二階にいる奏のことを考えていた。頭の中にあるのは刺激だった。マウスが電極を刺されて刺激されているのとは少し違う、経験の味だ。女の子はフレイバーなんかじゃない。僕は少し疲れていた。確かに気持ちがいいのだけれど、少し疲れてしまう。でも興奮が頭に響く。久しぶりだからだろう。


 シャワーを浴び終え、奏の家族が使っているバスタオルで体をふく。腰に巻いたまま彼女の部屋へと行く。彼女は毛布の中から僕の目を見ていた。僕はまた彼女の肉体に惹かれてしまう。


「シャワー長かったね」


「ちょっと考え事してた?」


「どんな?」


 頭の中を思いめぐらす。


「将来のこととか」


 僕はそう言って笑った。将来も奏と一緒にいれたら幸せなのだろうか。僕にはわからない。もう射精した後だけれど、もう一度彼女の裸が見たくて、僕は腰からバスタオルを外し、ベッドの中に入る。彼女は僕の目をじっと真剣に見つめていた。


―そんな顔するなよ。




 疲れているのは彼だった。私と彼は布団に横になりながら、考え事をしていた。私は気持ちがよかった。隣にいる彼は少し疲れているようだった。ぼんやりと部屋の壁を見ていた。私のことなんか見ていない。私は愛情が起動し始める。


「ねぇ」


「何?」


「なんでもない」


 彼には通じない。だから私は彼の頬をつねった。彼は若干いらついていた。でも私は彼のことが好きだった。


「好きだよ」


「うん」


 しばらくの間、黙っていた。毛布の中に二人の人間がいる。それも奇妙に彼にとっては思えるのかもしれない。


 その日、私たちは結構長い間、毛布の中であれこれと言葉を交わした。


「なんで……」彼はそういう。


「何が?」


「なんでもない」


 毛布の中でうつむきながら、彼はもう一度私にキスをした。




 その日、僕は奏を抱いたことを考えながら、実家の一人の部屋の中にいた。僕はゆっくりとパソコンで小説を描いていた。別にテーマなんてない。書きたいことを描くだけだ。どこかの賞でも取って、小説家になれたらいいななんて思っていた。


 姉と家族が下の階のリビングで話している。僕は満足しながらも、やけにストレスをかけてくる家族や高校の連中のことを考えていた。僕が何かをやろうとしても途端に邪魔が入る。


―お前らの感情なんか知らねえよ。


 そう言いたいけれど、人間どもは僕の周りをうろつき、口々に冷たい言葉をはき、そして申し訳ない程度に何かしらの愛情を見せる人間がたまにいたりする。


 父親も母親も僕にとっては邪魔な存在だった。パソコンがなんかのウイルスにやられたせいか、やけに動きが鈍くて苛立つ。


―死ねばいいのに。


 だけれどたぶん死んだら寂しいだろうから絶対に言えない。セックスは技術だと思う。将来奏とどうなるなんか知らない。


 僕はたまにできる彼女とのセックスにそれなりの喜びを見出していた。何が起きたのか知らないが、今日奏に射精したとき、気持ちよくなかった。まるで獣が襲うような感じで、それでいて冷静に奏を気持ちよくさせようと頑張ったつもりなのに。


 まるで僕を囲むように、周りの人間たちは僕に棘を刺す。


―お前はここにいたほうがいい。遠くには行ってはいけない。


 なんとなくそう言われているような気がしている。


 俺は内向的で不真面目なA型だから、セックスと攻撃くらいしか楽しいことを知らない。幸せなんて叶わない欲望を申し訳ない程度に満たされたときに感じる一時的な快感としか思えない。


 僕は無意味な勉強も嫌いだが、人より優れていることには喜びを感じる。


 こうやってパソコンを叩いて、小説を描いている時が一番落ち着く。少し疲れるけれど。クラスの女の子と話すのもデートをするのも楽しかった。


 奏は少しめんどくさくて重い。心の中に際立つの人間に裏切られるという不信感だった。わかっているけれど、だから俺は心の中でじっと石のように我慢をする。一線を越えればそれは爆発する。


 爆発したときは、人のいない夜に散歩して、公園で紙くずを燃やす。火が揺らめて、真っ白な紙が灰になっていく。それが好きだった。


    


 朝の高校。奏が窓際に座っている。数人の女子が奏に話しかけている。僕は反対側の席から参考書を眺めながら、奏の様子をちらちら眺めていた。時折誰かが話しかけてくるが、僕は適当に相槌を打って、奏のことをまた見ていた。


「ねぇ、ここのところ教えてくんない?」


 クラスでもひと際目立つ、女の子が僕に話しかけてくる。彼女の名前は香奈。いつも男子生徒と一緒に行動していた見た目の派手なギャルだった。


「知らねーよ」僕はそいつに言い放つ。


「なんだよ」そいつは怒って向こうへ行ってしまった。


 僕は相変わらず奏のことを見ていた。それでしばらくすると香奈のことが気になり始める。時々僕たちは二人で話すことがあった。それも一週間に一度くらいの頻度で。


 僕には彼女がいたし、たぶん香奈にもサッカー部の彼氏っぽい人がいた。いつもそいつと二人で並んで歩いていた。

 



 私は慶介のことをいつも見ていた。奏と彼が付き合っていることを知った時、激しくショックで、どうしてこんなにも自分を壊したくなるのだろうと不思議にすら思った。私にはたくさんの男友達がいたけれど、慶介はその中で特別な人だった。


―ねぇ、ここのところ教えてくんない?


 自分なりにいろいろ考えて声をかけていた。慶介は相変わらず奏のことをずっと見ていた。私は知っていた。二人が交わることはないと。それでも二人はずっとこつこつと距離を縮めようとしていた。


 私と慶介の微妙な距離間は中々縮まらない。それでいつも憂鬱になってしまう。




 不思議と可愛かったなと香奈のことを思う。


―運命の人は誰だろう?


 ふいに昔からしていた妄想を思い起こす。女の子ってどうして魅力的なんだろう。それはつまり僕がそういう人間だからだろうか。


―奏……


 僕はずっと彼女のことを追いかけていたのか、それとも彼女が僕のことを追いかけていたのかは知らない。


 授業が始まる。もう何度も聞いたようなことを先生が説明し始める。参考書にはやたら小難しくそれでいて自明なことが書かれていた。


 馬鹿馬鹿しいけれど、僕は馬鹿みたいに勉強していた。とにかく何か夢中になれるものが欲しくて、内心に湧き上がるのは激しい衝動と、心の底にしまわれ閉ざされた劣等感だった。僕は自分がバスケをやっているところも、顔も、勉強しているところも好きじゃなかった。奏を手に入れたのに心はなぜか空虚だった。


 そんな風に僕は香奈のことを考えながら授業を受けていた。昼休みには購買でパンを買った。


 割と自由な校風だった。僕はその中にぽつんといた。校舎の窓の外からさす、穏やかな緑の葉に包まれた光がやけに印象に残った日だった。


 家について、僕は引き出しからトランプを取り出した。パラパラとトランプの束をめくり、ハートのエースとスペードのクイーンを引いた。


―僕の運命の人は?


 僕は二枚をくるくると爪ではじいて、机の上に落とした。机の上のカードは両方裏返しだった。


 夜のベッドの中で僕はスマートフォンで奏と話した。


「何してるの?」さかんに奏は聞いてきた。


「うん」僕は相変わらず、パソコンで何かを調べていた。


 割と多い僕のくせだ。夢中になると相手のことを忘れてしまう。


「もう切るよ?」奏がそう言ったとき、いらっとした。


「うん」


僕から電話を切った。


その日、僕は不安で眠るのが遅くなった。夜の不安が毎夜やってくる。そのたびに、僕は奏のことを思い出す。でも不思議と今日は香奈のことを考えていた。


そして不意に高校での思い出を思い出した。


それは高校一年生の時のことだった。僕は比較的進学校の都立のこの高校に入学したが、本当は国立の遥か上の高校を目指していた。それで落ちて滑り止めのこの高校に入学したが、僕の胸の中にはこいつらと同じだと扱われたくないという虚栄と劣等感があった。周りのやつはなぜか冷たく、俺はなめられまいとそいつらに歯向かっていた。


僕の高校時代の悲しい話だった。僕にはやつらに歯向かったせいで、途端に冷たくあしらわれ、そしてある日、僕は耐えきれずに泣いた。授業中、英語の授業の時だった。人目をはばからずに僕は許してくださいと心の中で叫んだ。


授業が終わり、昼休みに一人の女の子が僕の元へやってきた。


「別に怒ってないよ」彼女は、奏は僕に始めて声をかけた。


 ずたずたになったプライドを抱え込み、僕は彼女を殺してやりたいと思ったが、もう歯向かう気力もなかった。


「うるせーよ」僕は奏にそう言い張った。


 あまりに屈辱的で僕は涙を流した。過去の自分があまりに嫌いすぎて、人が冷たすぎて、僕は周りが嫌で怖くて、死ねばいいと思って、誰にも助けてと言えなかった。


「これくらいで許してくれよ」僕は強がってそう言った。


「うん」奏はそう言った。


 奏との出会いだった。ふいに僕はいじめられていた過去を受け入れた気がした。


 昼休みのパンを奏と食べた。どうして僕はあれほど人前で泣くことを怖れたのだろう。僕の中にある皮肉はやつらへの小汚さにあった。


 どの本にも、昔の小説にも書かれているように、天才とは常に純粋なものらしく、僕は周りの人間の適当さ弱さに絶望していた。

 



 家に帰りうんうんと考えているうちに、ふいに僕は一冊の本を開く。


―あれ? こんなところに本なんかあったかな?


 ページをめくり始めると、不思議な感覚がした。飲み込まれていくような、何かの波動のような。瞬間僕は、夢の中にいた。


 いったいここはどこなのだろう?




 学校に通っていたころのことは、特に高校時代は放課後の教室の窓から射し込む夕日と階段を降りたときの景色しか覚えていない。


 いったいあの頃はいったい何だったのだろうと今になって思う。


 校舎の外から差し込んでくる日差しがまぶしくてそれが窓をきらきらと照らしている。もう少し学校に通えば長い夏休みがやってくる。


それは本当に長く孤独な夏休みだ。この高校に来てもう二年以上が経ったが、前の二年間の夏休みを思い出せばこの先がどうなるのかなんて想像につく。最終学年を迎えた僕にとってはこの高校で最後の夏休みだ。来年には受験が控えている。


時間はとめどなく過ぎていく。こうして高校の建物の教室から外を眺めていてもそれは同じだ。だけれど到底それは夜のように生易しく一瞬のうちに過ぎ去るわけではない。僕にとってはこの時間帯が何にも増して苦痛であり、いますぐにでも逃げ出したい衝動に駆られるのだった。


昼休みの喧騒の中、男女が入り混じって楽しそうに話をしているが、時折大きな笑い声が響いて、それが自分のことを笑っているのではないかという気がしてしまう。体は無意識にこわばりクラス全員が敵だと錯覚する。髪を染めることは許されていないが、決まった制服はなく、各々が好きな制服を着ている。皆ラフな格好をしていて、男子生徒は髪をワックスで立たせているし、女子生徒は薄く化粧をしていた。僕は白いワイシャツに黒い制服のズボンという格好で机の上に置かれた弁当だけを見つめていた。蓋を開けると弁当の匂いがしてくる。それは今の僕には到底食欲を促すようなものではなかった。




 僕は箸を入れ物から取り出して、胃の中に母親が今日の朝に作った弁当を流し込んでいった。早く弁当を食べ終えて真っ先にここから抜け出そうとしていたのだ。母親が作った弁当の量が多い気がして僕はそんな些細なことに対してすら母親に敵意を抱いた。


「どうして友達を作らないの? そんなんじゃまともな大人になれないわよ」


 母親は僕の学校生活を見抜いたのか僕自身が打ち明けたのか知らないがある時そう言った。僕は心の底に鉛のような感情を覚え、もう何もかもが嫌になった。母親にもうこの学校にはいたくないから通信制の高校に入りたいと言ったところ、「逃げるの?」という返事が返ってきた。


どうして自分が辛いのを理解してくれないのか僕にはわからなかった。


 弁当の中のご飯と野菜炒めと肉の巻かれた人参といんげん。僕はそれを胃の中に押し込んでいった。昼休みになったところで全く食欲はわかず、インターネットで調べたところによるともしかしたら僕は自律神経失調症なんじゃないかと思った。もうとにかくストレスがひどかったのだ。

 

味も匂いも感じない弁当だった。母親なりに朝早く起きて一生懸命作ったことは感じられる。都内の中でも上位に位置する高校で、中学校の頃はこうなるなんて到底想像していなかった。それが今はこのざまだ。クラスの中に一人も友達はいない。この学校の中に唯一いるのは同じ中学校だった友達一人だけだ。そいつは僕とは違うクラスだった。


 頭の中に鳴り響く喧騒。五時間目と六時間目は歴史と英語だった。僕は授業中ろくにノートもとらずテスト勉強もしないので順位はほとんど最下位だった。しかし全くの最下位でないのは僕と似たような境遇のやつや授業についていけないやる気の失せたやつがいるからだった。


 僕は弁当を食べ終えると、真っ先に屋上へと向かった。屋上の扉は常時閉鎖されている。しかし、僕は一度授業の時、体育倉庫の鍵を借りにいくときにこっそりと屋上の鍵を盗んだのだった。先生たちは当然僕が屋上の鍵を盗んだことには気づかず、生徒たちにもそのことは伝えられなかった。


そもそも屋上の鍵をいつどこで使うのかすら僕は知らない。だから何かの工事かなんかしていなければ、誰も屋上にはやってこない。もしばれたらと思うとぞっとするが、僕はある意味そういうところは度胸が据わっていたのだ。


 屋上へと向かう階段を昇っているといつも心が癒される。僕はこの昼休みの時間が好きだった。屋上のドアは鉄の扉で閉鎖されていて、僕は後ろの方に誰もいないことを確認して扉を開ける。外から強い太陽の日差しが差し込む。一瞬視界が真っ白になる。そして屋上の緑色の床や網目状の柵や空が一面に広がる。僕は静かに屋上の上に出て扉の鍵を閉める。そして辺りをゆっくりと耳をそばだてながら歩いていき、誰もいないことを確認する。


いつものように誰もいなかった。教師たちはおそらく僕が真面目だと思っているので、まさかこんなことをしているなんて想像もしていないだろう。僕は屋上の日差しで熱くなった上に出っ張っているところに腰をかけた。あんまり淵へ行くと、グラウンドから僕がいることがばれてしまう危険性がある。


僕はポケットからソニーのウォークマンとイヤホンを取り出した。そしていつも聴いている洋楽のロックを聴いた。屋上は日差しでまぶしく肌が焼かれるようだが、風が吹くと涼しかった。なんとも爽快な気分だ。だってここには誰もいないのだから。


