聖杯たちの夜

 輝く宇宙に眠るのは宇宙船だった。

 百年の時を越えて僕は近代の壁を通り抜ける。

 聖杯たちの夜に。

 女ではない。

 いや女だろうか。

 詩と小説を融合してしまえば、そこにファンタジーをインジェクションすれば、素晴らしいものができると思う。

「ねぇ、明日はどこへいく?」

 ミイは僕にそういう。

「彗星を追いかけよう」

「どうしてまた?」

「ううん。理由はない。カート・ヴォネガットだってSFを書き続けた」

「それが?」

「つまり、いい小説が芸術的な堅苦しさに縛られていなくてもいいと」

「ふーん」

 宇宙船の中はとても静かで無音の中、僕たちは声を交わすのは、そこに振動する粒子があるせいだ。

 窒素と酸素に包まれた世界で、僕は大気の中を無重力に泳ぐ。

 重力装置を寝る時に作動させる。

 そうやって僕らは長い旅を凌ぎ、地球へ聖杯の中へ帰る時、海を泳ぐために体調を保つ。

「聖杯たちの夜に」

 僕はワインをグラスに注ぐ。

「乾杯!!」

 重力装置によってワインはグラスの中に安定に保たれる。

 宇宙生活が長すぎて僕の願望も変わってくる。

 地球にいるころはやはり地球的な願望を抱いていた。

「ワインは西洋の酒、日本酒は日本の酒だ」

「日本ね」

 ミイは笑う。ミイはカナダ人。僕は日本人だった。

「不思議だよね」僕はそういう。

「何が?」

「いや、僕は地球にいる間ずっと顔を気にして生きていた。それが宇宙生活が長すぎて、ミイとほとんどの時間を過ごすようになってから、ミイの顔も気にしなくなった」

「それはつまり?」

「報酬が鈍化したのか、刺激を無視するようになったのか」

「ずいぶん生物学的ね」

「まぁ、僕はアジア人だから白人的な顔にあこがれを持つのかもしれない」

「ふーん。私はアジア系のあなたみたいな顔好きよ」

「不思議なんだ。コンプレックスというものは」

「そうねぇ」 

 相変わらずミイはつまらなそうに外の宇宙を眺めていた。

「こうやって宇宙で生活していくうちにどんどん願望が擦り減らされていく。今じゃ自分のコンプレックスも気にしない。ただ風呂に入れればいいみたいな」

 ミイは遠くの方を見ていた。僕はミイが僕以外のことを考えていることも知らない。

「ねぇ」ふいにミイが僕に話しかける。

「全てが幻想だったら?」

「つまり」と僕は聞く。

「あなた一人の世界ではない。人間一人一人が全く別の感性を持っていて、個人ですら時間によって感じ方が変わるという」

「他人に価値観を合わせなくてもいいと?」

「そう」

「誰でも自分が一番だと思うのだろうか」

「さぁ。でも根源的には思っているはず」

 宇宙船の中はいやに静かだった。気味の悪いくらい人工的だった。こうやって暮らしているうちに全ては順位付け行動で経歴、職業、会話、暴力、いじめ、容姿などすべてはそのためではないかと思う。

 俗にいういいことをした、されたというのはすべて上から下ではないかとも思ってしまう。ミイはぼんやりと前を見ている。僕のこの衝動的なプライドもそれではないか。また過去にいじめられたり悪口を貼り付けられたり無視されたり。そして僕の中でいつまでも消えない憎悪も。

「おおよそそれは」ミイが僕の思考を切り取ったみたいにつぶやく。

「あなたの心の底の倫理ではないかしら」

「倫理?」僕は聞き返す。

「ずっと植え付けられてきた」

「誰にも迷惑かけず生きていこうと思っていた」

「別にいいのよ。憎しみは常に自分の中にあるものだから」

「それじゃあ地球の人間のすべてが」

「そう。いつも自分の心の中にあることを他人に言うの」

「それじゃあ何もかも消え去っていく」

「そんなことない」

 ミイは笑う。聖杯が宙に浮く。重力装置が停止した。

「必ずしも厳しくなくても人に笑われても、僕はいいのか?」

 ミイは僕の目を見つめていた。

「そう。あなたは心の中で勝手に自分を追い詰めて、悪いと思うことをずっと抑制していたの」

 僕はじっと言われたことを反芻にしていた。そしてずっと倫理観に惑わされていたことを知った。

「僕は嫉妬深い。そしてずっと心の中で否定してきた」


 夜も朝もない世界だった。あるのはただの宇宙空間だ。星が降るというよりは星を追いかけていた。どこへいくのでもなく僕たちの仕事は文字通り天体観測である。

 彗星が飛んでいくように僕たちも飛べるようになった。流星群がやってくれば僕たちはそれを光みたいな速度で追いかけてゆく。

 でも僕らは二人で仲良くストレスを抱えながら暮らしていた。二人の人間関係と彗星のプロジェクトだった。

 不可能と思われたことが偶然に成し遂げられる。僕はそんな気がした。やはりそれも長年追いかけてきた彗星のようなものなのだろう。

 プロジェクトを終えたとき、僕は地球に不時着した。地球に待っていたのはたくさんの人々だった。誰もが僕らを見ていた。

 僕なんかが? と僕は思ったが、誰もが声援を送っていたのだ。疲れ果てた体で僕の宇宙船には一枚の彗星の写真があった。

 実はその彗星を命名したのは僕だった。

 スリーピングスター7

 ずっと人類から忘れられていた。そう僕は思っていたのだ。

 輝く彗星に掛けた時間。ミイとの思い出。

 数々の夢を抱え込んでいた頭の中も。

 目の前に広がるのは昼の真っ青な空と白い雲だった。

 僕は手にした栄光を手のひらを見つめながら考えた。そして自分の中に宿る遺伝子の衝動を知ってしまった。

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