多重世界への招待

詩と音楽は互いに融合しているのが現代の流行りだが、音楽的な詩は、詩的な音楽は素晴らしいと冷夏は言った。

冷たい夏とかいてれいかと読む。それが彼女の名前だった。

僕の名前は皆藤という。かいどうと読む。昔の池袋ウエストゲートパークというドラマが好きだ。

僕は冷夏に明日何をすると聞いた。彼女はうつむいたまま返事をしない。むっと表情を赤らめていた。

何だよ、そう言いたげだった。

だってさ、この前映画館に行ったじゃない? この間は遊園地、動物園、水族館、ショッピング、全部馬鹿らしいの。

じゃあさ、今度は森へ行かないか? トレッキングシューズでも買って、そうしたらさ、楽しそうじゃないか。

相変わらず冷夏はむっとしていた。何かいいたげな表情だった。

何も言えないの私は。

冷夏は心の中でそうつぶやいた。

僕もだよ。僕は心の中でそうつぶやく。

時代は移り変わっていった。ふと目覚めると世界が一変している。今まで輝いて見えたものが朽ちていくのは爽快だが、どこか物寂しい。

何もない世界で、僕たちは会話を弾ませる。

何がほしい? 僕は冷夏にそう聞く。

何もいらない。こうやって話していたい。

話すことなんて特にない。

だけれど、こうやって話すことにも意味があるのは、もう知っているでしょ?


リビングのソファで目覚める。毛布が二枚ある。タオルケットが一枚あった。夏はタオルケット一枚。秋と春は厚い毛布か薄い毛布。冬は厚い毛布か、二枚掛けで寝る。


冷夏の家は東京の吉祥寺から徒歩15分のところにあった。そこへ行くと懐かしい匂いがした。近所には申し訳ない程度に店がある。

二階建てのアパート。部屋が一つ、リビングが一つ、ベランダがある。冷夏と誕生日を祝ったとき、僕たちは互いに24歳だったが、お互いにバイトをして生きている。

時給2500円のバイトだ。一日6時間働いて、15000円。週に4日働いて60000円、月に25万円稼げる。

家の価格はずいぶんと下落した。冷夏のアパートの家賃は3万5000円。僕のマンションの家賃は2LDKで5万5000円だった。冷夏と同じ中央線沿いの高円寺にあった。

どうして二人で住まないの?と冷夏は僕に聞いたことがある。

さぁ?と僕は首を振っていた。

一人で寝たいんだ。冷夏は心の中で言う。

違うよ。二人で会った時の楽しみを増やすためさ。一人暮らしの経験がなかったからね。寂しさも知らない。僕は心の中でそう言った。

何となくだが、お互いに相手が何を考えているのかわかってしまう。それくらい心の中には何もない。

僕の心なんて、皆藤くんと冷夏に呼ばれて触れられても、あ、でもそれは昔の話で今なら暖かさを感じる。

革命を起こした頃は長い記憶の中だった。街にはやけに人が少ない。みんな都会にいた人間たちは地方へと散らばっていった。都市なんてない世界だ。にぎやかなこともない。

ただ毎日僕はバイト先で、それもとても広い東京の西にある農園なのだけれど、そこでいろいろな果実や野菜や穀物を作る。それだけで生きていける世界だ。

たまに魚を釣ってそれを食べる。肉なんかは野生のイノシシを捕まえて食べるくらいだ。仲間うちで分け合う。

金なんて使い道は特にない。冷夏は服を作っていた。他にもいろいろと仕事はあった。だから三年くらいで転職をする人も多い。皆めいめいがやりたいことをやった。

子供が生まれたら学校に通わせる。そこにも雇用があった。先生は彼らを安全に遊ばせる。それでたまに社会のことについて、いろいろな歴史について、言葉や数字を教えた。

めいめいの子供はいろいろなことをして遊んでいた。植物を育てたり、虫を集めて飼ったり、走り回ったりした。


おはようのあいさつで僕は農園の中へと入る。バナナだったり、小麦などが広い敷地の中に植わっている。農業機械を走らせて手入れを行う。時間差で種をまき苗を植え、そしてその苗を畑につぐ。忙しい作業なんかじゃない。ゆったりのんびりとみんなでコーヒーを飲みながら行う。

木の丸テーブルに椅子を置いて、バナナを食べる。今は7月でちょうど収穫の時期だった。適当な量を作り適当な量を売る。働きたくなければ国が補助金を出してくれるが、まぁ楽な仕事なので、皆それぞれ励む。

僕は機械を転がした後に、バナナを片手に鼻唄を録音していた。

何してるんだ?と一人の男が僕に聞く。

作曲だよ。と僕は言う?

曲なんか作ってどうするんだ?