 僕は携帯電話で時間を確認しながら音楽を聴き続けた。グラウンドから時折叫び声がイヤホン越しに聞こえてくるが、今はそんなことは気にならない。あと少し学校にいれば僕は家に帰ることができる。そして好きなだけインターネットをする。


受験は来年に控えていたが、今の僕は予備校にも通っていなければ学校の勉強もしていない。一応参考書を買ってはくるのだが、大体三分の一程度で終わってしまう。なによりも部屋の中で机に向かって勉強をするのが怖いのだ。僕は勉強をしようとするたびに孤独感に襲われる。だからもうろくに勉強ができなかった。


両親にしても中学校の頃、僕が一生懸命勉強しクラスの中でも優秀な成績をとってくるのを知っていたので。今のこんな状況でも僕に対してしつこく勉強しろとは言わなかった。僕はあたかも部屋にこもって勉強をしているように見せかけていたが、本当はずっとパソコンをいじっているだけだ。僕は表面上は真面目を演じることができるのだった。


 昼休みはあっという間に終わりを告げる。なぜかこの時間だけは過ぎるのが早い。そして僕は教室に戻るまでの時間を計算しながら、屋上を後にするのだった。下の階から響いてくる声が僕の気持ちを憂鬱にさせた。そして何より女子生徒に無様な自分自身の姿を見られるのが屈辱的だった。


 教室に戻っても誰も僕に注意すら向けない。彼らは皆それぞれ塊になって楽しそうに笑っている。僕は一人で机に突っ伏して、歴史の先生がやってくるのを待った。それからすぐにチャイムは鳴り、歴史の若い男の先生が教室に入ってくると皆は一目散にそれぞれの席に戻っていった。


先生は年が二十三歳で大学を卒業してすぐにこの高校へやってきたらしい。僕には本当にどうでもいいことだったが、年が近くて明るく、顔も悪くないことから女子生徒に人気があるらしい。本当に僕にとってはどうでもいいことだった。


 授業中、僕は後ろの席から前の方にいる女の子の背中を眺めていた。谷川という名前の女の子だったが、僕はその子に恋をしていたのだった。彼女に彼氏がいるとかそういうことは一切知らなかったのだが、この間別のクラスのやつと付き合い始めたことが友達のいない僕の耳にまで届いてきた。


僕は心の底からショックを受けて、それが数日続いた。それでもなお彼女への恋から逃れることはできなかった。僕の頭の中には現実と矛盾する彼女との妄想ばかりが占めていた。そして妄想の中で僕は好き放題彼女に対して好きなことをするのだった。


憂鬱が続きそんな妄想をすればするほど僕の心はえぐられたように傷むが他にすることもない。これはある種の現実逃避だと考えた。そして僕はもはや現実では周りの人たちのように生きることはできないのだと悟っていた。


 谷川は時折髪を触ったり、黒板の文字をノートに写したりしていた。僕はそんな姿を眺めるのが好きだった。そしてどうしようもないくらい彼女と自分の差に絶望するのだった。一応これだけ近くにはいるけれど、到底僕たちが付き合ったりなんかすることは不可能だろう。僕自身鏡を見れば自分が醜く感じ、とてもこんなやつとは一緒にいたいとは思わない。


 チャイムの音がしたとき先生は夏休みのことについてありきたりなことを言った。そして授業は終わった。僕は再度机に突っ伏した。もしかしたらこうやっているのが周囲からは奇妙に見えているのかもしれない。


「あいついつもああやって寝てるよな」


 そうわざと僕に聞こえるように悪口を言ったやつもいた。僕は心の中で憎しみと悲しみを覚えた。他にもなぜだかわからないけど、僕に対して陰口を言ってくる奴がいた。僕にはどうして彼らが何もしていない僕をさらに傷つけようとするのかが理解できなかった。


もう何もかも嫌になって十分苦しんでいるはずなのに、さらに痛めつけようとするのだ。それでも僕は学校にはちゃんと通い続けた。たまにさぼって公園に行ったり街中を歩いて帰る日もあったが、そういうのは二週間に一度くらいにしていた。親にも言っていないし、僕の担任は温厚な人なのでそれについて咎めたりはしなかった。


僕は頭の中で残り何日で卒業できるか常に数えていたのだ。どうも受験の前の三学期は自由登校になるらしかった。だからあと数か月で学校に行かなくてもよくなる。僕は頭の中でいつもこうやって計算しながらこの地獄のような高校生活を耐えていた。

 

その日の英語の授業は先生がこなかった。代わりにライティングを教える英語の先生が後になってやってきて、先生は学校を辞めたと僕たちに告げた。確かに少し様子がおかしかったなと僕は先週の授業の時思っていたが、まさかこうなるとは思わなかった。事情は教えてくれなかった。


もちろん僕にとってもおそらく他の生徒にとってもどうでもいいことだった。現に他の生徒は何事もなかったかのようにこそこそと話をしている。そしてライティングの先生は今日は授業がないからといって自習しているように僕たちに言った。


一応進学校だったので周りの生徒たちはそれぞれが参考書を取り出して勉強を始めた。僕もそれにならい少し難しめの数学の参考書を取り出したが、僕の実力では解けなかった。谷川は隣の男子と少し話しながら自習していた。そいつはクラスでも目立つやつでサッカー部に所属していた。谷川はバスケ部で、僕は帰宅部だ。


 こうして先生がいるだけで休み時間のようなしんどさは薄れていく。僕は解けない数学の参考書を眺めながら、またくだらない妄想にふけっていた。頭の中には自分が将来活躍する姿を描いていて、その隣には谷川がいるのだ。


こんな妄想をもしこの教室の誰かにでも知られたら僕は真っ先に死んでしまうだろう。それくらい僕は自意識過剰だった。とにかくこうなったのも僕が人目を気にしすぎてしまい、自分に自信が全く持てず、人に話しかけたり気楽に話せないせいだった。


僕はつくづく周りの人達を見てうらやましいなと思っていた。窓の外がほんの少しだけ昼間の日差しの強さを和らげる。おそらくまだ外にでたら日差しはじりじりと肌を焼くと思うが、日が沈むころには涼しい風が吹いているだろう。 


英語の自習の授業が終わり、ホームルームが始まると担任の先生もさっきの歴史の先生のように夏休みをどう過ごすかという受験に関わる話を始めた。そしてホームルームが終わったとき、僕がふと窓の外を見たら綺麗な懐かしさを感じさせる濃いオレンジ色の光が窓から射していた。僕は学校から解放された清々しさを感じながら下駄箱まで一目散にかけていった。そして誰よりも早く教室を後にしたのだった。




夏休みが明けても教室の中も学校全体も何も変わらなかった。一か月以上僕はほぼ一人でいた。一日だけ今は違う高校に通っている中学の時仲がよかった友達と遊んだが、それも一度きりでもう一日遊ぼうとするとやんわりと断られるのだった。僕自身もプライドからそれ以上強く言い出せなかった。彼は僕よりも上のレベルの高校に通っていて、東京大学を来年受験すると言っていた。正直僕は東大だろうと京大だろうと一橋だろうともうどこでも印象は変わらなかった。


高校に入る前は自分も東大に入る気でいたのに、今となっては中堅の私立大すら厳しいような状況だった。それでもなんとか苦しみながら勉強をしてどこかに入ろうとしていたのだ。うちの父親は大企業に勤めているし、母親も今は専業主婦だが、昔は名の知れた大学に通っていた。だから僕も両親のようにいい大学に行きたいという願望はあったが、なかなか現実は厳しい。決して頭は悪いわけではないのに、人間関係が上手くできないせいで勉強もできないのだった。


相変わらず教室の中は騒がしいが冬休みが来ればもうここに来なくてもいいのだと思うと、気が楽だった。そして二学期からは授業は午前中で終わった。僕は一時間目、二時間目、三時間目、四時間目、その間の休み時間を激しい退屈と屈辱感を感じながら過ごしたが、もうそこで苦しみからは解放された。そして昼休みのように机で一人で弁当を食べることもなければ、屋上へ行くこともなかった。


バッグの中の内側のポケットに隠した鍵も今となっては不要だった。そして周りも受験が迫ってきたせいか少し空気が張り詰めていた。休み時間も大声で話している人が減り、自習をしている人がちらほらと見え始めた。学校は今までの二年以上よりはるかに居心地のいい場所になっていた。




その日、四時間目の授業は数学だった。文系のクラスだったが、国立大学を受ける人が大半だったので数学もあったのだ。僕は受験に関係なかったので、適当に話を聞き流しながら谷川の方を見ていた。そして授業が終わったとき、谷川が後ろの方を向いた。


僕は視線をそらしながら窓の方を見ていた。少しずつ谷川が近づいてくる。どうせ通り過ぎていくだろうと思っていたが、僕の席の前に谷川は立っていた。


「中村君」


 谷川は澄んだ声で僕にそういった。生真面目さと上品さを兼ね備えたような僕の好きな声だった。僕はおそるおそる彼女の顔を見た。気のせいだと思ったが、その時僕は彼女が少しだけ恥ずかしがっている気がしたのだ。もちろん僕たちは同じクラスになってから話すのはこれが初めてだった。そもそもこの教室で誰かと話をすることすらほとんどなかった。


「何?」と僕はできるだけ冷たく平静を装って聞いた。


 僕は高校生になっても女子と話をするときは緊張してしまい、こうやって冷たい態度をとって打ち解けられないのだった。


「話があるんだけど……」


 谷川は僕にそう言って、しきりに髪を触っていた。僕は自分の胸が激しく鼓動しているのを感じた。谷川はその先をなかなか言わなかった。僕はクラスの周りのやつらが僕たちのことを見ている気がしてそのことばかり気にしていた。


「この後時間ある?」


「別に、暇だけど」


 僕はそう言ったが、内心話の意図が全くつかめなかった。ただどうせろくなことではない気がしていた。


「じゃあ途中まで一緒に帰ろ」


 彼女は僕の目から目をそらしてそう言った。僕は明らかに緊張していたが、内心うれしかったのだ。


 僕たちは鞄を持ってホームルームが終わると教室を後にした。谷川が前を歩いて、僕が後ろから付いていく格好だった。周りから見たらどれだけ奇妙に見えるだろうかと僕は思った。


 いつもは一人で降りる階段が彼女がいるだけで、少し心強かった。ただ相変わらず僕の中で彼女に対して格好の悪いところを見られたくないという意識が働いていた。しかし、実際は下駄箱で靴を取り出すだけでもなんだかぎこちなかったし、内心この後どうなるのか不安でもあった。


 谷川は僕の隣を歩きながら「中村君と話すのなんて今までなかったよね」とか「中村君て静かだよね」とか「受験どこ受けるか決めたとか?」いろいろなことを聞いた。


 そして僕はそれに対してなんて答えたらいいかわからず曖昧な返事をしていた。僕は若干谷川の話すことに対して反感を抱いていた。しかし、今の僕にはもうそれに対して歯向かうこともできず、ただ恥ずかしくて緊張してどうしようもなかったのだ。


 そしてぎこちない会話が続いた後、僕は「話って何?」と谷川に聞いた。


 住宅街の中の道で残暑の午後の日差しが照り付けていたが、ほんの少し秋の到来を感じた。


「実は文化祭の準備を手伝ってほしいの」


 谷川は僕にそう告げた。僕は谷川が何やらいろいろな委員をやっていることを思い出した。そして彼女はクラスの中でも成績がよく国立大学を受験するつもりだとさっき僕に言っていた。


「別にいいよ」


 僕は谷川がそれ以上何も言わなかったので、そう言った。確かに三年生の文化祭は皆受験で力を入れないし、真剣に受験を控えている人は参加することに反感を持っているようだった。だから準備をする人は少ないし、おそらく僕みたいな劣等生なら受験の前でも暇だと思ったのだろう。ただ僕は純粋にこうして谷川の隣を歩いていることが嬉しかったのだった。


「ありがと」


 谷川は前を向いたままそう言った。そして僕たちは駅前まで歩いていた。改札を抜けると僕たちは別々の駅のホームに歩いて行った。


 僕の胸には今までに感じたことのないような喜びが広がっていた。そして大したことではないはずなのに、今の僕は自分の人生に希望すら見出したのだった。駅のホームに続く階段を僕は弾む気持ちを必死に抑えて昇って行った。ちょうどホームには電車が来ていた。そして僕は駆け出した。




 それからの日々も特に変わりはなかった。文化祭の前に僕は谷川と準備を手伝うと約束したが、初めに準備をする人だけで集まった時に雰囲気に馴染めなかった。クラスの中でも比較的真面目そうな人たちが集まっていて、余計に僕はなんだか浮いているような気がした。


皆それぞれがどんな出し物をするかや役割をどう分担するかを話し合っていたが、僕は一言も話さなかった。そして机の上でシャープペンシルをただいじっていた。時折谷川の方を見たが彼女は文化祭の実行委員をやっていたのでとても忙しそうでたくさんの人と話をしていた。僕はそんな光景を見てまた憂鬱になった。


話し合いの終わりのほうで僕は看板を作るという役割のグループの中に入れられた。たまたまそのグループに充てられた人数が多かったので余っていたのだ。グループの人たちはやはり仲のいい人どうしで固まっていて、到底僕がそこに馴染めるような感じではなかった。気まずい思いをしながらじっと周りの人が話をしているのを眺め続け、解散とともに鞄を持って真っ先に家に帰った。


そしてそれ以降僕は文化祭の準備をさぼり続けた。僕はそのグループの中の誰一人と話したこともなかったし、別に普段から僕は掃除などもさぼるようなやつだったので、周りも僕に何も言ってこなかった。


そんな風にして時間は過ぎていったが、時折谷川とはすれ違ったり目が合うことがあった。でも彼女は初めて僕に話しかけてきてくれた日のように僕と目を合わせてくれなかった。文化祭の準備のことについても何ひとつ言ってこなかった。もちろん僕もプライドから谷川とすれ違うと目をそらすようになった。




 そうしているうちに文化祭の日がやってきた。僕は下の階から他のクラスの出し物をいろいろと見て回った。しかし一人だったので、どこにも入ることができず、しかも周りは皆二人以上で気まずかった。そして僕はすぐに嫌になって家に帰った。家には母親がいて僕に文化祭についていろいろなことを尋ねたが僕は適当に嘘を交えて返事をした。


「そういえば受験は大丈夫なの?」と母親は僕が部屋に行くとき聞いた。


僕は部屋でパソコンを開き、インターネットで大学について調べ始めた。学校などで行われる模試などには一応参加していたが結果は芳しくなかった。僕は適当に偏差値の表を見て受験する大学を決めた。


 そして高校が午前中で終ると午後にいくつか大学を見に行って気にいったところの願書をもらった。中堅の私大は受かるかどうか微妙だったので、滑り止めにあまり名の知れていないところも見に行って願書をもらった。


 それから年末を迎え、いよいよ受験の時期になった。年末には家族で祖父母の家に行った。新幹線に乗って東京から北陸に向かった。向こうはとても雪が降っていて、在来線は何度も途中で止まった。僕は祖父母の家に行くたびに東京との環境の違いを実感した。そして僕は都会よりもこういう田舎の方が合っているんじゃないかという気がしていた。


そういえば聞いたところによると僕の高校でも地方の国立大学を目指している人たちがいるらしい。彼らは僕と違って大学に受かったら一人暮らしをするのだろう。祖父母は僕たちのことを優しく出迎え、様々な料理をふるまってくれた。


僕は数冊の薄い参考書を持っていって、暇な時間にそれを読んでいた。両親にも僕が一応勉強をしているという印象を与えておきたかったのだ。年が明けるとき僕は布団の中で眠りについていた。朝、窓の外の雪景色を布団の中で眺めながらもう年が変わったのだと実感した。




東京へ帰ってきて三学期が始まっても、僕はもう学校へ行くことはなかった。年が明けると東京にも雪が散らつくようになった。あまり東京には雪が降らないが、今も窓の外には粉雪が降っていた。家の二階の窓から僕は暖房の効いた部屋の中で外の景色を眺めていた。


学校に行かなくていいようになり、いくらか孤独感も減ったことから少しずつ勉強は進んでいた。過去問を解いた限りだと一つのそこそこ有名な私立大学に受かりそうだった。僕は前の年にその大学を見に行ったが、雰囲気がよくて気にいっていたのだ。勉強をするのにも疲れると、僕は一階のリビングへ戻り、母親と話すかこたつの中でテレビを見ていた。


「勉強しなくて大丈夫?」と母親はしばしば僕に言ったが、「ちゃんと部屋でやってるよ」と僕は返事をした。夜は早めに寝るようにしていた。学校に通っていたころは夜更かしばかりしていたが、早く寝たほうが勉強がはかどることに気づいたのだった。


 受験当日もやはり外には雪が舞っていた。僕は雪に覆われた道路を歩いて駅まで行った。電車は少し遅れていたが、早めに着くようにしていたので問題はなかった。僕は電車の中で谷川のことを考えていた。彼女も今こうして大学の試験会場に向かっているのだろうか。


そして彼女とももう会うことはなくなってしまうのだろう。不思議とそのことに対して僕は悲しみを抱かなかった。そして会場に着くまで参考書の赤線を引いたところを何度も見ていた。会場に入ると自分と同じ高校生たちが何百人もいた。僕は試験番号の該当する教室に入って自分の席に座った。そしてテストが始まると淡々と問題を解いていった。


そんな風なことをおよそ一週間以上続けた。僕は受験が終わると一気に体から力が抜けた。そして今まで我慢していたテレビやらインターネットやらゲームを好きなだけやった。内心合格しているか不安だったが、それからしばらくしてなんとか合格通知を手にすることができた。僕が一番行きたかった大学には落ちてしまったが、それはもう過去問を解く段階で大体わかっていたのだ。




卒業式の日、クラスの中は妙な感じだった。なんだかみんな浮足立っているように感じた。皆はそれぞれ興奮しているように見えた。そして話題はおおむねどこの大学に受かったかとか今後の将来に関する話だった。僕は机の上に肘をつきながら皆のことを見ていた。もう今となっては一人でいることに恥もなかった。


体育館へ行くと大勢の生徒たちがいた。時間になると一通りの式が始まり、校歌を歌ったり、校長が話をしたり、この高校を卒業した有名人からの祝辞が読まれたりした。僕たちは式が終わると一様に教室に戻った。中学とは違って卒業式はとてもあっけないものだった。それでも女子生徒の中には泣いている人もいた。クラスの中は少し悲しい雰囲気だった。それでも時折誰かが冗談を言ってみんなが笑ったりした。


担任がやってくると、話をしていた人たちは席に着き、いつもとは違って皆が真剣に話を聞いていた。担任は目に涙を浮かべながらいろいろなことを語る。でも僕の胸には何一つ響いてこない。一人一人に卒業証書が配られた。皆が拍手で迎えられながら受け取りにいく。僕は自分の順番になると黙って立ち上がり、若干反感を持ちながら無言で卒業証書を先生から受け取った。


「お前がちゃんと卒業できて本当によかったよ」と担任は言った。


 僕にとっては本当にどうでもいいことだった。ただ担任の言葉には何かしら感情に訴えかけるようなものが含まれていることはわかった。そして次の人の名前が呼ばれ、僕は自分の席に戻った。


あと少しでもう二度とこの高校に足を運ぶことはなくなる。そう考えると胸の中に沸き立つ興奮を感じた。そしてホームルームが終わったら真っ先にこの教室を飛び出していこうと思った。


 先生が最後の言葉を口にしたとき、僕はもう片手に鞄を持っていた。そして立ち上がった時にふいに前の席に座っていた谷川が後ろの僕の方を向いた。僕は最後に彼女の顔を自分の記憶の中に刻んでおこうと思った。


僕の恋はまだ終わっていなかったのだ。そしてなんだか感傷的な気持ちになっていた。谷川があの時のようにまたこちらの方へやってくる。目は僕の方を見ていた。僕は最後だからどう思われてもいいと思い、彼女の顔を見つめていた。そして谷川は僕の席までやってきた。


「結局文化祭の準備してくれなかったね」


 谷川は少し冷たく、でも少し愛嬌混じりに僕にそう言った。


「いまさらそんなこと言ったってしょうがないだろ」と僕は少しあざけるように言った。


「もう帰っちゃうの?」


「他に何するんだよ」


 谷川はふいに下を向いた。そして僕は急に不思議な気分になった。一瞬教室の中が静寂に包まれた気がした。いったい何が起きたのか自分でもよくわからなかった。谷川は下を向いたまま涙を流していた。


そしてそれを必死に拭って隠そうとしていた。僕は気まずくなり周りを見渡したが、周りの生徒も悲しそうな表情を浮かべ目に涙を浮かべていた。そりゃあ確かに卒業するのは悲しいことだが、僕にとっては別にどうでもいいことだったのだ。それなのになぜか今皆が僕のことを見ているような気がしていた。


「もう帰るよ」と僕は言った。


 僕は何かこの教室全員に対して特に谷川に対して少しでも復讐のようなものをしてやりたかったのだ。


 谷川は下を向いたままただ目を手で覆ってうなずいた。そして僕はやけに静かな教室の中を後にしたのだった。階段一段一段を下りていくたびに僕は開放感を感じていた。徐々に自分が解き放たれていくようだった。


そして一瞬振り向くとそこには長い間通ってきた階段があった。僕はこの高校に来てからというもの辛い思いしかしてこなかったのだ。それでも胸の中にほんの少しだけ切なさを感じるのは最後に谷川が僕に話し掛けてきてくれて、僕が彼女に恋をしていたせいだろうか。


 校舎の外には冷たい風が吹き渡っていた。でも妙に体が興奮しているせいで今はそれが心地よい。もう一度校舎全体を見渡す。もしかしたら楽しい幸せな高校生活もあったのだろうか。でもとにかく僕はもうこの高校を卒業したのだ。


そしてもうおそらく二度とこの校門をくぐることはないだろう。僕は家に向かう道を一歩踏み出した。その時ふいに後ろから声が、僕の名前を叫ぶのが聞こえた気がした。振り向くとそこには美しい一人の僕が恋をした彼女がいた。




 彼女はいったい今どこにいるのだろう。そんな疑問がふと頭の中を巡る。僕は一度だけそれも二十歳を越えて働き始めたころに彼女に偶然あったことがある。


 僕たちはずいぶん変わってしまっていたような。僕だけだろうか。もしかしたら変わっていないのかもしれない。


 ふいに蘇るのは凄惨な過去だった。


 頭の中に鮮明に浮かぶ光景。深い青色の海。赤い太陽に照らされた世界。夕暮れの沈んでいく夕陽が海面を照らし、鉛のような鈍い光を反射させている。日が沈んで涼しい風が潮の匂いと共に体に吹き付ける。隣に誰かがいて、風になびく長い髪や香水の匂いを感じるが、顔は周りの景色から削り取られたようにわからない。とにかく僕は誰かの隣で海の景色を眺めていた。不思議なことにその記憶だけが唯一僕に残されていたのだった。


 白いおぼろげな光が眼孔に差し込む。どうやら長い間目を開けていなかったらしく、目を必死に開けようとしているのに思い通りにならず、視界はぼやけたままだ。それでも僕はやっとの思いで目を開けた。


意識を取り戻すとそこは白い天井と壁に覆われた部屋の中だった。いったい今まで何をしていたのか、自分が誰なのかもよくわからず、まるで初めてこの世に生を受けた時のように自分の体を覆う服や布団、病室の窓、ベッドの周りにいる人達を見たのだった。


「起きたの!?」と大きな声で僕の周りを取り囲んでいた一人の女性が叫んだ。


 他の人たちも何やら皆それぞれ声を出して騒がしいが、僕はそんな彼らの様子をただぼんやりと眺めていた。自分でも最初は一体今がどういう状況なのかさっぱり把握できなかったが、脳内に彼らの話す言葉の端々が刻まれていき、だんだんとそれらが意味を持ち始める。そして徐々に僕は自分の置かれた状況というものを理解したのだった。


「僕はいったい……」


 僕の口から無意識にそんな言葉が飛び出した。自分でも言葉の文法やらなんやらがぼんやりとしていて、はたして口から出てきた言葉がどんな意味を持っているのかすぐにはわからなかった。


「やっと目覚めたのね!」


 若い僕と同い年くらいの女性が僕に向かって大きな声でそう言っていた。彼女の眼は少し潤んでいるようにも見えた。よく見ると彼女は長い髪をしていて、それを後ろで束ねていた。花柄のワンピースを着ていて、肌は少し日に焼けているようで浅黒く、顔立ちは整っていて、香水の匂いがした。どこかその匂いが僕に懐かしさのようなものを感じさせた。


「あなたもう三日も目を覚まさなかったのよ。私がどれだけ心配したかわかる?」


 僕は何も言えないまま黙って僕の腕をつかむ彼女の目を見ていた。彼女は真剣に潤んだ瞳で僕のことを見ていた。いったい自分の周りにいるのは誰なんだろうと僕は思った。でも僕の頭の中に自分が今いるのが病院だということはわかっていたので、おそらく僕の周りにいる彼らが僕の家族なのだろう。


「何も覚えてない。いったい何があったの?」


 僕は小さな声でそうつぶやいた。彼らは僕の言葉を聞いた瞬間お互いが目を合わせて戸惑っているように見えた。僕の体はどうやら何かで固定されているらしく、動かそうと思っても重い通りにならない。それどころか、体の右半分は少し動かそうとしただけで激痛が走るのだった。


「あなた交通事故にあったことも覚えてないの?」


「交通事故? それはいったい……」


 僕はそう言われて戸惑いそれ以上何も言えなかった。本当に自分の中から記憶というものが欠落してしまったのだと実感した。目の前には同い年くらいの若い女性と中年の男女三人が立っていた。皆心配そうな表情で僕のことを見ていた。おそらく中年の男女が僕の両親で若い女性は僕の姉か妹なのだろう。皆シンプルだけれど少し上品な服装をしている。縞の入ったポロシャツを着た僕の父親と思われる人物が二人の女性の間から心配そうにこちらを見つめていた。僕が目を合わせても自然な表情を崩さない。おそらく僕たちは親しい間柄なのだと思い知った。


頭の中にもう一度何か残っていないか探してみたが、そうすればそうするほど、赤い太陽と暗い青色の海がよみがえってくるのだった。それはなんとも奇妙なことに思えた。よっぽど印象的な光景だったのか、それともそれ以外覚えていないからそれほど強く印象を感じるのかはわからない。


僕はぼんやりと病室の白い壁を眺めていた。今この状態で僕が他にできることは思いつかなかった。ベッドの隣の窓には午後の日差しに照らされた公園と木々が見える。オレンジ色のおそらくもうじき日が沈みそうな世界の中を数人の子供たちが声を出しながら駆けていくのが見えた。


「とにかくあなただけでも生きていてよかった。安心したわ」


 僕の母親と思われる中年の女性がそう言って僕の手を掴んだ。温かい皮膚の感触がして、急に僕の体に安心感がこみ上げてくる。体中から力が抜けて、僕の心の中にあった漠然とした不安が少し和らぐ。おそらくその肌の感覚はきっと僕の子供の頃からあったものなのだろう。まったく記憶がないのに、なぜだか僕はそうされて、周りの人々に対して親近感を抱くことができた。


僕は起こされたベッドにうなだれながら母親と思われる女性の顔を見ていた。薄く化粧をしていて皮膚にはしわがあったが、まだ元気そうに見えた。そしてそれ以上に僕は彼女が僕の母親で周りの人々が家族なのだとようやく直感的に感じることができた。そしてそう思えばそう思うほど、自分自身に記憶がないのがなんだか申し訳なくなってしまい、僕はそれ以上言葉を発することができなかった。


 僕にはあの時一緒に海を見た人が誰なのかいまだに思い出せずにいた。そして自分の家族にさえ、一緒に過ごしたであろう日々の記憶が一切なかったのだ。


「とにかく助かってよかった。お母さんもお姉ちゃんも毎日こうやってお前のお見舞いに来ていたんだ」


 ポロシャツを着た少し白髪交じりの中年男性が僕に向かってそう言った。やはり僕の推測は正しかった。目の前にいるのは家族だったのだ。今一度、僕は家族の顔を見渡した。けれど何ひとつ思い出せず、それはまるでまったく味のしない食べ物を食べさせられているような気分だった。どうやら完全に自分の中から記憶は欠落してしまったようだった。  


それとも一時的に忘れているだけだろうか。もし思い出せるならいいけれど、記憶を完全に失っていたらと思うと急に怖くなる。僕は掛布団の端を両手でつかもうとするが、片方の手しか動かず、もう片方は完全に体に固定されているので動かせない。僕は動く方の左手で柔らかいおそらく洗濯されたばかりの少しいい匂いのする布団の端をつかんだ。


「事故があった時のことも思い出せない。僕は車に轢かれたの?」


 家族の皆を見渡してそう言ったけれど、返事はすぐに返ってこなかった。何か言ってはいけないことを言ってしまったような気さえした。


「あなたは恋人と車に乗っていたの。どうも海に行った帰りだったみたい。夜で視界が悪いカーブのあるところで電信柱にぶつかったの」


 僕の姉は静かにそう言った。


「じゃあ僕の恋人は?」


 僕は極端な緊張を感じながらそう聞いた。姉はとても言いにくそうにしていたので、それが悪い知らせだということは想像ができた。姉が口を開いたとき、僕は涙を流した。自分の恋人に関する記憶は海を見た光景だけで彼女の顔さえも覚えていないのに。


「一体……俺はなんてことを……。相手の家族はなんて……」


「あなたの恋人が車を運転していたの。だからあなたは何も悪くないわ」


 今度は母親が強い口調でそう言った。そういえば僕は車の免許を持っているのだろうか。それすらも思い出すことができなかった。そして今一度亡くなった彼女のことを思い出そうとしてみたが、僕の頭の中には何もないことをより思い知るだけだった。