さぁな?自分で聴いて楽しむ。それでいい。

まぁな。男はそう言って去っていく。

別に誰も僕の作った曲になんの関心も払わない。そういう世界だ。だけれど、僕は自分で作った曲をこよなく愛している。

冷夏はたまに僕に自分の作った曲を演奏させる。うっとりとその曲を冷夏は聞き、そして僕の曲とつなぎあわせたりなんかして音楽を楽しむ。

ギターとピアノとバイオリン、あとはウイスキーと煙草さえあればいい。僕はそう言った。

私はね。あまいトーストが好きなの。はちみつとバターを塗った。コーヒーもいいわね。冷夏はそう言う。

ショートケーキを僕は仕事場で昼に食べていた。イノシシの肉を薄切りにして塩をまぶしたやつだとかをおかずにした。

テーブルの上にはビールがあった。欲しいものなんか倉庫の中にいくらでもある。バイオリンまである。

めいめいが好きなことをして時間をつぶした。それでも植物の手入れには金がかかるし、就業時間はまだ残っている。

釣りにでもいくか?一人の男がそう言い、5人くらいで車を走らせ、川に向かった。

きらきらと水の表面が夏の太陽に照らされている。美しく、そしていかにも自然的だった。美しいものは自然的だ。岩肌の色合い。滑らかに光っていた。虫が水の中を漂う。木々の葉や岩肌のコケなんかがグラデーションを彩る。

僕は持ってきた餌をつけて、釣り竿を川に放りこむ。

今度は海に行こうか?と僕は提案する。

悪くないね。船を出そう。仲間の一人がそう言った。


冷夏はテーブルで夏みかんを食べていた。柑橘の甘い匂いがする。砂糖のような甘さとは違うと彼女は言っていた。

それは酸っぱさと甘みの入り混じった、なんというか、夏の食感。そう言って冷夏は笑った。

冷たい夏と書いて冷夏。なんとも皮肉な名前だと僕は思った。

そういえば僕の名前も皆藤。変な名前だと昔から思っていた。静かに時は流れ、夏草の匂いも夏の始まりを告げる風も雨が降った後の匂いも懐かしさを感じさせる午後も何もかもが好きだった。

ねぇ、今度海に釣りに行くんだ。

私も行きたい。

じゃあみんなで行こうか。

嘘よ。

なんで?

本当はこの暮らしが

好きじゃないの?

どうして?

君の作った世界だから。もっと美しく幻想的な現実が

ねぇ。僕は訊ねる。

何?

幻想より美しい世界なんて

あなたが作ったのよ

この世界を?


夢から目覚める。布団の匂いがする。朝の日の光が窓から射す。きらきらと眩しい。昨日見た夢の中で僕は農園で仕事をしていた。冷夏という美しいツンデレな彼女がいた。

布団の隣で眠るのは奏という頬のふっくらとした女の子だった。

僕は目覚め、奏を寝かせたまま、顔を洗い歯を磨く。

ねぇ?

何? 奏。

昨日ずっと眠っていたのよ。

え?

あなたは昨日目覚めなかったの?

じゃあ今日は?

あさって。

本当に?

嘘。

僕はにやりと空笑をして冷蔵庫からベーコンと生卵を取り出して、フライパンで焼く。

ふいに奏が泣いているのは僕はキッチンから見ていた。

何が悲しいの?

別に。

どうかしたの?

別に。

なにか?

うるさい。

そう言って奏は布団に潜り込む。


僕はベーコンエッグを作り終えたあと、フライパンをそのままにして奏の布団の中に潜り込んだ。

何?けいちゃん?

ん?

僕は奏の腕に触れる。

恥ずかしそうに布団の中で体を丸めている奏の体を僕は優しくそっと慎重に包み込む。

うっと奏は息を吐く。

何?恥ずかしいの?

奏は僕から目をそらす。じっとりとパジャマに汗をかいている。僕はハーフパンツにティーシャツ姿だった。

軽くペニスが勃起していた。奏は鋭い目つきで僕の胸のあたりを見ていた。

何だよ。僕はそういう。

あのさ?奏が少し怒る。

何?

触んないで。奏が照れ隠しでそういうのが少し可愛かった。

僕は布団から這い出て、床に体を寝かせて仰向けになった。

疲れた。

奏は布団から顔を出し、僕の横顔を見ている。

少し頬が赤くて目つきが鋭い。やっぱり僕は奏のことが好きなのかな。

奏は前ボタンが上から少し外れた姿で、布団から上半身をだす。

隆起した胸が少しいやらしくて谷間が見える。

僕は奏の視線に気づきながら視線を天井にそらす。

ゆっくりと時が流れる。初めにどちらが口を開くのか窺っている。

あのさ。奏が言った。

ん?