 僕はこのとき、自分に罪がないということに少し安心していたのだった。おそらく愛していた彼女を失ったことよりも、これから先に関わる自分の罪への心配が無意識に出たのだろう。そもそも僕は失った彼女のことを愛していたのだろうか。この胸の中に残る気持ちは彼女を愛していたことから生じたのだろうか。


 おそらく今までの会話と記憶から想定されるのは僕と亡くなった彼女が一緒に海を見ていたということだけだ。もしかしたら事故があったときよりずっと前の記憶かもしれないし、記憶に残るおぼろげな女性は彼女ではないかもしれないけれど、今はその説が一番納得がいくような気がした。僕は頬を伝っていった涙を拭いた。そして家族の方を再度見渡した。皆それぞれが暗い顔をしていて、それが僕が大きなものを失ったことを認識させた。


 姉は肩にかけていた茶色のバッグから一枚の小さな額縁を取り出した。周りが木のフレームでできていて、僕はそれを動く方の左手で受け取った。


「これがあなたの恋人よ。思い出せる?」


 姉は静かな口調で僕にそう言った。写真には僕と思われる少し背の高い男と、横に立っているいかにも真面目そうな女性が写っていた。その恋人はほっそりとしているけれども背が高く、長い黒髪をしていた。一目見て僕は綺麗な女性だと思った。


「何も思い出せない」


 僕はそうつぶやいた。胸の中には憂鬱な気持ちが広がっていた。だけれどもなぜかその時、僕は何かわからないものに対して恐怖を抱いたのだった。もう一度思い出してみようとするけれど、その時、僕は体から汗が流れてくるのを感じた。原因はわからなかったが、僕はそのことを思い出さない方がいいような気すらしたのだった。すると逆に今度は記憶が蘇ってきそうなもどかしい感覚がして、そのことに怯えるのだった。


「本当に何もかも覚えていないのね」


 姉は悲しそうに僕にそう言った。家族の表情は皆心配のため固くなっていて、それが何だか気まずかった。そして僕は汗でにじんだ手で写真の入った額縁を握りしめていたのだった。


「きっと今はショックで一時的に思い出せなくなっているだけだと思うわ。とにかく今はゆっくりと休んで体を治してね。明日もお母さんと私でお見舞いにくるから」


 姉は僕の手を固く握りしめてそう言った。その時僕は咄嗟に額縁を手放して布団の中で汗を拭いたのだった。僕は極力自分が動揺していることを悟られないようにしていた。




 家族が部屋を後にすると、僕は急にまた安心を感じた。部屋の中には白い服を着た一人の僕より少し年上に見える看護師がいるだけだった。看護師はゆっくりと僕の元へとやってきた。


「包帯取り替えますね」


 そう言って彼女は慎重に僕の足を持ち上げた。僕は激しい痛みを感じたが、それよりもさっきから感じている漠然とした不安の方が大きかった。そして今目の前にいる看護師に対して性的な欲求を抱いていたのだった。彼女は背は普通で肉付きのいい体をしていて、胸が大きく、腰はくびれていた。


「さっきの人たちは僕の家族なんですよね? 本当に全くといっていいほど何も思い出せなくて」


「そうですよ。あなたがここに来てから毎日のようにお見舞いにいらっしゃっていました。今は一時的に記憶を失っているだけだと思うので、安心してください」


 看護師はそう言って淡々と作業を進めていた。僕はベッドに倒れこんだまま、包帯が足からゆっくりとほどかれていくのを見ていた。看護師が優しくいたわりながら動かすふくらはぎがずきずきと痛む。だけれど、僕の胸はなぜかどきどきとしていた。そして包帯が完全に外されたとき縫われた痛々しい足があらわになり、冷たく鈍い痛みがずきずきとするのだった。そしてその痛みが瞬間的に記憶の中にある光景を呼び起こした。


―一時的に記憶を失っているだけだと思うので、安心してください。


 そう言った看護師の言葉が頭の中にまるでこだまのように反響する。光が徐々に鮮明なイメージとなって脳の中に再現される。僕は車の助手席に座り、窓に肘をかけてぼんやりと日が沈んでいった海を眺めていた。ガタガタと車が道路の上を走る音が響いている。恋人は僕の隣で前を見ながら必死に運転している。しかし、その目には涙がにじんでいた。車がカーブに差し掛かろうとしたとき、僕の腕が彼女の握っているハンドルに伸びていく。そして僕はそれを力任せに振り切った。その瞬間強烈な衝撃が僕の体を襲った。そして視界は完全な闇に包まれた。


 看護師はさっきからひどく同情したように僕のことをいたわりながら新しい包帯を僕の脚に巻いていた。記憶が急に蘇ったせいで僕の頭にはその時のことばかりが占めて頭に血が上り、そのせいで痛みすら感じなかった。僕はあの時の衝突のせいで記憶を失ったのだった。そしておそらくは自分も死のうとして彼女だけが死んだのだろう。


 いったいなぜ僕は彼女と死のうとしたのだろうか。そもそも自分の社会的な立場もわからなければその恋人とどういう関係でどうしてそんなことに陥ったのかもわからなかった。しかし、彼女が死んだと聞いたとき僕の目には真っ先に涙が流れ、心からショックを受けたのだった。


 看護師は僕の体をいたわっていたため、ずいぶん長い時間をかけて包帯を取り替えていた。窓の外はすっかり暗くなっていて、街灯の明かりが灯っていた。看護師が僕の腕の包帯を取り替えるとき僕の体に看護師の胸が当たった。そのせいで僕の看護師に対する思いはより刺激された。なぜだかわからないけれど、恐ろしい記憶と看護師の体が妙に僕の頭の中で交わって、もう何もかもがどうでもいいような気がしていた。とにかくもう自分は死んだも同然だったのだ。


「いつもありがとうございます。きっと僕が意識を失っていた時もこうしてくれていたんでしょ?」


 彼女は僕の方を振り向いたが、その顔はほんのりと赤くなっているように見えた。


「もう何度同じようなことを繰り返したか覚えていません。なんてことないですよ」


 看護師は僕にそう言って微笑んだ。


「恋人を失ったことは本当に不憫に思います」


 看護師はまじめな口調でそう僕に言った。


 僕は「ええ」と言ってその場を取り繕ったが、正直罪悪感しか感じていなかった。それどころか奇妙な快感すら感じていたのだ。


「あなたは恋人はいるんですか?」


 僕はふいに看護師にそう聞いた。変な意味に受け取られなければいいと思った。


「今はいません。半年前に別れたきりです」


 そう彼女は言った。僕は心の中で一つの空想が浮かんだ。それはこの看護師と恋人になるという発想だった。失った恋人のことが悲しいのに、今の僕にとっては恋人は他人としか思えなかった。それどころか今目の前にいる看護師でさえ他人なのだ。それは当たり前のことなんだけれど、とにかくもう僕の中には人を好きになる気持ちが残されていない気がした。




 夜、カーテンは閉められ、病室の電気が消えた。ベッドの天井を見上げると白くて薄く明るかった。きっと窓の外から街灯か月の光が射し込んでいるせいだ。看護師が去った後僕の元には食事が運ばれてきた。鶏肉のステーキ、ほうれん草のお浸し、にんじんともやしの炒めもの、お味噌汁、ごはん、こんな感じだった。病室には家族が持ってきてくれた本やソニーのウォークマンなんかがあった。おそらく僕が昔使っていたものだろう。僕はもちろん眠ることができなかった。何度も失った恋人のことが鮮明に蘇ってきてしまうのだった。


美しい横顔が鮮明に頭の中に浮かぶ。幻想的なほど広大な海を、沈んでいく夕陽を二人で眺めていたのだった。どんなに美しい景色をみたところで僕の胸には何ひとつ響かなかった。ただその時僕の頭の中に浮かんだのは彼女ともう死んでしまおうという発想だった。どうして僕の心にそんな衝動が沸きあがったのかはわからなかったが、ただもうどうにもならないということだけは自覚していたのだ。彼女にしても手に入れた社会的な地位にしてもそれらすべては自分の欲しかったものではなかったのだ。


今となってはもう鮮明に過去のことを思い出すことができた。小さい頃に友達と遊んだことや親に叱られたことすら思い出すことができた。僕はそこそこの大学に入り、一流の会社に勤めた。そして勤めていた会社で彼女と知り合い、付き合うようになった。二人で週末にどこか遠くへ行くこともあったし、近場で食事をすることもあった。そして二人で海を見た帰り、僕はハンドルを思い切り握りガードレールに衝突した。衝突する一秒前に自分の中で今までずっと我慢してきたものがはじけたような気がした。僕には他にこの世界でするべきことが見当たらなかった。


中学の頃には一生懸命受験勉強をして進学校に進んだ。高校では一人で過ごし、なんとか大学へ入った。その間に数人の恋人ができた。皆綺麗な容姿をしていたけれど、僕はただ彼女たちと性的な関係を持ちたかっただけだった。そして殺した彼女もその一人だった。その日彼女と死のうと思ったのはあまりにも広大な海と空を見たかもしれない。突然僕は全てを許されたような気がしたのだった。そして僕はその時、彼女に対して別れを告げたのだった。彼女にとってはあまりに突然のことだったので、しばらくの間呆然としていたが、突然泣き叫んだ。そして僕はそんな気持ちならきっと死ぬのも辛くないだろうなと思った。


 そっと部屋のドアが開く。僕はふいにそちらを眺めると、看護師が暗い部屋の中を歩いてくる。僕は果たしてこれは現実なのだろうかという疑念にとらわれた。部屋のドアは閉じられて、僕達二人だけだった。看護師はちょうど僕の脚の横のベッドに腰を掛けた。


「どうしたんですか? 突然入ってきて」


 僕は彼女のことを少し怖いと思いながらそう言った。


「私、今日あなたのことを考えていたの。それできっと夜に寂しいだろうなと思って」


 彼女は僕のことを心配してくれているのだろうか。今までの人生の中であまりこういうことはなかった。僕は何度も助けてほしい時はあったけど、そういうときに限って誰も助けてくれない。それどころか誰かが人のことを助けるなんてことあるのか僕には怪しかった。


「僕は別に大丈夫ですよ。恋人を失ったことは辛かったですけど」


「あなたは事故があった時のことを本当に覚えていないの?」


 彼女は僕の目を見つめてそう言った。僕はただ黙って肯いた。


「なんだかあなたと話していると不思議な気分になるの。それでなぜかわからないけれど、あなたともっと話したくなった」


「こっちへ来て」


 僕は静かな声でそう言った。彼女は黙って少し恥ずかしそうにしながら僕のすぐ傍までやってきた。僕は左手で彼女の太ももに触れた。彼女は恥ずかしそうにうつむいていた。


「あなたともっと話がしたい」と僕は言った。


「恋人のことはもういいの?」 


 彼女は真剣なまなざしでそう言った。


「もう死んでしまったんです。僕には彼女の記憶すらない。ただ僕はあなたに惹かれていた。それで充分でしょ?」


 僕達はそっとキスをした。仕事中の彼女にそんなことは許されない気がしたが、それでもただ僕は柔らくて温かい唇の感覚を味わっていた。孤独な人生の中の不思議な安らぎ。それはふいに僕が過去の記憶を思い出したとき、激しい恐怖に変わる。僕はただ人生というものを甘く見ていたのだと実感したのだ。


まさかあんな残酷なことをしたあとにこんな幸せな時間が来るとは思わなかったから。僕は全身から冷や汗をかいた。別にキスをしているんだから不自然なことじゃない。ただ僕は激しく動揺しているのを悟られないようにしていた。自分の中の残酷な心と弱さ、臆病さが彼女に救いを求め始めた。


 僕は左手で彼女の髪をそっと撫でた。滑らかな感触が伝わってくる。そして僕は許されないことをしたのだと気付くのだった。


 長い間キスをしてお互いにぎこちない姿勢で抱き合っていた。やけに静かな病室だった。窓は閉め切られていて物音ひとつしない。彼女がこんなに傍にいるのに自分の中に打ち明けてはいけない秘密を抱えてしまった。そういえば昔からこんな感じだったなとやけに冷めた考えになる。もう自分にとっては人生はよくわからないのだ。唇を放した後、しばらくの間お互いの目を見つめ合っていた。


「僕と付き合ってよ」


 僕は彼女の耳元でそうつぶやいた。


「嫌だっていったら」


 彼女は僕の耳元でそう言って笑い、僕も笑った。そして僕は彼女の体をきつく抱きしめた。その時、その看護師が僕と同じように僕の体を抱きしめた。ふいに僕の目からは本当の涙がこぼれてきた。一度でいいからこうしてほしかったのだ。誰も僕に対してこうしてくれる人はいなかった。僕はただ他愛もないことを許してほしかったのだ。そして僕は心の中に閉まった記憶をずっと閉じ込めていく決意をした。奇妙な性的な興奮と被虐的な感情がわき起こってくる。そしてそんな瞬間はもう二度とやってこないのだと僕は知っていた。


 


 なぜ僕は彼女のことを殺したくなったのだろうか。夢から目覚めると僕の隣には本があった。あれこれ考えているうちに夢の中の僕は現状から逃げ出したかったのだろう。どこか遠くへ行きたいが、行ったところでそこには何もないことを知り絶望したのだった。


 僕はようやくやってきた薄暗い朝の中で小説の続きを書いた。カチカチとパソコンのキーボードを叩く。テーブルにはポットで淹れたコーヒーがあった。


一行目はこんな感じで始まった。




 あれはとんでもない革命だった。長い間、忘れていた恋。恋はいつも憧れで終わった。昔の僕の恋人は人柄は好きだったがそれは恋ではなかった。もうじき日付が変わろうとしている。僕はもう寝ないといけない。明日学校があるからだ。とある国立大学の大学院。そこで植物の研究をしている。


 植物の種を撒いて花を咲かせる研究。しかし、その植物は遺伝子組み換えされている。貧困から人類を救うための手段。僕はいつか世界を救う研究者になろうと思い、植物の研究を始めた。


 一人暮らしのマンションの部屋。僕はふと眠る前に見たテレビのバラエティ番組で清水を見た。そしてそれからしばらくして僕は彼女に恋をした。それは長く美しく切ない恋だった。僕は彼女と会い、時を共にした。そして彼女は僕に惚れ、僕は彼女を抱いた。しかし、テレビに出る女優という肩書を背負った彼女。僕は植物の研究者として25歳で起業し、26歳でテレビに出るようになった。僕が作った種はソーセージより売れ、連日ニュースやバラエティ番組に呼ばれた。そして清水が僕に取材に来た。




 長い夢を見た。僕はその夢が何か覚えていなかった。過去は記憶に過ぎない。未来は想像に過ぎない。今この瞬間にしか僕はいない。


 朝日がカーテンの隙間から差し込む。部屋の電気は消えているけど薄明るい。無意識のうちに僕は起き上がり、カーテンを開けていた。ふと昨日テレビで見た清水のことを思い出した。自分とは全く違う世界に生きる彼女。でも彼女が有名になる前は自分と似たような人生を送っていたんじゃないか。そんな気がした。僕は彼女のすべてを知らないし、彼女は僕のことすら知らない。


そしてきっと彼女は僕のことを知らないまま死んでいくのだろう。それもなんだか奇妙な気がした。そして僕もきっと死ぬまでには彼女のことを忘れているかもしれない。ただなんだろう。この胸に釘をさされたような感覚は。それがもちろん恋だとは知っていた。恋とは苦しいのだ。僕は昔、恋をしたとき、これは精神病なんじゃないかと思ったことがある。自分は今正常な状態じゃない。それだけは確かだ。


 学校へ行く準備をする。と言ってもシャワーを浴びて、歯を磨き、服を着て、水をコップ一杯飲むだけ。そんなの二十分あれば済む。そして起きてから三十分くらいで家を出て駅まで歩いていく。今日は空が晴れ渡っていた。この間までは雨の日が続いていたが、今日は快晴だ。心地の良い春の風が吹き、通りには桜の花びらが見えた。東京の郊外の駅から都心に向かっていく。駅前にはたくさんの店が並んでいるけど、どこか落ち着いている。


僕が電車に乗ったときは空いているのにだんだんと車内は混み始め、ある駅を過ぎたところから車内は悲惨な状況になる。僕は運よくいつも座っているが、立っている人は大変だと思う。僕は清水がどこに住んでいるか知らないけど、おそらくここからそんな遠くないところに住んでいるのではないだろうか。二十代も後半に差し掛かり、芸能人を見る目も子供の頃とは変わった。所詮彼らだって、僕たちと同じ人間なのだ。そして彼らはテレビに出ている、ある種のセンスや優れた外見を持った人物であるに過ぎない。もちろんそれだけでもすごいと思うが。


 僕の高校からの友達。日本最高の大学に行き、官僚になった友達は芸能人を見て「大変だよな」と言っていた。そいつはそもそもテレビも見ないし、芸能人に興味もなかった。僕は彼よりは芸能人に憧れを抱いていた。そしてもっと若かったころには芸能人になりたかったのだ。もちろん僕は別に容姿が優れているわけでもなく、なんの才能もなかったので無理だった。しいていうなら絵を描くことと勉強が少しできたくらいだ。


 中央線の沿線の景色が僕は好きだった。もちろん車内が混むまでの間だったが。最寄り駅につくと、僕はそこから十分ほど歩いていき、友人と同じ大学に通った。友人は学部をその大学で過ごしたが、僕は大学院からだった。僕は都内の理系のまるで工場みたいな大学に四年間通った。本当に大学と思えないくらい地味だった。キャンパスには、こういってしまうと誇張かもしれないけれど、大量の地味な男と少数の変な女がいた。僕はこの大学で彼女を作ることをあきらめ、バイト先で出会った子と一年半付き合っていた。


 その子は見た目もかわいかったし、性格もとても魅力的で、僕と話があったが、直感的に僕は将来別れるような気がしていた。そして些細なすれ違いから喧嘩して別れた。別れるときはあっけなく、連絡がとれなくなってしまった。僕はそれからしばらくの間彼女のことを思い出していた。胸の中には切なさや寂しさが広がり、誰かと一緒にいたいと強く思った。




 大学の最寄駅からキャンパスまで歩いていく途中、僕はマクドナルドで朝食を食べた。ハンバーガーをかじりながら、昔流行った曲を聴いていた。最近の曲は知らないし、きっといい曲もいっぱいあるのだろうけど、調べる気にもならず、昔買ったCDの曲を何度も聴いている。いったい今聴いた曲を何回聴いたのかも検討がつかないし、検討をつけようとすら思わない。店内の外は車や人がせわしくなく行きかい、皆大変だなと思う。学生とは気楽な身分なのだとつくづく思い知る。そしていずれは忙しく社会で働く自分を想像してみて少し憂鬱になる。


 大学院では修士を終え、博士課程に所属していた。中学や高校の頃の友人はとっくにもう働いている。なかには年収が一千万を上回ったやつもいた。そいつはとにかく人づきあいがうまく、外資系の企業に文系の大学を卒業して入った。25の今年開いた高校の同窓会でそいつは腕に外国の、名前は忘れたが高そうな時計をしていた。他にも商社に入ったやつや医者になったやつがいた。昔から地味だった僕はもちろんそいつらと比べても地味だった。


 ハンバーガーを食べ終えると僕は店を出て大学まで歩いていった。辺りには大通りとビルしかなかった。歩道と車道の間には木が植えられていた。植物の研究をしている僕から見ると排気ガスの二酸化炭素だらけなのできっと木々も喜んでいるだろう。そして今日は太陽がさんさんと輝いていたので、光合成にはうってつけだ。きっとどれくらいか知らないがたくさん酸素を排出するのだろう。酸素はもちろん僕たちにとって必要だが、なんとなく酸素を吸っているせいで死んでいく気がする。エネルギーを使って生きるとはろうそくのようなものなのだろう。ろうそくが命みたいなものだ。少しずつなくなっていく。ちなみにろうそくが燃えているのも酸素のおかげだ。


 大学へ着くと、僕は実験室の中に入る。僕が今やっているのはトマトの花を咲かせる研究。トマトの花が咲けば実がなる。そこでトマトの花を遺伝子導入によって限界まで咲かせ限界まで実をつけさせるという研究だ。実験室の中には無菌状態を作り出すクリーンベンチという機械が置かれていて、何千万も何億もする測定機械がずらりと並んでいる。その反対側には超高解像度の顕微鏡、これも一億くらいするらしいが、が三台ほど置いてある。トマトの細胞に、とある遺伝子を組み込むとトマトの花の数が増える。そこで僕はこの大学院に入ってからの三年間、ひたすらトマトの花を大量に咲かせ、実をつけさせてきた。そして今日ついにその研究成果を見ることができた。一つの苗に数百個の赤々としたトマトの実がついている。なんとも異様な光景だったが、僕はひとまず教授にそれを報告しに行った。


「これはすごい成果だ。だれもこんな植物を見たことがないだろう。あまりにも実の数が多すぎてずっと見ていると気持ち悪い」


 そういって教授は僕の研究成果を称えた。




 それからしばらくして僕は教授とともに特許を出願したが、教授は特許を僕に譲ってくれた。


「私はあと十何年で死ぬだろうし、どうせこれが世に出るころには死んでいる。それにほとんど君一人で出した研究成果だ。君の好きにするといい」


 特許は数か月でとれた。僕の研究成果はニュースになり新聞の一面を飾った。日本にある有数の食品会社が僕の元を訪れた。食品会社の担当者は僕に特許を譲ってもらうか、一緒に商品を開発しようと提案してきた。そして決まって彼らはこう聞いた。


「遺伝子組み換え食物だから評判も気になるし、栽培してるとき、ほかのトマトの種と混じったら大変じゃないですか?」


「僕は日本すべてのテレビ局に天才研究者という名目で呼ばれている。僕はそこで遺伝子組み換え食物の安全性を訴え続ける。それは誰が反対したとしてもだ。僕はこれで世界を救う。そしてほかの種とは決して混じらない。なぜならこのトマトは種を作らないからだ」


 僕はいろいろ考えてこのトマトを作ったのだ。そして僕は大学の研究所を後にし、テレビへ出演するようになった。僕は某大手調味料メーカーや商社と組んで、世界中にこのトマトの種をばらまいた。遺伝子組み換え作物が法律で許可されてるところもあったので、そこでは飛ぶように売れた。農家を中心に一般人までも買った。ヨーロッパの新聞は「ソーセージよりも売れた」と僕たちのトマトの種を取り上げた。


 僕は連日NHKやら日テレやらフジテレビなんかに呼ばれ、同じことを繰り返した。


「遺伝子組み換え作物は安全で、それは世界を救う」


 オバマのYes We CanやトランプのMake America Great Againと同じだった。僕は違う人々にそれは大体アナウンサーやタレントだったりしたが、同じことを繰り返した。そして政府も国会で少しずつ遺伝子組み換え作物について検討し始めた。僕はその頃、手に余るような収入を手にしていた。東京の西部の郊外の安いマンションから世田谷の超高級マンションに引っ越した。そしてこの辺りに清水がいてもおかしくないだろうなと思った。


なんたって世田谷の自由が丘のすぐそば、近くには高級な住宅や洒落た店しかないのだから。そして僕はいずれ彼女と出会うと直感した。今では僕は清水以上に名前が世に知れ渡っていた。それは主にトマトのおかげだった。超低コストでトマトが栽培できるようになったことで、先進国から後進国へとトマトが流通した。そして後進国でトマトが栽培されるようになり、トマトは供給過多になり、水よりも安く手に入るようになった。そこで貧しい人たちもトマトだけは食べられるようになった。そこで栄養失調が劇的に減り何百万の人々が救われた。僕はすでにノーベル賞の候補にすら挙がっていた。


 ありあまる名声と富を手に入れた。芸能人の知り合いも政治家の大物とのコネも持っていた。付き合おうと思えば誰とでも付き合えそうだった。街を歩けば人々が声を掛けてくる。そんな異常な日常もすぐに僕の中で当たり前の日常になった。何もかもが満たされたのに心の中に何もないのはなぜだろう。そんなことを思った矢先、僕は仕事で清水を目にしたのだった。




 その日の朝僕は高層マンションの最上階の部屋で目を覚ました。昨日芸能人たちと家でパーティーをした。僕のキングサイズのベッドにはまだ二十歳のそれほど有名でないモデルの女の子が裸で寝ていた。パーティーの後、僕は彼女を部屋に呼んだのだった。そのモデルの子は僕が誘うまでもなく、僕の寝室まで付いてきた。ほっそりとしていて胸のふくらみや腰の曲線の美しい体だった。アルコールが体中を回っていたので、僕たちはシャワーを浴びることもなく、そのまま抱き合っていた。こんな風に出会ったばかりの女の子と寝るのは僕が有名になってからはしばしばあった。


僕は目を覚ますとシャワーを浴びに行った。シャワーの冷たい水がぼんやりとしている僕の意識をいくらか覚まし、体の火照りを洗い流した。金があり、広い家に住み、女にも不自由しない生活。僕があれほど憧れを抱いていたのはこんな現実だったのだろうか。そしてこんな生活はいつまで続くのだろう。僕は国会中継や新聞やニュースを日々チェックしていた。日本で遺伝子組み換えが許可されるのか、それによって僕の会社の株価は変動する。


日が経つにつれて、ついこの間上場を果たしたのに、株価は右肩上がりに上昇していた。そして僕の資産はもう莫大なものになっていた。中国の経済不況や原油価格の下落の影響を受けるんじゃないかと思ったが、それらはあまり関係なかった。トマトの種で成功した金で僕は新たな研究を始めていた。トマト以外の作物でも成果を応用しようとしていたのだ。そしていずれは僕の会社が世界の食料を牛耳ることになるのだろう。僕がシャワーを浴び終わって、寝室に戻ってくると、モデルの女の子は白い下着を身に着けて、カーテンを開け、窓の外を見ていた。


「昨日は夢のようだった」


 僕が戻ってくると優しい声で女の子は僕に言った。


「私いつかこんなところで自分が好きなように遊びたかったの。そしてそこにあなたがいた」


 僕はテーブルの上に置いてあった煙草のケースから一本取り出し、ライターで火をつけて吸った。シャワーを浴びた後の体はすっきりしていて、煙草が僕の頭をぼんやりとさせた。カーテンは開け放たれ、太陽の光が直に部屋に差し込んでいる。美しい女が目の前にいて、部屋はこれ以上ないくらい住みやすく、厳選された食材を毎日食べることができる。


「そんなに昨日は楽しかったの?」


 僕は純粋にそう聞いてみた。確かに昨日のパーティーは楽しかった。でも今の僕にはあまり楽しみを感じる感性が残っていなかった。


「子供のころみたいに楽しかったわ。そしてあなたと過ごした夜も素敵だった」


「酔っていたから、あまり覚えていないんだ」


「あなたってなんだか変わってるわね。私がこれだけ口にした言葉はあなたの耳に届いているの?」


「もちろんすべて聞いてるよ。僕は君がそう言ってくれてうれしいんだ」


「私はまたあなたとこうして時を過ごしたいの」


「好きな時に来るといい。いつでもいいよ」


「私はあなたのことが好きなのよ」


「知ってるよ。僕も君に好感を持っている」


 僕はそう言って、隣の部屋へ向かった。今日の夜からまた僕はテレビに出ないといけない。それまでに会社の打ち合わせもあった。彼女はしばらくすると僕の家から出て行った。そしてもう二度と彼女は僕の元へやってこない気がした。




 タクシーの窓の外からビルの立ち並ぶ街の景色を眺める。僕は車の振動に揺られながらさっきの女の子のことを思い出す。彼女の長い髪が揺れているのがなんだか好きだった。タクシーの運転手は信号の前で停止してはまた走り出し、そして時折交差点を曲がっていった。僕は今日とあるテレビ番組の収録があった


そして清水にインタビューされることになっていた。僕が彼女に恋をしてから、いろいろあり、僕の心の中はそれどころではなくなっていた。まだ僕が有名になる前までは抱いていた憧れも今は静かに消え去っていた。それでも僕の心の中に彼女の存在はまだ確かにあったのだ。彼女のどこに惹かれたのかわからない。この思いもいつかは消え去ってしまうのだろうか。様々な女の子と出会い、彼女たちの中の何人かとは夜を共にした。僕はそのたびに女の子に対して愛おしい感情を感じる。そしてそれは少しずつ消えていく。


 タクシーはテレビ局の前についた。僕は巨大なビルへと歩いていく。初めて目にする清水はいったいどんな人なのだろうか。僕の心は好奇心に満ちていた。僕の心はまだ子供らしい好奇心を失っていない。それだけは確かだし、自分でも誇りに思っている。


 マネージャーと落ち合い、僕はその建物の中に入っていく。胸が徐々に鼓動を打ち始める。テレビ局の中は見慣れた光景だった。僕はエレベーターに乗り、廊下を歩き、ある部屋に通された。


「よろしくお願いします」


 長い髪と白い肌。ワンピースを着た清水の姿がそこにあった。


「よろしくお願いします」


 僕は返事をして席に座る。番組のディレクターが挨拶をした後、一通りの説明を始める。僕の手元には台本が渡される。あらかじめどんな質問がされるのかも、自分が何を答えるのかも決めておくのだ。僕にしたところで、大体どの番組でも話すことは同じだった。まずどういう経歴で今に至ったのかを手短に話し、そこに苦労話なんかを一つか二つ混ぜる。遺伝子組み換えなんていう難しい話はしない。今となっては僕はただ娯楽の要素としてテレビに呼ばれていた。