なんでもない。

奏がくるっと後ろを向いた。

布団から体の後ろがはみ出ている。ふっくらとした大きめのお尻だったり、柔らかそうな背中だったり、つくづく女の子の体に惹かれてしまう。

朝ごはんもってきて。

顔洗ってこい。僕はそう言って、体を起こした。

パジャマ姿の奏は髪をくしゃくしゃと手で触りながら、洗面台の方へ歩いて行った。

僕は後ろ姿を見ながら、起き上がった。

またキッチンへ行って目玉焼きを載せるトーストを焼く。

チンと音がするとパリパリに焼けたトーストが出てきた。

皿の上に目玉焼きを載せたトーストと四分の一に切ったトマトを二つ載せる。

奏はトイレを済ませた後、リビングのテーブルにパジャマ姿のまま坐った。

僕は皿を二つ手に持ち、それをテーブルの上に置いた。


けいちゃんしんでよ。奏はやけに強い口調で僕にベーコンエッグをかじりながら言った。

うそっていえよ

うんと頷いた

ぼーぜんとみていた。あまりの衝撃に僕は笑った。皮肉な笑みを浮かべていた。

そうやって

知っている

明るいのが僕。悲しいのは思い出、過去。テーブルの上にあるのは抗鬱薬だ。俺はいつも夜寝る前にそれを飲む。飲んでも気分が晴れず、朝ひととき空気が澄んだのを感じる。

いつかお薬から離れられるといいね。奏はそう言った。

俺は頭の中でガンガン音楽を鳴り響かせていた。

うるさい。だるい。しにたい。

だけど強い。

奏はうれしそうにほほえむ。

僕はゆっくりと席を立った。いきおいよく皿をシンクにぶちまける。ベーコンエッグもトーストもぐしゃぐしゃになって沈んだ。

僕は奏に涙一つみせなかった。

奏はそれでも笑っていた。

知っている。

辛いのは。

嘘だよ。俺は心の底からかっこいい姿を夢想しているだけだ。

今は?

2018年

俺が作った時間だ。お前らはその中を生きている。

あなたの世界は、あなたが見ているの。

ツンとすねた奏の頬に僕はキスをした。

そういうのが好きなのね。

その時、僕は奏の心の声を聴いた気がした。


僕はテーブルの上にあった抗鬱薬を飲む。そのままベッドに眠り込む。

どうしたの?奏がやってくる。

だるい。と心の中で言う。

そう。奏は笑う。


僕は部屋のパソコンを叩き始める。

いつか終わるストーリーにしようかと考える。

人生の数だけ小説があるのなら、僕も生涯にわたって小説を書き続けるのだろうか。

いわゆる形式の中で言葉や音楽といった枠に制限されながら僕は作品を積み上げてきた。

どれも過去に比類しないようなものだった。

哲学的な観念にしてもいや、僕のは法則だった。



2019年2月。

外は冷たい風が吹いている。

一戸建ての部屋の中で僕は閉じこもり、ソファで音楽を聴いていた。

僕の交響曲の初演だった。

僕の手にはありあまる名声があった。

妻の由衣が僕の元へお茶を運んできた。

ありがとう。

ん?

え?

何が?

いや、お茶が

そう言って彼女は出ていった。

オーディオと映画とインターネットと本と

後はなんだろう

僕に必要なものはベッドでのセックスとそれ以外に何かあるだろうか。

一緒にお風呂に入ったり、体を洗ったり、それはすごく楽しそうに思えた。

きらきらと輝くのは空と太陽。

僕たちの庭に咲く花。

音楽は風、木々の揺れるさざめき。

由衣とこの家に住み始めてちょうど半年目。

まだまだぎこちない二人の生活は。

温かくてほんのり寂しくて。

大人になったのかなと僕は思う。


僕は由衣と共に眠りにつく。

テーブルの上には白紙の原稿用紙。

音楽を相変わらず作り続けていた。

小説をやめてから時間が経つにつれ、僕はもともとの夢だった音楽をやり続ける。

小説も学問も

哲学はまだ続けていた。

才能の火は

静かに引き出しにしまった。

僕は由衣と夜に布団の中で話をするのがなによりも楽しかった。

何か話すことは?

僕は由衣の手を握っていたが、その方がずっとよかった。

ねぇ

―――――――――――――――――――――――――

と彼女が言って僕は泣いた。


どうして泣いているの?

だって嬉しいから

頭の中で?

うん


僕の頭の中にぎっしりつまっている妄想も全て優劣をつけたいだけだって彼女がいうもんだから、僕はそんなことはない人には愛だの恋だの利他的なものもあると僕は言った。


優れたものに惹かれ、劣ったものを遠ざけると彼女は言う。


相変わらず僕たちは夢の中で話をしていた。


めいめいが頭の中に夢を抱え込んでいたのだ。






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