 部屋は広く真ん中に大きな白いテーブルがあり、その周りには観葉植物が置かれている。僕はテーブルの上に置かれた水を飲みながら、時折清水の方を見ていた。僕は話半分に適当にディレクターの話を聞いて、適当に意見したが、彼女はやけに真剣に台本を読み、話を聞いていた。きっと根がまじめな性格なのだろう。でもどこか僕と似ている部分がある気がした。それが何かうまく言葉にできないけれど。


 収録が始まると、カメラに囲まれたスタジオで僕たちは対談をした。あらかじめ決まった内容を話し、時折冗談を言って笑うだけで済んだ。僕はたくさんの人に囲まれていたせいか、とにかく話すことに精いっぱいで彼女のことを考えている余裕はなかった。収録はスムーズに進み、休憩に入ったとき、清水が僕に話しかけてきた。


「どうして研究者になろうと思ったんですか?」


 彼女は水を飲みながら汗を拭いていた。


「なりたくてなったわけじゃない。僕の人生がそういう方向に向いていただけだ。君はどうして女優になろうと思ったの?」


「私はもともとモデルをやっていたの。たまたま応募したコンテストで優勝してね。それからずいぶん長かったなぁ。テレビに出れるようになるまで。いろいろとつらいこともあったし何度もやめようと思ったの」


「いろいろ大変だったんだね。僕は運がよかったのかもしれない」


「あなたの研究成果何度もニュースで見たわ。すごいわね。あなたの作ったトマト。化け物みたい」


 そういって彼女は笑った。僕はうれしいような若干馬鹿にされたような微妙な気持ちだった。話をしていくうちに変わった人だなぁと思う。


「今度、どっかで食事でもしに行きましょうよ。私、あなたの作ったトマト食べたことあるの。イタリアンの店なんだけど、そこではあなたのトマトでスパゲティを作っているのよ」


「君みたいな有名人と僕が食事してたらまずくないか?」


「大丈夫よ。眼鏡かけて帽子をかぶって変装するから。化粧も変えていくわ。あなたはそうねぇ。いまかけてる眼鏡をはずしてコンタクトにしてきてよ」


「考えとくよ。よかったら連絡先を教えてほしい」


 僕はそう言って彼女と連絡先を交換した。その日の収録は夜まで続き、その間に僕と彼女は少しずつ仲を深めていった。まるで夢のような時間だったが、それもやはり現実だった。イメージしていた清水とはずいぶん違ったが、僕は彼女といて居心地が良かったことは事実だ。




 帰り道のタクシーの中、僕は一人で車の後部座席の窓に寄りかかっていた。スマートフォンを手にもって、何度も清水の連絡先を眺めている。いつか彼女から連絡が来るのを待ちながら僕はその日、家に帰った。マンションの高層階にエレベーターで昇っていく。手に入れた栄光の大きさをこうして実感する。僕はいったい何のために研究してきたのだろう。そしてこれから僕はどうなるのか。疲れた体を休めようと、家に帰ると真っ先に風呂に入った。湯船にお湯を張りながら僕は頭からシャワーを浴びた。体中の汗が流れていく。僕が今日見た夢は現実だった。まざまざと憧れを抱いていた彼女と時を共にした。そしてしばらくの間、自分の存在というものについて考える。相変わらず奇妙なものだと思う。そして数奇な人生だった。


 風呂から出ると、この間テレビ局の友人からもらったすごく柔らかいバスタオルで体を拭いた。とても肌触りがよくて水をすぐに吸収した。バスタオルを床に投げ捨て裸のまま、冷蔵庫からスパークリングワインを取り出して飲む。これも誰かからもらったやつだ。もうもらった人の顔を覚えていなかった。一口飲むと、透き通るような爽やかさや鼻を突き抜けるような匂い、味の深みを感じる。ワインの瓶を持ったまま、僕はバスタオルを体に巻いたまま、ソファにもたれかかる。静かな部屋だった。外から風の吹く音が聞こえてきた。何もかもはうまくいっていた。会社の業績も著しくもうじき東証一部に上場する。日本ではついに僕のトマトが輸入されるようになった。東南アジアで作られたもので、品質もよかった。僕は会社を立ち上げてから資金を研究につぎ込んだおかげで目まぐるしくトマトは耐久性と甘みを増した。今では遺伝子組み換えしていないものよりもはるかに上質なものができるようになった。


 スペインのトマトを投げ合う祭りがテレビでやっていた。そこでは僕のトマトが使われていた。既存の農家からはいろいろな声が上がったが、結局金の力で抑え込んだ。その辺は何とかしてくれるプロがいるのだ。スペインのテレビ局の人が取材しに来て、僕は日本語で話すと通訳がそれを話した。視聴者はどう思っていたのか知らないが、取材をした人はえらく感心しているように見えた。僕は海外の新聞社などからも取材の予定が入っていた。


ニューヨークタイムズ、ガーディアン、ブルームバーグ、名だたる一流のマスメディアが僕の元を訪れることになっていた。僕がソファから起き上がり、フルーツジュースを飲んでいるとき、スマートフォンが鳴った。清水から連絡がきていて、来週に今日話した店に行くことになった。仕事で多忙な彼女は久しぶりの休みらしく、僕はその日の予定をすべてキャンセルした。仕事なんてやろうと思えば毎日やることはあったし、休もうと思えばいつでも休むことができた。マネージャーに一言電話で告げるだけで済んだ。




 その日、せっかく清水と会う日だというのに外はどんよりとした曇り空で霧雨が降っていた。マンションの高層階から見下ろす街の景色はどこか暗く、人通りも少なかった。マンションの目の前にある大きな公園にも人の姿はなく、ただ木々が風に揺れてなびいているだけだ。僕は冷蔵庫からサンドイッチを取り出して、コーヒーと一緒に食べながらテレビを見ていた。政府が遺伝子組み換え作物の輸入を許可してからまだ日は浅い。時折テレビをつけると自分の姿を見ることも、前は奇妙に思えたが今は慣れた。


ソファにはこの前うちに泊まっていた女の子の下着があった。彼女がこの下着のために帰ってくるのかどうか僕にはわからないが、僕はそれをゴミ箱に投げ入れた。返してほしければいくらでも金はある。僕には持っている自分の会社の株だけで一生使い果たせないくらいの資産がある。まだ若い僕にこれだけの資産と人脈があるというのもなんだか考えれば考えるほど不思議だった。何のとりえもない地味な存在だと思っていた自分に突然、身の丈に合わない地位や名誉が授けられたのだ。僕はただ毎日テレビに出たり、会社の経営方針を決めたり、研究の状況を把握したり、その他もろもろのことに追われ、自分の今の状況を考える余裕がなかった。そしてその状況は日々変わりつつある。




 待ち合わせをした都内のレストランは個室になっていて、店内はやけに静かだった。平日の昼間、外は雨が上がり涼しい風が吹いていた。ウェイターに部屋まで案内されると、そこには清水の姿があった。彼女はいつもとあまり変わらない見た目をしていて、そういえば僕も眼鏡をかけたままだった。


「この間はお疲れ様」


 彼女はそう僕に言った。


「こちらこそ。お互いテレビやなんやらで忙しいね」


「あなたほどじゃないわ。悪いわね。私の都合に合わせてもらっちゃって。でも心の中ではこれっぽちも悪いなんて思ってないのよ」


 彼女はそういって運ばれてきたワインのグラスに口をつけた。


「君はなんだか不思議な言い方をするよね。出会ったころから思っていたけど。それは自然にやってるの?」


「私にもよくわからないわ。とにかく食事をしましょうか。このサラダに入ってるトマト、あなたの会社のよ」


 テーブルの上に置かれたトマトは確かに僕の会社のものだった。流通に関してはある程度は把握していたが、さすがにどこの店に卸されたのかまで全部は知らなかった。サラダには甘じょっぱい味のするドレッシングがかかっていて、トマトの甘みを引き出していた。店内の雰囲気から食材から味付けまで何もかもがよくできた店だった。そしてその中で食事をしている清水もこの空間の中にすんなりと溶け込んでいた。店内に響くピアノの音、気温や空気、そして口に運ばれるもの、目の前にいる美しい女の子。僕はそんな空間の中に浸り、それを味わっていた。


 次々に料理が出されていく中、話に聞いていたスパゲティが運ばれてきた。口に入れた瞬間にバジルの苦みとトマトの甘味が溶け合い、それは人に勧めたくなるのもわかるようなものだった。


 僕は清水の方を眺めながら話をし、上品な料理を口に運び、白ワインを飲んだ。アルコールがほんのりと体を温めた。それはもしかしたら彼女と一緒にいるせいかもしれない。彼女はまるで無邪気な子供のように笑った。


「私、今日は何にも予定入ってないのよ。不思議ね。いつもは一日にいくつも仕事があるのに、たまにこうやってぽっかりと休みの日ができるの」


「休みがなかったら大変だよね。きっとマネージャーが配慮してるんだろ?」


「事務所は毎日のように私を働かせようとするわ。これは偶然なのよ。あなたもそういう偶然みたいのって感じるでしょ。なんか運命みたいな」


「確かに僕もそういう経験をしたことはあるよ。いつだったか小さい頃、偶然その日見た夢と同じ光景を見たことがあった」


「それってデジャブっていうやつじゃないかしら。たしかフロイトが夢で見たことある景色を現実で再度見た時に感じるっていう」


 清水はそう言って、口元をナプキンでぬぐい、ウェイターが皿を下げにやってきた。しばらくの間話していると、デザートとコーヒーが運ばれてきた。コーヒーを一口飲むと、豆の味を感じるようなおいしい味だった。


「私、今夜予定ないのよ」


 彼女はそう言って僕の目を見つめた。


「僕の部屋に来る? 自由が丘のすぐそばの閑静な住宅街の中の高層マンション。景色も何もかも悪くないよ」


 冗談交じりに僕はそう言った。


「私、高いところから見る景色が好きなの」


 彼女はそう言って笑った。


 僕は手短に会計を済ませて、その店を彼女と一緒に後にした。彼女は眼鏡をかけて、ニットを深々とかけていた。僕は持ってきたキャップを目元を覆うようにかぶり、外に出た。すぐ近くのタクシーを拾い、僕の家まで彼女を連れていく。途中見る景色がいつもより愛おしく見える。彼女の存在がそうさせているようだ。ビルの上に大きく飾られた看板さえ、僕には愛おしいものに感じた。


タクシーの運転手は僕達の正体に気付かないまま、淡々と車を運転していた。車の進め方から止まり方から曲がり方まで何もかも熟知しているようにスムーズだった。車内では僕達は一言も話さなかった。そして僕の胸ははげしく鼓動を打っていた。そっと彼女の体に触れて見たくなったが、僕はそれをしなかった。ふと僕はこうやって清水と一緒にこの先も一緒にいるのだろうかと思いをめぐらさせた。もしかしたら彼女と結婚してもいいんじゃないかと思うくらい、僕は彼女に惹かれていた。


清水。つくづく僕は彼女と過ごせば過ごすほど、僕は奇妙な迷宮に入って行くような気持ちになった。恋をする心を抑えようとする臆病な心が僕の気持ちを愛おしくさせる。なんだか変な感情だったが、それは無味乾燥な世界に訪れた何かだった。そして僕はそれを今もう少しのところで手にしようとしている。熟した果実を食べるようなそんな瞬間だった。いったいどんな味がするのだろう。




 隣にいるのは僕が何度もテレビで眺めていた清水だった。僕は幸運からこうして彼女と一緒にタクシーに乗り、僕の部屋に向かっている。今、窓の外の景色を眺めている彼女は何を考えているのだろうか。そして自分の人生がここまで急激に変わってしまったのはなぜだろう。自分という存在が生まれてくる確率というものが奇跡に近いという話は聞いたことがあるが、今こうして自分がこのような立場にいるのも奇跡に近かった。そしてなぜだかはわからないけれど、女の子たちは僕のほうへとやってくる。それが地位によるものなのか名声によるものなのか、それとも自分自身によるものなのか僕には見当がつかない。ただ今の僕は昔のようなひどく律儀な自分ではなく大胆になっていた。


 タクシーはマンションの駐車場の前で止まり、僕はそこから降りた。清水はタクシーに乗ったまま少しそこから離れた公園の前で降り、また僕のマンションへと歩いてきた。僕は一足先に部屋に戻り、彼女からの電話でマンションのエントランスの扉を開けた。部屋に彼女を招きいれると、彼女は部屋の中を物珍しそうに眺めていた。


「広い家ね。いったい何人住めるのかしら。まさかそんなこと考える人いないと思うけど」


「この間はここでパーティーをやった。何人だって入れるよ。もちろん僕一人で暮らしているけどね」


「あなたってそういうことするのね?」


「そういうことって?」


「女の子を呼んでパーティーとか」


「なんで知ってるの?」


「仕事先の人から聞いたのよ。業界じゃあなたのことで話題はもちきりだもの。週刊誌だっていくつもあなたの写真を持ってるのよ。どうもそれはあなたの会社のせいで止められてるみたいだけど」


「そんなこと気にもしなかった。君と会っているのがばれないといいね」


「私、別にばれたっていいのよ」


 そういって彼女は僕のソファに座り、ニットと眼鏡をはずしテーブルの上に置いた。


「仕事に支障が出るだろ?」


「それくらい覚悟してるのよ。あなたってよっぽど鈍感なのね。まぁいいわ。喉が渇いちゃったから何かちょうだい」


「ソーダ、ウイスキー、ワイン、フルーツジュースとかがある」


 僕は冷蔵庫の前で彼女にそういった。


「水が飲みたい」


 彼女は僕にそういったので、僕は部屋においてあったミネラルウォーターのボトルから水を一杯グラスに注ぎ彼女に手渡した。彼女は僕からグラスを受け取ると一口でそれを飲み干した。こうやって彼女の姿を見ていると普段は快活そうに見えるけど、おとなしい一面もあるような気がした。僕は彼女のことを芸能人としてみていたが、今僕の家のソファで水を飲んでいるのは一人の若い女の子だった。


「疲れたから寝てもいい? なんだか急に眠くなってきちゃって」


「いいよ。毛布貸そうか?」


「お願い。あとクッションも持ってきて」


 僕は彼女に言われたとおり、部屋から客用の毛布とクッションを持ってきて彼女に渡した。清水はソファの上で体を丸め、クッションを枕代わりにして、頭から毛布をかぶって横になった。僕はしばらくの間、テーブルの椅子に座っていたが、そのうちに彼女は眠ったようだったので、僕は自分の寝室へ行って本を読み始めた。奇妙な平日の休日だった。少し窓を開けると午後の涼しい風が吹き込んできて気持ちがいい。彼女はどうやらぐっすりと眠っているようだ。僕はもう何度も読んだ古いアメリカの作家の小説を読み、センチメンタルな気分になった。




 清水が目を覚ましたとき、あたりは暗くなっていて、窓の外からはビルや住宅の明かりが見えた。


「おはよう」と冗談交じりに彼女は言った。


「おはよう。ずいぶん寝てたね」


「最近、あんまり寝てなくてね。なんかここにきたら急に眠くなっちゃった。それにおなかもすいた」


「冷蔵庫の中にサンドイッチがあるんだけど、食べる?」


「もっとちゃんとしたものが食べたい。何か頼んでよ」


 僕はそういわれたので、デリバリーをやっている店をいろいろと調べた。そして結局いつも使っている店に電話をかけて、料理を運んできてもらうことにした。


「中華は好き?」


「うん」


 彼女はそういってソファから起き上がった。僕のほうへと目をこすりながら歩いてきて、グラスをひとつ棚から取り出してその中に水を注いでいた。まるで昔からここに住んでいたんじゃないかと思うくらいにリラックスしていた。僕はデリバリーの料理が来るまで何か音楽でも聴こうと思い、オーディオでクラシック音楽をかけた。モーツァルトの曲だった。僕が一番好きな曲だ。


「この曲何?」


「モーツァルトだよ」


「なんて曲?」


「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」


「ずいぶん古い曲が好きなのね」


 彼女はそういうと水を飲み干し、またソファのほうへと戻っていった。そして寝転がりながらこっちのほうをじっと見ていた。僕はテーブルに座りながら彼女の視線を感じていた。そしてその視線が意味しているものを汲み取ろうとしていた。


 彼女はしばらくすると僕のほうへとやってきた。そして座っている僕の肩にそっと手を触れた。僕は自分の心臓が鼓動を打つのを感じた。


「もうじきデリバリーがくるよ」


「そんなの気にしなくていいのよ。また後で来てもらえばいいじゃない」


 僕は彼女の手をそっと握り、髪に手を回し口付けをした。甘くてとろけるような瞬間だった。モーツァルトの奇妙な明るい曲がクライマックスを迎えていて、この瞬間の雰囲気を壊そうとしていたが、僕たちはそんなことすら気にならなかった。彼女は目を閉じたまま、そのままにしていた。僕は髪の毛からゆっくりと手を肩のほうへと下げていった。彼女の肌に触れ、体温が伝わってきた。彼女は僕の体に腕を回した。僕たちはきつく抱き合いながらキスをし続けた。体はいままでにないくらいに熱を持ち始め、頭の中は彼女の存在でいっぱいだった。それくらい僕は彼女のことを愛おしく思っていた。彼女は僕から唇を放すと僕の手を握りながら寝室のほうへと歩いていった。僕は彼女と一緒にベッドに体を投げて、横になった。そしてもう一度抱き合いキスをした。


「あなたって他の女の子ともこういうことしたの?」


「したことないよ」


 僕はとっさにそういった。


「私、信じるからね」


 僕はうなずき彼女の髪の毛をなでた。そして彼女をベッドに仰向けにした。彼女は荒く息をしていた。僕は彼女を独占したい欲求にかられた。そして一枚一枚服を脱がせていった。彼女は恥ずかしそうにしていたが、徐々に慣れていったようだった。お互い裸になると僕達はまるで子供のようだった。そして気が済むまでお互いの体を確かめあった。


「もしあなたの言ったことが真実だったとしてもね、女の子はきっとあなたと最後まで一緒にいたいと思うんじゃないかしら?」


「僕は君に対してそう思ってるよ」


 彼女の白い肌はほんのりと赤くなっていて、汗が首筋にたれていた。僕は彼女の胸を手でやさしく包み込みながら、もう一度彼女の存在を確かめるようにキスをした。




 ベッドの上はまるでこの世界から切り離された場所のようだ。モーツァルトの曲の後ろについていたシューベルトの最期の交響曲の旋律がリビングから響いてくる。窓の外には輝く建物の明かりに包まれた街が見える。清水は僕の体の中で息をしていた。柔らかい彼女の肌の温もりを感じ、僕は長い間忘れていた愛情を思い出した。


「もう一回したい」


 彼女は汗だくの体を起こして、僕の上に覆いかぶさった。


「君となら何度でもできるよ」


「じゃあ朝がくるまでこうしていてね」


 僕は彼女の中に入ったまま、抱きしめていた。彼女は僕が腰を動かすたびに激しく息をした。そして目を閉じた彼女の唇に何度も口づけをした。これほど近い距離にいて、肉体の一部を共にしているのに、やはり僕達は別々の個体なのだと感じてしまう。だからこそ、僕達はお互いのことを求めるのだと思う。


「このままずっと一緒にいたいの。あなたが死ぬまでずっと一緒に」


「僕と結婚する?」


「あなたがそうしたいなら」


 相変わらず、不思議な言葉遣いをする人だと思う。なんだか変わっているなと僕はずっと彼女と関わっていて思っていた。そして僕は彼女を抱きながら、髪を撫でてその温もりをずっと感じていた。僕が射精を終えても彼女は僕の体を離してくれなかった。だから僕達はそのままずっと二人で唇を重ね合ったり、小声で冗談を言ったりして笑い合っていた。静かな夜の時間はあっという間に過ぎていく。窓の外の街が徐々に明るさを取り戻していくとき、彼女は僕の腕の中ですやすやと目を閉じて眠っていた。


僕は彼女の頬に手を触れながら、夜の明けていく街の景色を見ていた。太陽が昇る前の青い光に包まれた世界。ほとんどの人がまだ眠りの中にいる。そして僕はきっとこの世界の中で幸せな瞬間を味わえた数少ない運のいい人間なのだと実感する。僕には目を閉じて息をしている清水が愛おしくして仕方がなかった。そしていつまでも一緒にいたいと願った。




 目覚めた時、もう昼過ぎになっていて、清水はいなくなっていった。携帯電話を確認するとマネージャーや会社の人から何件も連絡が来ていた。僕は眠い目をこすりながら、彼らと電話で短い間、話をして、仕事は明日に回してくれといった。彼らは一様に僕の言葉に不満をもらしたが、決定権を持っているのは僕だ。そして彼らは僕の尻拭いを毎回することになる。マネージャーいわく、今日来ていたフランスのテレビ局からの取材がキャンセルになったらしい。僕にとってはそんなことは構わない。冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを取り出して、ペットボトルのまま飲み、そのままシャワーを浴びに行った。


テーブルの上には清水が残していったメモがあり、仕事に行ってくると書いてあった。外からは昼間の強い日差しが射しこんでいた。シャワーを浴びたら近くを散歩して、どこかのカフェで昼食でも取ろうと思った。僕は風呂場へ行き、シャワーの蛇口をひねった。高級マンションだけあって床や壁なんかが石でできていた。ひんやりとしていて、シャワーの水を浴びるとなお気持ちがいい。髪を洗い、顔を洗い、体を洗って全身から汗を洗い流す。明日から溜まっている分の仕事に追われると思うと少し憂鬱になったが、そんなことはなるだけ気にしないようにしながら僕は風呂から出て体を拭いた。


洗濯したばかりのシャツを羽織り僕はさっきの飲みかけのペットボトルの水を飲みながらソファに座った。テレビをつけると昼の番組がやっていて、もしかしたら清水が出ているかもと思い、全局見てみたが、出ていなかった。もしかしたら雑誌の取材や他のなんかかもしれない。彼女とは一夜を共にした限りで細かいところまではしらなかった。僕はテレビを見るのにも飽きると、テレビを消してオーディオのスイッチを入れた。


モーツァルトの交響曲第四十一番が最初から流れてくる。演奏はウィーンフィルハーモニー、指揮者はイタリアの有名な人で二十年も前の録音だ。僕は最初から最後までモーツァルトの曲を聴いた。そして第四楽章で時に涙が出そうになり、最後には心から感動した。やはりモーツァルトは天才なのだと思い知る。そして僕は今ここで何をやっているのだろうかと今一度考えてみた。こうして清水と出会った今、僕のそういった類の欲求は満たされていた。そして日々テレビに出て、不毛なことをしている場合ではないと悟ったのだ。僕はマネージャーに電話を掛けた。


「もう僕はテレビには出ない」


「いきなり何を言うんですか? もう三か月先までスケジュールが組んであるんですよ」


「そんなものすべてキャンセルしてくれ。僕は申し訳ないけれど、君と話すのもこれが最後だ」と僕は僕より年上のマネージャーに言った。


 彼はしばらくの間黙りこみ、僕に「本当にいいんですか?」と確認してきたが、僕は「構わない」と言い放った。


 僕にはまだやるべきことがあった。それはテレビに出て、くだらない冗談を言い続けて有名になることじゃない。世界を本気で救ってみせるという目的がまだ残っていた。




 僕はそれから神奈川の自社の研究所に向かった。三階建ての建物でそこに百人以上の研究員がいた。設備はどれも一流で全部あわせれば百億はくだらない。僕が研究所の入り口をカードを使って開けると、会議室で議論をしている声がしていたり、その反対側にはガラス窓の植物の飼育室があった。みなせわしなく動いたり実験したりしたりしていた。製薬会社や大手食品会社、大学から引き抜いてきた優秀な若手の、といっても四十を越えている人もいるが、そんな人たちが現場の指揮をとっていた。


「おはようございます」


 僕が研究所の所長室を訪れると白髪交じりの所長が僕に挨拶した。


「おはよう。研究は進んでる?」


「この間、新しい研究成果が出まして稲でも大量の実をつけさせることに成功しました」


 その所長はうれしそうに僕にそういった。もともとは某国立大学で準教授をしていた優秀な研究者だ。僕は学生のころ、学会で何度もその人の講演を聴いていた。そしてその人の研究のセンスを確信していたので、破格の待遇でその人を所長に招いた。


「僕もそろそろ研究に戻ろうと思って」


 僕は秘書が持ってきたお茶を飲みながら言った。


「というとここで研究なさるのですか?」


「いや、実は前々からアメリカの色々な大学に教授として呼ばれているんだ。あっちの方が設備も人材もそろっているし、なにより研究がしやすい。会社の経営は続けていくが、僕ははじめからもう一度すべてを自分でやり直そうと思っている」


 所長は呆然とした顔で僕のことを眺めていた。そしてしばらくの間、あごに手を添えて考え事をしていた。


「相変わらず、考えることが突飛ですね? でも設備も人材だって日本でもいくらでもそろいますよ。わざわざアカデミックでアメリカに行く必要もないんじゃないですか?」


「昨日、モーツァルトの交響曲を聴いたんだ」と僕はふいに言った。


 自分でもそんなことを口にするとは思わなかった。部屋の中はしばらくの間静寂に包まれた。所長は僕が次の言葉を話し始めるのを待っていた。僕はそのとき清水富美加のことを考えていた。アメリカに行ったら彼女となかなか会えなくなってしまう。それだけが気がかりだった。


「それで?」と所長は耐えかねたように僕に言った。


「僕が発見したのはたまたまの偶然なんだよ。その後の成功は全部君たちのおかげだ。僕はもう一度自分の力で成功を手に入れたい」


 僕はそういい終えると、秘書に挨拶をして部屋を後にした。人生の中の不思議な流れによって僕はこんなに大きな研究所を作り上げてしまった。そして今僕はそこを去ろうとしている。正直なところ僕も自分が何を考えているのか本当のところわからない。ただ思い立ったことを我慢することができないだけだ。建物の外は雲ひとつない快晴だった。旅立ちを決意した日にはふさわしい。神奈川の川沿いの道を僕は歩き始めた。川の水の流れの音がとめどなく耳に響き渡る。この場所に研究所を作ろうと思ったのもここの景色が好きだったからだ。いつか釣りにでも行きたいなと思った。そのときは清水も連れて行こう。そして誰も知っている人がいない場所で心ゆくまで遊ぶのだ。




 研究所から家までの道のりはどこか懐かしく、まるで子供のころに小学校から家に帰るときのようだった。僕は無意識のうちに背負っていた心の重みがなくなったように感じていた。そして自分の感情や欲求というものを隈なく見渡してみたが、それは目の前に広がる美しい夕日や川の景色に比べればどうでもよいものだった。電車の窓の外から見る景色が夕焼けに包まれていた。もう何度こういった景色を見てきたのか忘れたが、きっとアメリカに行ったら懐かしいものに感じるのだろう。僕がこの人生で求めたものは何だったのだろうと思いをめぐらせる。どこかの天才のように退廃的でもなかったし、かといって堅実にひとつの目標に向かって生きてきたわけでもなく、不良になったわけでもなかった。別に自らの意思で地味な存在を演じていたわけでもなかった。


 電車から降りると並木道の住宅街を歩いていく。日が沈みかけていて、電灯に明かりが灯り始める。公園では小さな子供たちとそれを見守る親たちがいた。いったい彼らが何を考えて日々を生きているのか僕にはわかるような気がしたし、わからない気もした。高層マンションのエントランスを通ってエレベーターに乗り、上層階に上がっていく。体が一瞬重力を感じ、また元に戻る。重力の不思議に一生取り付かれた人もいれば、僕のように植物の神秘に取り付かれた人もいた。遺伝子を人間が操れるようになってから、生命に関して人は多くのことを知った。僕もまさか自分自身が遺伝子によって形作られたとは想像もしなかった。だから植物の遺伝子を組みかえれば思い通りの新しい植物が形作れるという発想に至ったのだった。でもそんなことは生物を勉強している人なら皆知っている。僕はたまたま運よくたくさん実をつける遺伝子を発見したに過ぎない。


 部屋の鍵を開けると、そこに清水がいた。彼女の長い髪が部屋の明かりに照らされていた。彼女は白いシャツの上に薄い茶色のジャケットを羽織っていてレースのスカートを履いていた。どうやら仕事帰りのようだった。


「どうして入ってこれたの?」と僕は聞いた。


「合鍵を見つけたの。ここを出て行くとき、鍵をしていったほうがいいと思って」


「よく見つけたね」


「あなたの机の引き出しを開けただけよ」


 彼女はそういって僕に微笑みかけた。僕は冷蔵庫のほうへいき「何か飲む?」と彼女に聞いた。


「さっき冷蔵庫からあなたのお気に入りのフルーツジュースを飲んじゃった。もうご飯は食べてきたし、お酒も今日はいらないわ」


「じゃあ僕だけ簡単に食事をするよ。今日は研究所に行って帰ってきたばかりなんだ」


 僕はそういって棚からパスタを一束取り出して、鍋でお湯を沸かした。


「研究所に何しに行ったの?」


「アメリカに行くことを所長に話したんだよ」


 鍋のお湯は温度が上がって徐々にぐつぐつという音がし始めた。


「アメリカって、いったい何をしに行くの?」


「大学で教授をするんだよ。そこで一から研究をやり直す」


「本気で言ってるの?」と彼女は言って僕の目を真剣に見つめた。


 普段は冗談交じりのことしかつぶやかない彼女が見せた本当の姿のように見えた。見た目からして相手に恐さなどは与えないし、温厚な性格だったが、僕はそういわれて胸の中に釘を打ちこまれたような気持ちになる。優柔不断な僕はいつも適当に人生の選択をしてしまうが、本当のところこうするのが正しいのか確信が持てずにいた。


「日本にいたら、きっと僕は今の環境のまま経営者としては成功するかもしれないけれど、一流の世界を変える研究者にはなれない気がした。こんな僕の性格だからきっと甘えてしまうと思うんだ。それにこの先もずっと日本にいる未来が想像できない」


「私とはどうするの? まさか私も連れて行くつもり?」


「君は日本にいたほうがいい。なによりも君が掴み取った仕事をこんなところで捨ててほしくない」


 パスタをゆでるために沸かした鍋の中のお湯は沸騰を続けていて、その音が部屋の中に響き渡っている。いまさらパスタをゆでる気もなかったし、興奮のせいで食欲はなくなっていた。僕がふと彼女のほうを見ると彼女の目は涙で潤んでいた。本当に見ているだけで綺麗な女性だった。そして僕は自分の人生の選択の仕方に確信を持った。今こうしてこの瞬間にいるのは間違いなく自分が選択をしてきたおかげだ。そしてそれは正しかった。なぜならこうしなければ彼女と出会うことはなかったのだから。


「わかったわ」


 彼女はそうつぶやいて、ソファに腰を下ろした。さっきまで元気のよかった彼女の目が悲しげで疲れているように見えた。たぶんこれ以上何もしないほうがいいんだろうと僕は感じた。だから、僕はそのまま何も言わず浴室のほうへ行った。彼女はかばんを手に持ち「鍵置いていくわね」といって部屋から出て行った。浴室の洗面台の前で僕は服を脱いだ。このあたりの店で買ったシャツやらなんかだった。僕は少し自暴自棄な気分になり、服を投げ捨てると、浴室で頭から冷たい水を浴びた。そしてこの先にどんな人生が待っているのだろうかと思いを馳せた。それが生易しいものではないことは想像がつく。


なぜなら科学者としてはまだ自分は未熟で才能があるかどうかすらもわからないのだ。いきなり一流大学の教授としてしかも英語圏の環境でやっていけるのか、頭につのるのは不安ばかりだった。シャワーの水があまりにも冷たかったので、僕の体はすぐに震えだした。水滴がとめどなく体を流れていく。人生とはきっとこんなもので僕はこの中の一粒の水滴のようなものなんだろう。センチメンタルな気分になるといつもこんなことを考え始める。そしてこのマンションの浴室に施された装飾やなんかがひどく馬鹿げたものに見えた。




 風呂から出ると、外の空気がやけに冷たく感じた。きっと冷たい水を浴びすぎたせいだ。バスタオルの生地の感触が心地よくて、体を拭いているうちに自分の体温を取り戻す。奇妙なくらい静かな部屋だった。僕の胸は相変わらず釘に刺されたように傷んだ。僕は大学院で研究をしていたまだ有名になる前に頭の中で一つの仮説を立てたことを思い出す。それは人間には意識と無意識が存在し、無意識が主に行動に影響しているという仮説だ。だから自分の意識の中では自分自身が選択をしているように思っていても、それは無意識の力によるものだったりする。運命や神など神秘的に感じるものはすべてこの無意識のせいだと思った。そして実はこの無意識が想像以上の力を持っていると思った。


 僕は体を拭き終わると、冷たい水を飲み、服を着た。コットンの服は僕の体を温めた。そしてぼんやりとした意識のまま、テレビをつけた。僕はパソコンを開き、インターネットで清水が出ている番組を探した。そして深夜のドラマに彼女が出演していることがわかった。僕は冷蔵庫からワインの瓶を取り出して、コルクを開けた。カリフォルニア産の白ワインだった。たまたまこの前スーパーで買ったやつだ。僕はそれをグラスに並々と注ぎ、飲み干した。アルコールが体を巡ってそれが脳に達したのを感じる。香りと後味のよいワインだった。


僕は電話でピザを注文し、しばらくの間、本を読んでいた。オーディオのスイッチをつけて、クラウディオ・アバドが指揮をしたシューベルトの交響曲第九番を聴いた。センチメンタルな気分をよりセンチメンタルにさせるうってつけな曲だ。僕はこのとき、普段は感じることのない寂しさを感じていた。人生には苦労がつきものだと思うが、時々幸せな瞬間がやってくる。そしてその幸せが去っていくとき、胸の中に寂しさが広がる。


 インターホンが鳴ったので出ると、青い制服を着たピザの配達の人だった。僕はお金を渡してピザの平べったい箱を受け取った。箱の外側にも熱が伝わってくる。大してうまくもないピザを片手に僕はワインを飲み続けた。つまみみたいなものだったし、夕食もかねていた。そういえばさっき沸かしたお湯がそのままになっていたことを思い出し、僕は鍋からお湯を捨てて、鍋を棚に戻した。オーディオのスピーカーからシューベルトの美しいメロディーが聞こえてくる。ちょっとモーツァルトに似ているなと思った。確か二人ともオーストリア出身だったはずだ。


父親がヨーロッパを旅行した帰りに買ってきてくれたのがモーツァルトのCDだった。別にそんなもの日本でも手に入ると思ったが、いざ聞いてみるとその美しさに魅了された。それ以来、僕はこうしてクラシック音楽を聴いている。音楽とは不思議なものでいくら疲れていても聴くことができる。本は疲れているときはあまり読まない。そういう時は横になりながら、落ち着いた曲を聴くのが一番だ。


 ピザを食べ終えて箱をゴミ箱に捨てる。その頃にはワインの瓶も空になっていた。僕はもう三回くらい同じ曲を聴いていた。小説は半分ほど、読み終え、今日中に全部読んでしまおうかと思った。イタリアの作家が三年ほど前に書いた作品でその中に音楽家がでてくる。僕がこの本を読もうと思ったのも、その音楽家がでてくることを知っていたからだった。僕には小さいころから音楽への憧れがあった。でも親は特に音楽をやらせなかったし、僕も一度自分でピアノをやったことがあったがすぐに飽きてしまった。


 夜の時間は昼間よりも早く過ぎていく気がする。アメリカに行くまでにやらなければいけないことはたくさんあった。論文も読まなければならないし、いろいろな手続きをしないといけない。僕にはカリフォルニア大学に知り合いの有名な教授がいたが、その人からのオファーを受けようと思った。ロサンゼルスにある大学だが、一度行ったときはとても住みやすそうな環境だった。カリフォルニアの穏やかな気候の中研究に集中することができそうだった。もし時間があれば清水を連れてきてもいいだろうなと思った。


 深夜、僕は部屋のカーテンを閉めて、テレビの前に座っていた。清水の出ているドラマがすでに始まっていた。彼女が出ているシーンを僕は眺めていた。そしてつくづく魅力的な人だなと思った。演技はともかく何か人を引き付けるものを感じた。そして僕の家にいた彼女とは別人のように見えた。


 ドラマを見終えると、僕は寝る支度をして、ベッドの中にもぐりこんだ。眠りはアルコールのおかげですぐにやってきた。そして清水富美加のことを思い出しながら僕は深い眠りについた。




 あれからの日々を僕は断片的に思い出すことがある。


 僕はそのとき、カリフォルニアのUCLAから車を飛ばし、海岸沿いの方へと向かっていた。日本とは違って大気は乾燥していて、一年中穏やかな気候だった。照り付ける太陽の日差しが、フォルクスワーゲンのセダンの窓を照らしている。途中通る街並みは主にコンドミニアムやビルや一戸建ての住宅が広々と並んでいて、それらの色は落ち着いていて、背の高い木がところどころに生えている。車道の横をヘルメットをかぶったロードバイクが走っていた。この辺りは大学が多く、バックパックを背負って歩いている大学生の姿をよく見かけた。


 大通りにでるととても広い車線に出て、まばらに車が行きかっている。助手席の方の窓からは芝生に覆われた広大な土地が柵に囲われていた。


 まっすぐとどこまでも続いているような広い道が夕日に照らされている。きっと今がもっとも美しい時間帯なのだろう。僕は太陽が昇る朝と沈む夜が好きだ。


 海沿いにはたくさんのアパートが建っていた。僕は路肩に車を停めて、海の方へと歩き出す。道路は海の中へと伸びていて、途中で止まっている。その先には青い波立つ海と対岸の街が見える。左を見ると果てしない水平線が見えた。午後の照り付ける日差しが海面を銀色にきらめかせる。涼しい冷たい風が僕の体を通り過ぎていく。着ていた半袖のシャツが風になびく。




 清水とは長期休みのたびに日本で会っていた。


「まだ帰ってこないの?」


 一年が経ったときにそういわれた。僕はまだ帰る気はなかった。




 一年半が経とうとしたころ、とあるビッグプロジェクトに僕は参加することになった。国をあげた共同研究で、僕がリーダーに選ばれた。


 そこで待っていたのは世界の変革だった。世の中から飢餓で死ぬ人間をなくすというプロジェクトだ。そうこうしている間にいつの間にか、権威やらなんやら世の中の概念や価値観が急激に変わり始めた。


 僕は研究所で日々世界の動向を見ていた。気付いた時にはもはやアメリカ合衆国が破たんしていたのだった。


 それから地獄のような研究を半年ほど続けた。研究テーマはがらっと変わった。


 そしてちょうど二年経ったとき、僕は手ぶらで日本に帰った。


「おかえり」


 テレビ女優をやめた彼女と教授職を失った僕との再会だった。


「ねぇ、話があるんだけど」


 彼女は口を開いた。


「いやーひどい目にあった」


「そんなことどうでもいいのよ」


「え?」


「あなた私のこともう好きじゃないでしょ?」


 僕はぎくっとした。実は日本に帰っている間にとあるバーで出会った女の子に惹かれていたのだった。


「別れましょ」


 僕は何も言えなかった。




 僕はマンションの中で莫大な資産の入った通帳を眺めていた。通帳の金額は莫大だった。そしてその巨大さに僕は胸が震えるのだった。

 

何もかもが消えていく。そう人間たちは様々な概念に誘因されていただけだった。そしてその中に意味を見出そうとしていたのだ。


「虚しいな」


 僕はそっとぼやいたが、胸の中にあった数々のコンプレックスが連合学習という概念によって、そうそれはとある研究者が提唱したのだが、それによって解除され、生物学やら哲学やら小説やら音楽の進歩によって、自分自身も自分の見ている世界も全く違うものになってしまったのだった。

 



 書き終えた小説を僕は眺める。大学一年生の春で僕は関西の大学に通っていた。結局奏とまだ付き合っていた。奏は東京の女子大に通っていた。


 大学はなんとなく閑散としているように見えた。僕が高校生の頃に世界は急激に変わってしまったのだ。あるのはただ大学の建物と人だけだ。


 住宅価格は結構下がって、適当にバイトするだけでも十分に生活ができた。春のオリエンテーションも授業もなんだか適当で、僕は授業を早めに済ませて、午後から釣りに行った。芝生やらなんやら陽ざしやら、とにかく気持ちがいい。


 近場に海があり、そこにはいろいろな魚がいた。仲間の一人が釣り針にいくらをつけて、海に放りこむ。

 

 携帯電話には奏からの着信履歴があった。


「今何してんの?」


「別に」僕は言う。


「今週帰ってきてよ」


「お金がない」


「嘘よ」


「は?」


「帰って来いよ」奏はそういう。


 仲間たちは港で魚釣りをしていた。仲間の一人がいわしを釣り上げた。後でそれを酢漬けにする。


「めんどくせえよ」僕はそういう。


「あなたの体が心配……」


「え……」


「なんでもない」


 僕はなんか疲れてしまった。仲間たちは何事もないように魚を釣っていた。釣ったいわしをさばいて、血抜きをしていた。


「俺はどこへ行くんだろうね?」と僕は尋ねる。


「東京で」


「だから金が」


「お前が出せよ!」と俺は言った。


 ぶちんと電話が切れた。僕はかけなおす。


「何?」


「お前が出せよ」


 僕は電話を切った。仲間たちはいわしで酢漬けを作り始めた。たまねぎとバジルをオリーブオイルとワインビネガーに混ぜて、タッパーの中に漬け込む。


 僕はあくびをした。眠かった。夕方でもうほぼ日は沈んでいた。赤い日の光がきらきらと海を照らしてた。


 釣り糸が細く揺れる。仲間は時折笑いながら魚を釣っていた。僕は切れた電話を握りしめていた。


「女?」と仲間の一人が僕に聞いた。


「うん」


「彼女?」


「うん」


 僕は頷きつつ、一人竿を持って釣りを始めた。夜になっていく。風が冷たくなっていく。木々が揺れる。


 相変わらず退屈な日々だった。マンションに閉じこもっては一人で音楽を聴いたり、小説を書いたりしていた。最近は電子ピアノも弾く。


 ドドドミミミレレレなんて弾いている。鍵盤の手の置き方だって音符の読み方だってよくわからない。なんとなくでいつの間にかメロディーを作っていた。


「そろそろ帰るか」

 

 日が沈んで大分たったころ、仲間の一人が言った。


「なんかな、すごい虚しい」


「別に普通だよ」と俺は言った。


「結局人生なんて勝ち負けで、俺はただ不安なんだと知ってしまったときみたいに」


「意味なんてないよ」


 僕はぼそっとそう言って、ポケットから煙草のケースを出して火をつけた。




「奏。ねぇ」


 僕は布団の中でつぶやく。


「何?」枕の中に眠る奏が言う。


「俺の過去を知っているか?」


「さぁ」


「ずっと秘密にしていたんだ」


 ふいに僕は眠りにつく。夢の中の観覧車で僕と奏は子供のころのように遊んでいた。


「俺が一時的に空を舞っていたころの話をしよう」


 奏は黙って聞いている。


「ひどい曇りだったよ」



 

 古い夢から僕は目覚めた。携帯電話のバイブレーションも今日は聞こえない。やけに清々しい朝の光だ。奏からの着信履歴があった。時計を見れば昼だった。


 僕は棚からバケットを取り出して、適当な大きさに切って、冷蔵庫から昨日のいわしの酢漬けを取り出した。


 昼からウイスキーのロックといわしの酢漬けを挟んだパンを食べながら、ぼんやりとテレビを見ていた。相変わらずくだらないニュースやら過去のドキュメンタリーやらどっかの国の暮らしや文化しかやっていない。


 森の中に眠る猿の映像がたんたんとNHKでやっていた。いまとなってはそれらも昔の動画サイトくらいの価値しかなかった。

 たんたんと過ぎていく時間の中で、僕は静かに刺激を求めている。奏とこんなにも長く付き合っているのが不思議なくらい。

 あの時、本の中に埋没して見た夢や僕の小説とはいったいなんだったのだろう。そうそれは時代の中にいた自分が描いた絵だ。

とりあうのはおそらく人間のコンプレックスのせいだろう。現に俺はただ、普通の日常を過ごしていた。不思議と高校時代にあった奏に今でも惹かれている。他にもたくさん女の子はいて目移りしたこともあったのだけど、今はそうではない。


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